158陸王学園戦18延長線上
風に、湿り気が混じり出した。
気づけば上空にはどす黒い雲が蔓延している。
雨の匂いだ。
笑静「一雨来るぜ、こりゃあ」
十回表、陸2-2将。
将星が十度目の守りにつく。
真田がふらつく野多摩を支えながら外野までいく、その様子を馬鹿にする降矢。
だけれども、そんな降矢もすでにユニフォームは土で黒く汚れきっていた。
マウンド上は西条、疲労が蓄積してきた。
一週間たっぷりと休んだはずだったが…、先ほどからじわりじわりと肩が重くなってきた。
やはり、連戦になると辛い、作ったばかりの左肩は悲鳴を上げるのも速い。
青竜戦で八回を投げきった左腕は思った以上に回復が遅い。
西条(ちっくしょお…悔しいけど、あの真田の言うとおりや。球威が明らかに落ちてきとる)
ピッチャープレートの土を払う。
西条(だけど、もう後ろはいないんや。打線に期待して俺がここで踏ん張らんと)
『七番、ライト、渡邊君』
この回、なんとしても三人できってとる。
笑静に回す前に、攻撃を終わらせる!
西条「ぉおうりゃあ!!」
咆哮とともに吐き出される白球、それが相川のミットにおさまる。
バシィィッ!!
『ストライクワンッ!!』
相川(ちっ…やはり、球威が落ちてるのは目に見えて明らかだ。肩も作らせてなかったスクランブル登板だから仕方ないか…)
渡邊(打てる…なんとしても上位に繋いで、ここで一点を取る。九流々先輩の『弧月』まで出したこの試合…なんとしても勝たねば!)
西条、第二球!!
西条「づあああっ!!」
ビシィッ!!
ボールをリリースした時の弾いた音が響く。
球種は…スライダー!!
キィィンッ!!
しかし、それを跳ね除ける快音!!
バッターは見事、スライダーを弾き返す!
相川(ちぃっ!)
西条「ま、まずいっ!」
西条が振り向いた方向は…レフト!
西条の血の気がひいた。
西条「野多摩だ…!」
『ワァアアーーーーッ!!』
野多摩「…!」
視界の左側、ボールが転がっているのはわかるが、体が動かない。
一歩出すごとに、体がふらつく、はっきり言ってたってるのがやっとだ。
『ワアアアーーッ!!』
バッターはすでに二塁に到達しようかという所、焦りが余計に動きを鈍くさせる。
野多摩「う、動いてよぉ〜〜!!」
涙目になりながら叫ぶも、足は動かない。
ゆらめく世界に、呻きだけがむなしく届く。
真田「…どけっ!!」
野多摩「!?」
そこに吹く、一陣の風。
真田が、すでにレフトの場所に追いついていた。
九流々「渡邊!!三塁は無理ナリ!!」
渡邊「!?」
打者は、二塁を回ったところだが…オーバーラン!
御神楽「刺せるぞ真田!!セカンドだ!!!」
真田「…!」
真田は無言で右腕を全力で振り回す!!
ボールは地を這い、砂煙を上げて、飛んでいく。
ちょうどショートの手前でワンバウンド。
そして必死で塁に戻る渡邊と御神楽…タッチの勝負!
渡邊「くぅっ!!」
御神楽「遅い!!」
バシィッ!!
『アウトォッ!!!』
『キャアーーーーーッ!!!』
将星側スタンドから黄色い声援が上がった。
野多摩「…あ」
真田「動けないのに、無理に取りに行こうとするな。邪魔になるだけだ」
野多摩「ご、ごめんなさいぃ…」
真田「今は大人しくして、回復するのを待つんだ」
しょぼん、と気を落とす野多摩に、真田は肩を叩く。
驚いたような顔で、そちらを振り向いた野多摩。
真田「…任せな、仮にも俺は桐生院だった男だぜ」
野多摩「え…?」
照れたように、地面を蹴飛ばすと真田は守備位置に戻った。
降矢「お前がゲイだとは思わなかった」
真田「違う」
降矢「熱い友情キャラでも無いと思う」
真田「勘違いするな!こんなところで負けていては、桐生院には一生かかっても勝てん」
へぇ、と意地悪く笑う降矢。
ここに来て、将星の士気がまた一つ、上がっていく。
西条「…」
だが、以前西条の球威が落ちてきているのに変わりは無い。
少しずつ酸素を取り入れる感覚も速くなってきた。
相川(やはり…スライダーもうほとんど曲がらない。…ストリームとストレートで耐え抜くしかないか)
『八番、レフト、井上君』
ロージンバッグをかなぐり捨てる。
ここまで来れば…。
西条「気力の勝負!!」
ズバシィッ!!
内角低めに、ストリームがビシリと決まる!
『ストライーック!!』
西条「しゃおらあっ!!」
西条は左拳を力強く握った!
一方、陸王ベンチ。
長嶺監督「ふむ…今のプレイでまた西条君に気合が入ったのぉ」
笹部「…」
長嶺監督「ほっほ、打者に、投手を狙うように指示をして来てくれんかの」
笹部「先生、相手投手はすでに球威が落ちてきています。そこまでしなくても…」
長嶺監督「笹部」
ぎょろり、と目が笹部の方を向く。
今までの温和な目と違い、鋭く光っている。
長嶺監督「容赦すれば負ける、それが勝負というものじゃ」
笹部「しかし…井上はどちらかというと自由に打たせた方が力を発揮するタイプ。ここは…」
長嶺監督「笹部、わしの采配に今までミスがあったかの?」
笹部「い、いえ」
長嶺監督「ならば従いなさい。わしの言うとおりにやれば、勝てる。今年はあの桐生院をも破る事ができようて、ほっほ」
それ以上、喋りはしないが、納得いかないまま笹部は井上に伝令をしにいった。
確かに…監督のいう事に間違いは無いが、野球をプレイするのは選手ではないのか…?
笹部(…いや)
笹部は首を振った、夏ベスト4までいけたのも監督の采配があってこそ。
策略を破れられた先ほどの吉田のあの言葉と、純粋な瞳に惑わされている。
とにかく考えるのは、勝ってからだ。
笹部は井上に伝言を告げた、投手を狙えと。
『プレイ!!』
相川(伝言か、嫌な予感が全開だな)
穏やかな物腰からは、何を考えているか全く予想がつかなかった。
…いや、ここまで来たら西条にのりきってもらうしかない!
出したサインは、ストレート。
相川(さぁ、どう出る!?)
西条、第一球!!
西条(バントッ!?)
打者は片手をバントに添えている、バントと判断した西条は無意識的にダッシュ!!
だが!
西条「!?」
相川「バスターだと…西条!」
西条「!!」
キィンッ!!ドコォッ!!
御神楽「!!」
大場「ああっ!!」
捉えた打球は、西条の左肩に命中。
思わずうずくま…る、前に一塁へ送球!!
バシィッ!!
『アウトーッ!!』
吉田「お、おい!西条大丈夫か!!」
西条は肩で息をしながらも、親指を立てて見せた。
相川(ぐ…この状況で…もう後はないのに、投手を狙ってくるか〜〜〜…っ!)
相川はちぎれるぐらいに唇をかんだ。
高校野球ですることじゃねぇ、と吐き捨てる。
『九番、サード、竹林君』
西条「はぁ、はぁ、はぁ…」
とりあえず応急処置で冷却スプレーを肩にぶっかけた。
だが、降板するつもりは無いし、諦めるつもりも無い。
バシィンッ!!
『ボール!!』
相川(駄目だ…明らかに球威が落ちてしまってる…ここまでか!)
吉田「ぐ…」
原田「うぅ〜…」
その時だった。
『西条君…頑張れ!』
ぼそり、と誰かが応援席で呟いた。
『西条…ファイトーッ!!』
『負けないでーーっ!!』
西条「…?」
それは、やまびこのように広がっていき。
やがて、大きな大きな西条コールになった。
『さーいーじょー!さーいーじょー!!』
西条「…ぉい」
目が丸くなった。
相川「西条、ここまで来たら後は気力だ!裏は俺からの攻撃…なんとしても降矢に回してみせる!!」
西条「相川先輩…!!」
『さーいーじょー!!さーいーじょー!!』
振り絞れ、ここで投げなければ何の為に野球をやり直したんだ。
抑えろ、抑えるんだ。
どうやって、とかじゃなく、抑える!!
西条「くんのぁあああああ!!!」
バシィッ!!!
『ス、ストライク!!』
長嶺監督「球威が持ち直した…?」
西条「気合や!!」
バシィッ!!
キンッ!!
カキィッ!!
二球ファールで粘られてからの、五球目!!
西条「大人しく抑えられろってんだ…よぉっ!!!」
ストレート!!
バシィィィィッ!!!
『ストライッ!!!バッターアウッ!!』
バッターのスイングは見事に空を切る、三振!!
西条「おああああっ!!!!」
叫びながら、拳を前に突き出す。
どうだ!!といわんばかりの気合!!
これで、二死…だが!!
笑静「大人しく終わってたまるかよぉ、ここで決着をつけさしてもらう」
『一番、セカンド、笑静君』
西条(ぐぅ…なんて嫌なバッターがここで出てくるんや!)
相川(大丈夫だ西条、コイツはバント以外何もない!!)
相川の出したサインで、野手全員が前に出てくる。
笹部「こ、これは…!!」
徹底的なバントシフト…いや、笑静シフト!
笑静「面白いことやって、くれるねぇ」
相川「これでもうバントはできまい」
笑静は、息を一つついた。
自分がこうしてレギュラーに出れた理由は、バントが上手かったからである。
一年の初めに肘に打球を当てて負傷、それ以来まともにスイングのできない体になった。
しかし、彼は諦めずにひたすら自分でもできるバントと、守備に磨きを駆け続けた。
この男も、そういう意味で『諦めなかった男』なのである。
西条「…」
笑静「…」
初球だ。
二人の呼吸が重なった。
西条「来いよぉ!トリック野郎ぉぉぉ!!!」
笑静「さーて…!!」
西条は持てる力の全てを振り絞って左腕を振り下ろした!
球種は…!
ク、ククンッ!!
ストリーム!!
笑静「絶対的不利な場面でも、俺は塁に出る!それが、トリックプレイだ!」
コキィンッ―――。
ひどく静かに金属音は響く。
笑静がバントした打球は、ゆっくりと前進ダッシュの西条の頭を越えた。
笑静「バント版―――弧月!!」
西条「ちぃぃっ!!」
振り向いた先に、ゆっくりと転がるボール…!!
笑静「一塁はもらったぜ!」
御神楽「させぬわっ!!」
しかし、御神楽がすさまじいスピードで突っ込んできていた。
原田もすでにファーストのカバーにつこうとしている!
素手で拾い、送球!!
バシィッ!!
『セーーーーーフ!!』
『ワアアアーーーッ!!』
だが審判の腕は横に開く、御神楽が小さくうめいた。
御神楽「ぐぅっ…!」
西条「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ!」
相川(まずい…まずいぞ!!)
なんとしても、九流々にまわしてはいけない。
いけない…が!
バシィィッ!!
『ボール、フォアボール!!』
西条「…!!」
ついに、ストライクが入らなくなった。
西条はすでに先ほどの笑静に全ての気力を使っていたのだ。
西条「はぁ、はぁ、はぁ」
そして、ようやく気づく。
ひどく雨が降り始めていることに。
ドザアアッ―――。
雨霧の向こうにかすかに見える、無限軌道…!
『三番、ピッチャー、九流々君』
十回表、陸2-2将、二死満塁。