109サムライ
『バッター、遊佐君に変わりまして、南雲君』
このアナウンスに場内の客…おもに桐生院側の客はざわついた。
「な、南雲?」
「おいおい!次は五番の遊佐だぜ!?」
「あえて、そこで変えるって事は、何かあるのか?」
「ありえるな…あの笠原監督が何も無しに動くはずがないからな」
そのざわめきの中、和久井はマウンド上で膝をついていた。
やまない腰の痛みに、何度も顔をしかめる。
和久井(ぐ…こ、腰が…!?やはり、さっきの無茶な守備でか…)
やはり原因はあの八回、灰谷のピッチャーの上を越える打球を処理した時だ。
思い切り状態をそらした無茶な状態で捕球、そしてそこから送球した、という無茶なプレイの代償だった。
疲労が蓄積していた体に、さらに負荷を与える結果となった。
和久井(くそ…だからといって…)
和久井は歯を食いしばり、立ち上がる。
背中からの和久井コールを裏切るわけにはいかない。
キリキリと痛む腰を無理矢理に言うことを聞かせて奮い立たせる、俺は横濱の、神奈川のエースだ。
後、一つアウトをとるだけじゃないか、そんな簡単なことが、できないはずがない。
俺は、俺は、エースだ。
『さぁ、和久井!後アウト一つだ!体を奮い立たせ、マウンドに立ち上がる!』
目の前の敵を、しとめるだけだ。
そして、目の前の敵、南雲は…。
南雲(おそらく和久井投手は、三球勝負で来るぜよ。…ただ、あの気迫の球を打ち返すのはそう簡単じゃないぜよ)
相変わらずトレードマークの爪楊枝はたったままだ。
南雲(しかし……監督がずっと言っている通りストレートなら、打ち返すことはできなくはないぜよ)
問題はそのストレートを打ち返すことだ、とにかく南雲は自分で志願した以上100%打たなければならない。
そして南雲には相手に『ストレートを投げさせる策』があった。
和久井「行くぞ…お前が、ラストバッターだ!!!」
『和久井、第一球を投げたぁ!!球種は…スライダー!!』
ググンッ…バシィッ!!
『ストライク、ワンッ!!』
ボールは利き腕と反対の方向に曲がり、ミットに収まった。
南雲(あれだけ疲弊していて、このスライダーを投げちゅうとは…)
和久井は大きく息を吐き出した。
ついに右手まで痛み出した、おそらく先ほどの大和の球を捕った時だ。
そのせいでストレートは急激に威力を落としてきている、先ほど神野に打たれた球もそれだった。
和久井(クソ、ストレートはもう投げれないか…)
和久井の握りは、カーブ。
『和久井、セットポジションから第二球!』
和久井「んがあっ!!」
ボールは山なりの起動を描いて曲がり落ちてくる。
ボールは最早勢いをなくし、カーブというよりはスローカーブに近い。
コースも甘く、ど真ん中から低めに落ちてくる打ちごろのコース、打ち返せば長打は間違いない!
宗「打て南雲ぉーー!!」
灰谷「叩くんだっ!!」
―――パシィッ。
…しかし!南雲は手を出さないっ!
『ストライク、ツーーーッ!!!』
『ワァァァァァァァーーーーーーーーッ!!』
球場内が一気に盛り上がり『後一球』コールも起こりだす、ついに和久井が追い込んだ。
『さぁ!ツーストライクと和久井が追い込んだ!!』
堂島「ぬぅっ!!何故今の球を打たんのだ!」
宗「ぐああーっ!これで、追い込まれちまったじゃねーか!!」
灰谷「く…あんな球、もう来ないぞっ!!」
大和「…」
真田(いや…南雲には何か考えがあるはずだ。アレくらいの球、打ち返せない奴じゃない…ってことは、狙っているのは…)
真田(一発逆転の…ホームラン!?)
まるで、わざと追い込まれたように南雲はツーストライクとなっても冷静さを失ってはいない。
南雲(問題は、和久井投手にストレートを投げさせることぜよ…ストレートなら…一発も……)
ただ、先ほどの大和の打球で右手を傷め、さらにそのストレートを神野に打たれたとなっては、まず間違いなく和久井はストレートを投げてこないだろう。
…なら、投げさせればいい!
スチャ。
大和「っ!」
灰谷「!?」
神野「なっ!」
宗「なんだとっ!!」
和久井「―――!?」
南雲がとったスタイルは。
左打席から左足を後ろに下げ、上体を低くする。
そして、左手でバットを逆手に持ち、右手でグリップを添える。
まるで…その格好は。
「な、なんだありゃあ!!」
「見たことないぞっ!?」
笠原「い、居合い抜き…」
望月「!?」
堂島「ど、どこまでふざけているのだっ!!!」
球場内がざわつく、もう『後一球』の余裕は和久井から消えていた。
代わりに、徐々に増えていくこの南雲という男の不気味さ。
和久井(な、何のつもりだ!コイツ!!)
そのまま、居合い抜きの体勢で構えたまま、微動だにしない南雲。
和久井は何か得体の知れない恐ろしさを感じていた。
いや、この土壇場でこの離れ業だ、何も感じない方がおかしい。
和久井(ふぅ…)
和久井は天に向かって息を吐いた。
そして冷静に考える。
和久井(いーや、打てるはずが無い。あの構えで打とうと思えば『最終的には右腕一本で打たなければならない』からだ)
そう、居合い抜きを思い出して欲しい、バットを刀と見立てるならば、右腕で一本で振り切らなければ最後までフォロースルーできない、試してみれば解る。
両手を添えていたならば、最後まで振りぬこうと思えば体ごと回っていかなければならない、そしてバッティングに必要なバットの返しができなくなる。
和久井(そうなれば『ストレートを打ち返すのは至難の業』だ!!)
そう、ストレートで勝負すればおのずと力負けして内野ゴロが関の山だ。
和久井はそう決意して、セットポジションに入った。
そこまで、考えて、和久井は恐怖した。
和久井(…す、ストレート!?ま、待て!今の俺のストレートで通用するのか!?)
そうだ、大和の打球で右手は痛めている、先ほど神野にその威力を失ったストレートを弾き返されたばかりじゃないか。
しかし、すでにストレートのサインをキャッチャーに送った上、自分はセットポジションに入っている、ここで動作を止めればボークだ。
和久井(わ、罠にはめられた―――!!)
どうする?どうする?
直球か、変化球か、勝負するか、勝負しないか。
逃げている体力はない、あの構えにはストレートで勝負すればほぼ確実に抑えられる、しかしストレートはすでに威力を…。
和久井(…いや、俺は俺を信じるしかないっ!!)
和久井は指を縫い目に合わせる。
―――覚悟は決めた!
この瞬間、甲子園球場内に居た全ての人間が和久井の一挙一動に目を配った。
和久井「…これが、ラストボールだっ!!!」
『和久井、セットから、最後の一球となるかっ!!投げたぁーーーーーーーーーーーーっ!!!』
狙いは。
南雲の狙いは。
―――ビヒュンッ!!!
和久井(―――ストレート、か)
打球は、高々と舞い上がった。