082冬馬君の秘密
目の前にはシャツをたくし上げた少年、その胸は普通というよりも明らかに膨らんでいて真っ白なさらしが巻かれている。
野多摩「…」
冬馬「…」
そのまま二人目を潤わしたまま、静止してしまう。
先に動いたのは野多摩だった。
野多摩「ご、ごめん〜!そ、外出るから〜!」
赤い顔をしながらすぐに部屋の外に出て行く、慌ててふためいているのは誰が見ても明らかだ。
残された冬馬の中にはたった一つの言葉しか思い浮かばなかった。
『バレた―――』
確かに自分は女顔だ、でも自分で男と言い続けていれば流石に疑わないだろうという自信は少しだけあった。
降矢、相川にもばれなかったのだ、大丈夫だろうと思っていた。
しかし、こんな所でバレてしまうとは…気を抜いた一瞬の不覚だった。
冬馬「ま、待って!!」
ガシィッ。
そのまま、出て行こうとする野多摩の腕を掴む冬馬。
野多摩「と、冬馬ちゃん〜!?」
冬馬「お、お願い!誰にも言わないで…!!」
野多摩「…」
何故冬馬が自分の性を隠したいのかはわからなかったが、必死だというのは野多摩にもわかった。
とりあえずドアを出るのはやめ、冬馬に背中を向け言った。
野多摩「とりあえず、シャツ着て〜」
冬馬「…あ」
部屋のランプが今は何故か薄暗く感じる、窓の外では何かの動物の鳴き声が聞こえた。
目の前に座っているのは涙目で頬を赤らめた少女、一度わかってしまえば逆に男として見ろ、というのが無理だ。
野多摩は目線を上に上げられないでいた、それでもまだ野多摩は女性に対して免疫があるだけマシだろう、その分緒方先生と同じ部屋になることを許された。
良くも悪くも、まだ幼いのだ。
それでも今さっきの目に飛び込んできた映像はかなり衝撃的だった、今まで男として接してきた友が、チームメイトが、女だというのだ。
いくら幼い野多摩と言えども、少年から急に可愛い少女へと変わった冬馬には胸をドキドキさせる他に無かった。
野多摩「え、えと〜…」
冬馬「…」
そして先ほどから野多摩の上着の端を握られたまま何も喋ろうとはしない冬馬、いや何も喋れないのか。
冬馬は口から出すべき言葉を必死に探していた、どんな言い訳も良案とは呼べない。
女が男の振りまでして男に混じってるなんて、変だとしか思われない。
野多摩「とりあえず、ボクは誰にも言わないから〜」
冬馬「本当?」
ぐぐっと、上目遣いで目を覗き込まれ思わず赤面してしまった、可愛いとしか言いようが無い。
野多摩「あっ、あ〜…う、うん。内緒だよ」
冬馬「…本当?」
野多摩「…」
野多摩も何を話せばいいのか、困っていた。
理由を聞くのも野暮な話だ、でも今まで隠し通してきたくらいだ。
相当の理由があるのだろう、男の子に混じって生活するというのは相当ストレスもたまる、覚悟か決意か、なにか冬馬にそこまでさせるものがあるのだろうが…。
野多摩「………ど、どうして、こんなこと〜?」
しかし、この気まずい沈黙には耐え切れない、意を決して野多摩は口を開いた。
冬馬「…だって、女の子は野球できないもん」
すぐ側から、今は女の子の声としか聞こえない涙声で囁かれる。
野多摩「ソフトボールとか、あるんじゃないの〜?」
冬馬「野球じゃなきゃ駄目なの!!」
急に叫ばれてしまい、野多摩は目を点にした。
冬馬「…あ、ごめんなさい…」
野多摩「ううん〜、気にしないで〜」
冬馬「俺………私、どうしても対戦したい人がいるの」
野多摩「どうしても対戦したい人?」
冬馬「うん…」
小学校の頃のおぼろげな思い出。
夕暮れの河川敷で男の子と女の子がキャッチボールをしていた。
???「わー!ごめんナギちゃん!」
ナギちゃんと呼ばれた男の子は、女の子がとんでもない方向に投げたボールを走って取りに行った。
ナギちゃん「いいよいいよ!それにしても優はコントロール悪いな〜!」
優、と呼ばれた栗色の髪の女の子、顔立ちから見てどうやら冬馬のようだ。
ナギちゃんはすぐに帰ってきた、中々足が速い。
???「う〜…言わないでよ。これでも私、ピッチャー目指してるんだよっ」
ナギちゃん「お前がピッチャー?!あはは、こんなにコントロール悪いのにどうするんだよ〜」
???「う〜う〜!」
ナギちゃん「あははは、大丈夫大丈夫、練習すればすぐに上手くなるって」
野多摩「ナギちゃん?」
冬馬「うん、『波野渚』君。…私に野球を教えてくれた人、小さい頃から知り合いだったの」
ナギちゃん…波野渚とは、家が隣同士のせいもあって、冬馬とは幼稚園の頃から仲が良い幼馴染であった。
波野、冬馬はその後小学校からリトルリーグに入りめきめきと頭角を現していく。
そんな小学校最後の六年生の頃…。
冬馬「ナギちゃん!!」
ある日、今日も野球の練習を終え、家に帰る途中だったが、冬馬はいきなりなみのにくってかかった。
波野「うわ!?ど、どうしたんだよ優?」
冬馬「ナギちゃん…女の子はプロになれないって本当!?」
波野「!!」
この頃の冬馬はすでに弱いチームだったが、左アンダーのエースとして君臨していた。
そして冬馬は練習中、女子が野球をやるのを面白く思わない男子達のひそひそ話を聞いてしまったのだ。
―――どうせ女が野球やったって仕方無いのにな―――。
波野「…うん………それに、中学校からも、もう優は野球、できないんだ」
冬馬「う、嘘…」
嫌だった、今まで野球が楽しかった、楽しくて仕方が無かった。
その野球を急に奪われるというのだ…それに野球を教えてくれた波野ともう野球ができなくなる、それが何よりも嫌だった。
少しでも、この少年と同じ空間で時間を過ごしたい、それはあまりにも小さすぎて形にもならかった淡い想いだったのかもしれない。
冬馬「…嫌、嫌だよそんなの!」
波野「俺だって、嫌だよ!!」
波野の右手も震えていた。
波野「俺だって優と野球できなくなるのは、辛いよ…。でも、どうしようもないんだ」
冬馬「なんで!?なんで!?いつだってナギちゃん諦めなかったじゃない!…諦めたらそこで駄目になっちゃうって…」
波野「優…」
波野の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
冬馬「…」
波野「こればっかりはどうしようもないんだ、ごめん優!!」
波野は走り出した、一番悔しがっていたのは波野だった。
それでも野球が好きで好きでたまらなかったこそ、野球の事を知りすぎた。
―――女が野球なんて、できる訳無い―――。
そう、頭から決め付けてしまっていた。
残された冬馬も泣いた、どうすればいいかわからなかった。
一番信用していた波野に、見放された…そんな気がして。
冬馬「私はその後、家の都合でこっちに引っ越してきたの…」
野多摩「家の都合?」
冬馬「うん、お父さんが外国に単身赴任で言っちゃったから、こっちのおばあちゃんのお家に今は住んでる」
野多摩「それで〜…?」
冬馬「やっぱり中学でも野球するなんて無理だった、周りの人からも変な目で見られて…だからお母さんと学校の先生に相談したんだ」
何ヶ月にもわたる説得のおかげで、ようやく母は折れた。
担任の先生も家族と話しあった上で男としてこの将星に入学する事を許した、そして今に至る。
冬馬「…やっぱり野球を忘れる事はできなかったんだ、だからずっと一人で練習してた。いつかマウンドに上がれることを夢見て」
野多摩「やっぱり、もう一度…その波野君と野球がしたいの〜?」
冬馬「それもあるけどね」
冬馬はぺろっと舌を出して笑った。
冬馬「今はもうナギちゃんはどこにいるかわからないけど、絶対に野球をやってたらどこかで会える、って信じてるから。グラウンドの向こう…”OVERGROUND”で」
野多摩「冬馬ちゃん…」
冬馬「それに、このままじゃしゃくだから、無理なんて言ってたナギちゃんを見返したいしねっ」
もうそこに涙は無かった。
ただ、降矢と同じ目の奥に光る炎が灯っているだけだ。
冬馬「…なんだか、話したらスッキリしちゃった、ごめんね野多摩君」
野多摩「ううん、気にしないで〜」
冬馬「でも、絶対に他の人に言わないで!」
野多摩「え、どうして?」
冬馬「どこから話がもれるかわからないし…それに、もし大事になったら私だけの責任じゃすまなくなるよ、野球部自体謹慎処分なんて事態になるかもしれないし…」
野多摩「あ〜…」
冬馬「それに余計な心配かけたくないし…知られたくない奴もいるし…」
そこまで言って何故か顔を赤らめた。
冬馬「知っているのは、理事長と保険の先生だけなんだ…俺に何かあったら…ってこともあるし」
野多摩「うん、わかった〜。…でも、先生ぐらいは話しておいたほうがいいと思う」
冬馬「へ?」
野多摩「緒方先生なら女の人だし、ボクのわからないことも色々わかると思うし…。それに一応大人の人だから、相談しておいた方がいいと思うよ〜」
冬馬「…うん、ありがと。野多摩君」
その後、二人は緒方先生に事の事情を話した。
最初は驚いたものの、すぐに快く理解してくれた、秘密は守ってくれるらしい。
そして何故か「青春ね〜〜!!」と感動して泣いていた。
その夜、冬馬は緒方先生とたっぷりスキンシップをとったらしい。
野多摩は鼻血が出て眠れなかった、とさ。
沖縄、三日目の太陽が昇…らない。
降矢と相川は外の轟音で目が覚めた。
ゴーーーー。
降矢「…」
相川「…」
二人して窓の目の前で立ち止まった。
そして頷き、カーテンをあけた。
ドッザァァァァァアアアアアア!!!!
降矢「うっわ…」
相川「…豪雨暴風、だな」
その日沖縄の上は、見事台風が通過するゾーンに入っていた。
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