068壊れた右手。






















将星高校、一年棟に彼はいた。

黒い短髪、決して目つきは悪くないが切れ目の目から覗く瞳は窓の外の風景を眺めている。

その左手に持っているのは、紙、だった、それは今朝、校門の前で渡されたものだ。








吉田「お願いします!!」

三澤「お願いしまーす!」

冬馬「よろしくお願いしますねっ」

御神楽「うむ、よろしく頼むぞ!」


朝っぱらから、ユニフォームの集団の声が空に響く。

降矢、そして突然能登が転校してしまい、部員が七人に減った事によって部員を再び集めなければ存続も危うい。


吉田「しっかし、突然能登が転校とは…連絡くらい寄越してくれてもいいのになぁ、柚子?何かちょっと寂しいぜ」

三澤「…う、うん、そうだね」

相川(やれやれ、わかりやすい女だ)


もろもろの事情はあるが、現在将星の部員が七人である事に代わりは無い。

今は早く試合をするために何とか生徒に対して声をかけなければならないのだ。


大場「お願いするとですー!…ああっ!避けていかないでくれとです!!」

県「大場先輩、女の子に渡しても駄目ですよ…」

大場「おおっ!そういえばそうとです!」

原田「しかし、こうやってみると…やっぱ一年生って少ないッスなー」

県「仕方ないですよ、元々女子高ですし…あ、そういえば原田君のクラスに野球をやってそうな人っていないんですか?」

原田「まさかまさか、皆大人しい人ばっかッス。大体進学目的で来た人ばっかッスからねー」

県「うーん…」

大場「おおっ!男子生徒来たとです!どぞどぞー」


大場は校門をくぐって歩いてきた一人の男子生徒に声をかけた。

もちろん、近くにいた女子はことごとく避けていく。


???「…え、いや、俺は…」

原田「おっ!西条君じゃないッスか!」

西条「…原田?そうか、自分は野球部やったな」


関西弁で応答した西条と呼ばれた男子生徒は、どうやら原田と同じクラスらしい。

中肉中背で、これといって特徴のなさそうな男である。


原田「西条君も、野球をやらないッスか?」

西条「…え?」


その言葉に、少しだけ西条は眉をしかめた。


西条「いや、俺は野球はもう…」

大場「そんなこと言わず、受け取るとです!」

西条「…は、はぁ」


大場の意味不明なオーラに押されてつい野球部募集のチラシを受け取ってしまった、もちろん、そのオーラの色はピンク色だが。









そんな感じで渡されたチラシを、放課後一人残った教室で開いてみる。


『さぁ、たぎる情熱をくすぶらせている君!いざ野球部に入って甲子園を目指そう!!連絡は一年職員室の緒方まで』

その文字に目を通すと西条は一つ間を置いて、大きくため息をついた。

西条「くすぶってる情熱、か…」






少しだけその言葉は的を得ていた。

実は何を隠そう彼は中学の頃、関西地方で野球に取り組んでいたのだ。

しかも関西で上位に入るシニアリーグのエースとして名を馳せ、プロのスカウトの目にも何度か留まることもある実力だった。

そんな彼が何故、名門校に行かずに、こんなつい最近共学校になったような高校に辿り着いたのか?

そして、何故野球をやっていないのか。




西条は自分の右腕を握り締めた。

少しだけ痛みが走る、その右肘。

そう、彼は中学で三年生にの夏に右肘の靭帯を切ってしまったのだ。



西条「…やりたくても、俺はもうできへんねや」


吐き捨てるようにそういうと、チラシを丸めてゴミ箱に捨てた。

決してやりたくない訳じゃない、でも自分で満足がいくプレイができる訳でもない。

痛くても投げる、と主張したが、医者にもこれ以上無茶をすると右腕そのものが動かなくなる危険性もあると指摘された。

西条に残された道は「あきらめる」ことだけだった。



自分には野球しかなかった、それをなくした今、彼は現実を彷徨うしかなかった、だからこんな野球の文字が一つも無いような辺境の地へ来たのだ。

しかし、その辺境の地でもついに野球の二文字を耳にするようになってしまった。



西条は両手で頭を抱えた。


西条「…どうしたらええねん!俺は…俺はは…やっぱり、野球をやりたいんや…」


あの将星ナインの目の輝きは昔の西条そのものだった。

そしてあの霧島戦の死闘の噂を耳にするたびに心の奥底で本当の自分の心の声が絶え間なく響く。

もう一度、マウンドに立たせろ、ボールを握り、ミットが弾ける音を響かせろ!

投手を、野球を、やらせてくれ!!



緒方先生「あら、どうしたの?もう放課後よ、用の無い生徒は早く下校しなくちゃ駄目よ」


その声にふと顔を上げる、視線を向けるとその先には大きな胸が…もとい緒方先生がいた。

これから部活動を見に行くのだろうか、そのたわわな胸を余計強調するようなジャージ姿だった。


西条「先生は、世界史の……」

緒方先生「あら?西条君じゃない。そうだ、西条君野球部に入る気は無い?」

西条「…」


入る気はある、やる気もある、だが体が、右肘が言う事をきかないのだ。


西条「俺は…」


その時、緒方先生の後ろにあった廊下の窓ガラスに、一瞬自分の姿が反射されているのが視界に入った。


西条「もう右肘が…………!!!!」


西条があげたのは右手、しかし窓ガラスに映った自分があげたのは『左手』。


西条「―――っ!!!」

緒方先生「ど、どうしたの西条君?」



もしかしたら、もしかすると…!

西条の心に、くすぶっていた情熱の『火』が灯った。

そうだ…その手があった!何故そんなことに気がつかなかったのだ!!!





西条「…よっしゃ!!やったるでーーー!!!」

緒方先生「え!?入部してくれるの!?…ってどこに行くの西条君ー!?」


気がつくと走り出していた。

廊下を一目散に駆け抜け、校門を飛び出し、すぐに自宅のドアを開け、物置を探り出す。

置き忘れてきた思いを、火を再び灯すのだ!




―――そして、物置の奥底にそれはほこり一つ無い状態で眠っていた。

かつて、自分がはめていた右利き用グローブ。

そして、それを『右手』にはめた!






西条「右があかんかったら…『左で投げたら』いいんや!!」


ヒントは鏡に映った自分。

本当にどうして今までそんな簡単なことに気がつかなかったのだ、と西条は笑みを浮かべた。

普通なら、そんなことはありえないと誰もが批判するだろう、だが一度心に灯った強い炎はそんなことなど知ったことではない。

西条はすぐに近くの公園に走り、端にあった公衆トイレの壁目掛け左腕を思い切り振り下ろした!


ポコーンッ。


球威も速度もコントロールすらもない、だけど投げる事はできる!

野球をできないわけじゃないのだ!


西条「…なんで気がつかなかったんやホンマに…!見てろ!俺は左投で将星のエースを目指すで!!」


もう一度、壁に向かって左腕を振り下ろした。


















その日以来、西条は公園で投げるようになった。

二日目は練習不足を補うために、十分にランニングをした後全力で200球、普通は肩を壊す無茶な練習具合だが、一日も早く野球をできるようになりたかった!

入部できる自信がついたらすぐにでも緒方先生のところへ飛んで行ってやりたかった。


パコーンッ!


投げたボールは若干昨晩よりも強い勢いで壁に当たった。

もともと野球用に体を鍛えてきただけに、上達は早い…だがこれくらいでは足りない。


西条「まだや!まだまだいける!」


自分だって中学時代とはいえ一時期は関西の上位チームでエースのマウンドを守っていたプライドがある、これでは足りない。


西条「せめてストレートだけでも130は越さんと!」


その日201回目の壁に当たった音が、もう真っ暗になった公園の静寂を貫いた。







練習は三日目に突入した。

流石にやりすぎたのか、この日の西条は150球の時点でダウンした。

やはり、ブランクは長い、三日目にして左腕は早くも悲鳴を上げ始めた、その上体中筋肉痛だった。


西条「畜生〜…」


情けない声とともに西条は地面にへたり込んだ。


西条「ハァハァ…」


馬鹿みたいに体は疲れていたが、決して辛くは無かった、むしろ心地よい疲労感が体を包み込む。

黄昏時の空の景色が目に飛び込んでくる、その赤い色は今の西条の心の色そのままであった。


西条「…へへ」


空に左腕をかざし、手のひらを握ってみた。

これが俺の新しい武器だ、と子供のように心がわくわくしてきた。

よし、もう一度やるか!と体を起こそうとしたが、その時一つの黒い影が西条を遮った。



???「何してるの?」

西条「へ?」


振り向くと、何だか幼い容姿の可愛らしい少年が西条を見つめていた。


???「僕ね、いつもこの公園でぼーっとしてから帰るんだ」

西条「は、はぁ」


少年の純粋な目に見つめられたので、何だか緊張してしまった。

…いや、少年というかコイツ見たことあるぞ。


西条「自分は…確か同じクラスの野多摩やんか」

野多摩「うん、そうだよ。西条君」


いやー忘れていた、少年とは失礼、『彼』は立派な高校一年生だ。

ふわふわとした髪の毛を揺らしながら、ぽやっとした表情で口を開く。


野多摩「でね、ここのところ毎日西条君がずーっと壁に向かって投げてるの見てたんだ。何してるんだろ〜って」

西条「何って、野球の練習やんか。見てわからんのか…」


あまりクラスで話したことは無かったが、とてつもなく天然のようだ。

そうすると、眠そうな目もぽけぽけして見えてくる、どことなくふわふわと空に浮く雲のような人間。


野多摩「野球?…でも西条君部活に入ってないよね?」

西条「なんで知ってんねん…。まぁ、でも今に入るで?」

野多摩「今に?」

西条「そうや、今はちょっと自分で納得いかへんからな。何とかしてストレートを自分の納得いくようにせなあかんねん。…ちょっと見ててや」



西条は振りかぶると、左を思い切りしならせた。

フォームはまるで三日前に始めたとは思えないほど綺麗だった、家で散々シャドウピッチングを繰り返したおかげだ。


西条「しゃあっ!!」


気合の入った声とともに、ボールは真っ直ぐに飛んでいく、球速もコントロールもまだまだ理想には遙かに物足りないものの、球威は格段に良くなっていた。


ドカーッ!


当たったトイレの壁は真っ黒に汚れていた、西条の練習量が相当であることがお分かりいただけるであろうか。


野多摩「うわぁ…!」


素直に笑顔でぱちぱちと拍手をしてくれた、西条はまさかこんなリアクションが帰ってくるとは思わず、少し照れてしまった。


西条「球威は何とかなってきたんやけどな」


これは西条の足腰がなせる技だ、ブランクがあるとはいえ中学時代に鍛えぬいた体だ、元々の実力は高い。


西条「やっぱ、あとちょっとやな…せめてストレートだけでももうちょっと早くしないとまだ納得はいかへん」

野多摩「へぇ…楽しそうだねぇ〜」

西条「は?」

野多摩「だって、すごく楽しそうだよ西条君〜」


自分の、泥だらけで疲労に侵食されている姿を見てどうやってそう思うのか?


西条「…変な奴」

野多摩「ねぇねぇ、僕も一緒に練習していいかな〜?」


ほや〜っと、間延びした口調で言われてしまった。


西条「俺は別に構わんけど…」

野多摩「本当!?よーし、頑張るね〜!」








こうして、西条の練習に奇妙な同行者が増えてさらに四日がたった。





バシィーッ!!!



野多摩のグローブに西条の左手から投げられた球が入る。


野多摩「はわわっ!痛いよ〜」

西条「あんなぁ…」

野多摩「でも随分速くなったよね」


どうもコイツの天然には自分のペースを崩されっぱなしだ。

しかし、何故か要所要所で的確なアドバイスを送ってくれる野多摩に対し西条はむげに追い払う事はできなかった。

それに、一人でやるよりかは幾分か楽しい。


野多摩「これならもう大丈夫だと思うよ」

西条「そうやな…!」


西条も確かな手ごたえを感じていた、自分でもまさか一週間でここまで来るとは思いにもよらなかった。

激しく燃え続ける炎とこの左腕でもう一度、あのマウンドに立ってみせる!


西条「よし!野球部に乗り込むでー!!」

野多摩「うんっ!!」















そして舞台は、将星高校のサブグラウンド。

吉田と相川の前に西条と野多摩が立っていた、もちろん入部届けを出しにきたのだ。



吉田「おう!じゃあ名前を言ってくれ!!」

西条「一年生の西条友明です!ポジションはピッチャーです!」

野多摩「一年生の野多摩大河です〜。ポジションは…どこでしょ〜?」

相川「どこだろ、ってお前な…」

吉田「はっはっは!まぁいいじゃないか!」



そしてぞろぞろと他のメンバーもサブグラウンドに出てきた。


緒方先生「あら!西条君じゃない!」


たゆん、とジャージにつつまれた双丘を揺らして先生が来る。

側には小さい奴と、普通の奴が同行している。


冬馬「あっ!新入部員ですか!?」

原田「西条君じゃないッスか!」

吉田「おうよっ!!」

冬馬「こんちわっ、俺冬馬優、よろしくっ!」


小さい方が、えらくフレンドリーに手を差し出してきた。

こういうタイプは嫌いではない、西条もにっ、と白い歯を見せた。


西条「ウィッス!」

野多摩「よろしく〜」

大場「…新たな可愛さの予感…」

野多摩「…寒気?」

御神楽「おい、新入り。この大きな奴には近づかない方がいい」

県「気をつけてくださいね」

吉田「はっはっは!安心しろ!いつでも蹴っ飛ばしてやるぜ!」

三澤「傑ちゃん、でもあんまり暴れちゃ駄目だよ」


新入部員のおかげで野球部の面々に笑顔が灯っていく。

相川の悩みも一つは消えたことになる。


相川(投手、か…コイツにかけてみるしかないかな)

冬馬「ポジションはピッチャー?」

西条「ウィッス!」

冬馬「ならライバルだね〜!負けな………」

県「…!」

相川「―――!」





全員が、サブグラウンドの端に目をやった。















「ずいぶんと、賑やかじゃねーか」


















そこには黄色のバットを背負い。

髪を短くし。

以前と違い確かに目の奥に炎を灯した男がいた―――。





























冬馬「――――――降矢っ!」


































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