ヒマワリを君と




 誰かがいなくなる夢だった。
 あれは、誰だろう? ボクのよく知っている人だと思うけど、顔が遠くてよく分からない。
 ただ、目が覚めたときに残っていた寂しさや悲しさ、喪失感なんかは、強烈に覚えている。ともすればその夢がどんな夢だったか考えようとするだけで、ボクの目には涙が浮かぶほどだった。
 何で?
 その疑問に応えてくれるほど鮮明には記憶に残っていなかった。
 ただ、漠然とその夢が、怖いと思った。
 心から祈った。
 その夢が、正夢ではありませんように。
 と。



―一―

 ふわあ…と一つ欠伸がユーキの寝床に落ちた。情けなくごろりと寝返りをうつと腹が見えた。
 しばらくはまどろむ眼をそのままに、うとうととしていたユーキだったが、ふと見渡せば他にいるはずの兄弟達はもういない。とっくに抜け出していったようだ。
「みんな早いよなあ…」
 と、外からはもうざわめきが聞こえ出す。いつも通りに村の朝はもう来ているようだ。
 寝床から抜け出ると、ぶるぶる! と身体を震わせた。
 今日もまた、一日が始まる。
 そんな時だった。ユーキの脳裏を一抹の不安がよぎったのは。
 不安。とても漠然としているけど、何かとてつもなく嫌なことが起こるような感じ。胸の奥がきゅっと締め付けられるような、そんな感じ。
 それはさっきまで見ていた夢のせいだろうか。何か夢を見ていたことは覚えているけどあんまり覚えていない。だけどあんまりいい夢ではなかったことだけは確かだ。
 若しくはユーキに生まれつき備わる直感だろうか。それはいつも嫌なことばかりがよく当たる。本当にイヤになってしまうほどだ。
 もう一度。もう一度だけ頭をぶるぶる! と振った。未だにこべりつく不安を振り払うように。
 それでもユーキの脳裏には不安がわずかに残った。頭の片隅にに消えずに残る。
 生まれつき…ユーキの直感はよく当たる。それが悪いことならなおさらに。

 思えば、あいつがいなくなった時もそうだったな。とユーキはよくぼやく。
 あの朝も、何か目覚めが悪かった。言いようのない不安、っていうか嫌な感じがつきまとっていた。そしたら、あいつは…。
 それ以上は語ろうとしない。村のみんなもその話題をあまり好まないことは知っているからだ。裏切り者の話は、極力避ける。徹底している。

 ともかく、ユーキの直感はよく当たる。それが悪い直感ならなおさらに。
 この日も、また―



―二―

「おはよー、ユーキ」
 外に出れば目の前に朝がいた。
 いや、これはあくまでも比喩表現という奴だ。別に朝という名前の奴がいたわけでも、形のないはずの朝という言葉が形を持って現れたとかそういう意味ではない。
 つまり、そこにあったのはユーキの幼なじみ、トーの姿だ。どうにもこうにも『朝』という雰囲気を体中からかもし出している奴なのだ。簡単に言えば生まれつきの天然……いや、生まれつきの、超強力な天然野郎。
 ユーキは本来こういうタイプは好かないし付き合いづらいはずなのだが、どうにもちっちゃい頃から一緒に遊んでいる。何でか? と聞かれればユーキは迷わず答えるだろう。
 腐れ縁って奴だろ。
 と。
 結局ユーキ自身いつも後ろをちょこちょこと付いてくるトーのことをうっとうしいと思ったことはあっても追っ払ったことはない。それがユーキの気持ちを代弁しているのだろう。
「おはよ、トー」
 と、返しながら今日何度目かになる欠伸を噛み殺した。
「な、何かすごい眠そうだね」
「んー? あぁ、昨日はちょいと眠れなくてな」
 適当にあしらいながら周囲を見渡す。
 村はそこそこに広い。村の片隅に何戸か立つ家がユーキ達の住む家だ。村に代々継がれてきた家で、村ではみんな家族みたいに暮らして、同じ家で寝る。ずっとそうしてきた。
 ちょっと話がずれるけど、外には割と大きな遊び道具もあったりして結構楽しいのだ。
話を戻すが、村のみんなはもうとっくに起きてきているようだ。村はいつも通りのざわめきに覆われている。
―何かが、変だ―
 そうユーキに告げたのは、生まれ持っての本能。
 見れば確かにいつも通りの騒がしさだが何かがおかしい。小さいガキどもはないてわめいているし、大人達も何やら様子がおかしい。慌ただしく辺りを走り回っている。
「何か、あったのか?」
「うーん…、確かに何だかみんな慌ただしいね、何かあったのかなあ?」
 トーも小首を傾げて辺りを見渡した。
 と、何かを思いだしたように首の動きを止める。
「あ、ほら、村長だよ」
 そうトーが言った先には、村長と村の大人達が何人か、何やら深刻そうに話し合っていた。



―三―

「おはようございます、村長」
 ゆったりとユーキの声に振り返る、彼が村長だ。白くなった髭が特に印象に残る。
 もちろん『村長』が彼の名前ではない。とはいえ今や村の中の誰も彼の本当の名前を知らないし、本人も覚えていないのだろう。そして、彼の事を名前で呼んだ仲間達は、もう―
 『神』にとられていった。
 思えばもう、彼と同世代のものは村にはいない。みんな『神』がとっていった。気付けば彼は村長になっていた。一番の年寄衆でもあることでずっと続けてきた『村長』が彼の名前になっていた。
 村長はユーキを見ると柔らかに微笑んだ。彼が長い間に培ってきた柔らかな印象がよく見える。
「おお、おはよう、ユーキ。それにトー」
 よくよく見ると、微笑みの向こう側には少し疲れたものが見えた。
「どうかされた…いえ、何かあったんですか?」
「おお、よく聞いてくれた、ユーキ。大変なのだよ、チョウショクが盗まれてしまったのだ」
「「チョウショクが!?」」
 ユーキとトーの声が重なった。驚愕の感情が強くその中にあった。
 チョウショクとはいわば村の宝である。村のみんなの命を一日一日つないでいっていると言っても過言ではない。事実なのだ。
 『神』の備えしチョウショク。
「一体、誰が?」
 ユーキは当然の疑問を呟いた。
 村の中の誰かだろうか? 独り占めにしようとでも企んだのだろうか?
 もしかするとそうかもしれない。誰かがそれを自分のものにしようと考えてもおかしくはない。実際ユーキだって何度かそうしようかと企んだこともあったのは事実だ。
 第一に村は囲まれている。村の中に犯人がいなくてどこにいよう…。
 …いや、よくよく考えればそれはない。絶対に不可能な理由がある。隠し場所だ。この村の中に隠し場所があるはずはない。誰かが見つけるはずだ。きっとさっきから走り回っている奴らは探しているのだろう。万に一つの希望を。
 となれば、犯人は、いや、犯人達は決まっている。
「隣村の連中のようだ。…昨夜ミローを、見たというもの何人かがいる」
 ミロー…とユーキは呟いた。何度もその単語だけを。

 ミローは、ユーキやトー、それにもう一人と一緒にずっと遊んできた、仲間だった。…いや、親友。
 よく一緒に遊んだ思い出がたくさんある。
 これはいつの記憶だろう。小さな頃からミローはでかかった。大人よりも一回りも一回りも。それで鬼と呼ばれたこともあった。けれどユーキはもちろん、他の二人も全く構わなかった。いつの間にか遠慮なしでぶつかり合える相手になっていた。
 それを、世間一般では親友と呼ぶのではないか? 心の中をぶちまけ合える相手。
 そういえば、遊ぶときにも全くミローは手加減してくれなかったな。とユーキはふと思う。
 あれは、ミローがいなくなる少し前、の頃だろう。
 いつものように取っ組み合いをして遊んでいた。三人がかりでミローに飛びかかっていったのに、ミローはものともせずに三人を振り払った。痛がっている三人を前に大きな口を開けてがっはは! と笑っていたものだ。その後で、三人を一人で抱え上げて連れて帰ってくれたりもした。
 いつも大きな口を開けて笑っていて、体がでかくて、みんなには鬼と言われて、それでもいつも笑っていて、場違いな程の奴で。
 それでも、本当はやさしくて。

 今でこそ、裏切り者。村を抜け出した裏切り者だ。

 そんなミローにユーキは心の中で問いかけた。
―ミロー。お前は何をやっているんだ?―



―四―

 いつの間にか村のみんなが集まってきている。ミローが犯人と聞きつけ、裏切り者を非難する声が響く。
 だが、ユーキには今一つ理解できないことがあった。
 すなわち、どうやってここに入ってきたのか?
 前述したように村は周りを囲まれてしまっており、その隔てを越える事は不可能である。村のみんなの体よりミローが大きかったといってもその数倍…いや、十数倍は高い。何のためにあるのだろうか、という疑問はない。何でかみんな気にしないのだ。生まれつきだからだろうか…。
「隔てにひびが入っていたんだ!」
「それをあいつらは時間をかけて削っていやがった!」
「チョウショクを盗むなんてどういうつもりなんだ……!」
 なるほど、とユーキは頷いた。長い時間をかけて計画されていたわけだ。気付かれないように。
 次第にみんなの口調は上がっていく。時々飛び出すのは書きつられないほどの罵詈雑言。
 苦笑しつつユーキは見ていたが、やはり心に浮かぶのはミローのこと。
 これが、寝起きに感じた不安感なのだろうか。…何か違うような気がする。何がといわれても分からないが、何かが。
 と。
 ユーキをとんっ、と小突くものがあった。
「ゆーうきっ!」
 唐突に飛び込んできた声は、耳に聞き慣れた明るい声。声の主は振り返らずとも分かる。
「ユエリ…」
 振り向けばそこにあったのは彼女の満面の笑顔。
 彼女の名前はユエリ。もう一人の、幼なじみで、密かにユーキが初恋を覚える相手でもある。いつも前向きで、ユーキ達の象徴みたいな存在だ。彼女がいつも前向きだからこそ、ユーキもトーも、いつでも前向きでいられる。
「おっはよー! ゆーき!」
 本当に、膨らみすぎて割れん限りの笑みだ。
「おはよー、ユエリ。今日も元気だねー」
 横から声をかけたのはトーだ。
「おはよ、トー。いっやー、あんた見てると「朝だ!」って感じだね、爽やかだよ、その笑顔!」
「そーお? ありがとー!」
 何かずれている会話だがこれがこの二人の普通だ。いつもこんな感じで次第にどこだか分からない所に飛んでいく。到底ユーキには付いていけない。こんな風に、苦笑しつつ傍観しているだけだった。
 適当なところでユエリは会話をやめ、二人を引っ張ってエキサイトしている他の大人達から離れたところにいく。
「何だよ、おい、ユエリ! 聞いてんのか!」
「いーから!」
 と、顔を近づけユエリはひそひそと話し出す。
「ねえ、これって、チャンスだと思わない?」
 ん? とユーキはユエリの表情をちらと見た。そこにあるのは、笑顔。だけど、その笑顔は、何か企んでいる笑顔。言うならば、何か楽しいいたずらを思いついたような。
 そして、それを見てユーキは気付いた。何を企んでいるのか、分かった。
「チャンス、チャンスね…うん。くくっ」
 ユーキもまた笑う。口元を歪めて不気味に笑う。
 トーもまた、楽しくて楽しくて仕方がないと言う表情。やはり気付いているようだ。
「本気?」
 目を輝かせトーは問う。
 その問いに、ユーキとユエリはきらりと目を光らせた。いや、多分比喩ではない。本当に光った。
 小さな彼らの大冒険の、始まりだった。





―五―

 何度か記した通り、村は四方を隔てに囲まれそれを乗り越え隣村へ行くことは不可能になっている。つまりは一種の密閉空間、密室でもある。
 しかし、その中の生活は何不自由ない。なぜなら村を管理するのは『神』だからである。
 村は『神』のお膝元。何ら不具合があろうはずがない。
 しかし、それはまた若者にとってはあまり心地よいことではない。なぜならば、その好奇心がそれをとどめないからだ。
 つまり、村の外にある、いわば世界とは村である彼らにとってみれば、新世界に恋い焦がれて、その向こうへ行きたいと願う。
 そして、ユーキ達はチャンスを常にうかがっていた。他の誰もが夢を諦めたとしても、彼らは諦めなかった。
 隔てへの距離はもうない。あとわずかで到達するだろう…といっても元々そんなに距離があるわけでもないが。近づくにつれひびの入った箇所が見えた。削られて、大きな穴になっている。恐らくユーキ達が通るには十分過ぎるほどだろう。
 ごくり、と誰かがつばを呑んだ。
「いよいよだね、ユーキ」
 ユーキの後ろで、トーが呟く。心なしか声が震えているようだ。
「ああ、あの向こうに新世界が待っている……」
 震えているのは声だけではない。何だ、この感覚は。ユーキはその感覚を知っている。興奮。とどめようのない、興奮。
 どくんどくんと胸が鳴る。
「ねえ…もし、隣村なんかなかったら、どうする?」
 ふとトーが呟いた。
「そうだな…何が待ってるか分からない」
 少しの不安を覚えた。この先に待っているのは、本当に、夢なのか?
 少しでも不安を覚え、動揺が表面に現れた瞬間。ごつんと何かがユーキを小突いた。
 ユエリだった。
「なーに言ってんの! 現にあの向こうには隣村があるのは知ってるでしょ! この閉じ込められた世界の外にある世界を、見たくないの!? ほら、もうすぐだよ!」
 ぱしんぱしんっと二人の頭を軽く叩くと先に走っていってしまった。
 ユーキは、小さく苦笑し、
―やっぱり、お前がいてくれて良かった―
 と呟いた。
 お前がいるから俺もトーも、いつも前を向いていられる。お前が前を向いているから。

 ユーキはそういえば、と思い出す。思い出すたび赤くなる。一度勢いでユエリに言ってしまったことがある。

―向日葵ってさ、きっとユエリみたいな花なんだよね―

 うそを付けないユーキだから、その想いの一端を告げられたささやかな出来事。
 村ではその花のことをほんの少ししか知らない。けどその花は、いつも太陽を向いているという。そんな花が、向日葵という花が、ユエリに似合うような気がしていた。
 ユエリは、あの時どんな反応をしたんだったかな?
 小首を傾げてその光景を思い出す。
 ああ、そうだ。とユーキは記憶にたどり着いた。
 確か最初の一瞬は、は? って顔していて、そのほんの一瞬の後には物凄い勢いで小突かれていたんだっけ。その後はすっごいばか笑いされた記憶がある。
 でも、その、は? って顔をした一瞬から、次の一瞬までの間にその顔が赤くなったような気がする。その顔は、何か恥ずかしいような嬉しいような顔をしていた。照れてたんだろうか?

 ユーキは、小さく笑って、そして前を向く。
 あの向こうに、まだ見ぬ世界が待っている。何を怖がる必要がある?
 しかとその先を見て、ユーキは踏み出す。トーもまた、後ろから付いていく。



―六―

 穴はかなり大きかった。
 聞いたことがある。隣村の連中はミローのようにユーキ達より一回り以上は大きいらしい。
 と、すればこの穴の大きさはよく分かる。
 最初に穴を抜ける役目を受けて授かったのは、やはりユーキだった。いざとなるとユエリも最初に行くのはちょっと…と、リーダー格なんだからあんた行きなさいよ。とか何とかでユーキが前に立った。
 穴は大きいといってもやはり窮屈ではある。無理矢理体を押したら、すぽん、と穴の向こうに抜けた。
 ぶるぶると頭を振った。視界が真っ暗だ。どうしたんだろう?
 と思えば何のことはない。目をつむっていたのだ。そんなことに気付かないとは、と、自分を笑った。
 そして、目を開ける瞬間、ほんの一瞬だったが、ユーキは唾を呑んだ。
 新世界を、見る…。
 ゆっくりと、新世界が全貌を見せ始めた。
 その光景に、ユーキの心に浮かんだのは驚愕、恐怖、混乱、半ばの不安、そして、絶望。
 あ然と口を開いたままだった。
「ユーキ…これって……」
 後から来たトーが、ユーキの後ろで呟いた、いや、うめいた。
「ああ…」
 ユーキは何も応えられなかった。小さく相づちをうつしかなかったのだ。
「何…? これ…」
 その後から続いたユエリも同様にうめいた。
 首を振るユーキの眼に映るのは、新世界たる世界。隣村たる村。
 だが、それは間違いなく。
「わたし達の村と、同じ…?」
 ユエリが呟いたのは、正直な感想だった。
 まさにそっくり。瓜二つという言葉を思い出すが、まさにその言葉の具現だろう。ユーキ達の村と、隣村。その違いは、微塵も感じられなかった。わずかばかりに遠くを見れば違いを見られるような気もする。が…。
―これが、新世界だというのか?―
 と三人は同じように疑問を抱いた。
「ユーキ、でも今僕らがしなきゃいけないのは…」
「分かっている」
 ユーキはトーの言葉で瞬時に我に返った。
 今すべきはチョウショクの奪取。それ以外は一時頭からどかさなくてはいけない。
 とはいえ、どこにあるというのか。どこを探せばいいというのか? 見つけられようはずもない。
 だが、意外にも答えはすぐに返ってきた。探す必要もなく、目の前に現れた大きな影は。
 ユーキが歯をきしませ見上げた。
 トーが小さく身を震わせた。
 ユエリが鋭い目線で睨み付けた。
「ミロー…!」
 ユーキの声に、そいつは…ミローはせせら笑った。
 かつての友は、敵として目の前にいた。



―七―

「久しぶりだな、ユーキ、ユエリ、それにトー」
 その言葉の端にかかる懐かしさが、妙に腹立たしい。言うならば…そう、何故こいつに名前を気軽に呼ばれなくてはならないのか…という腹立たしさである。
「ミロー…!」
 ユーキは再びその名を呼んだ。その後に続けたい言葉は幾つもあった。
 何故? 何故お前は村を抜けた?
 何故? 何故お前は一人で消えた?
 何故? 何故お前は、こうして俺達の前に敵として現れた?
 何故?
 幾つもの問いかけがユーキの頭の中を駆け巡りその行き場を見失い頭の中で消えていった。もやっとしたものがユーキの心に少し残る。
「なあ、懐かしいじゃないか。そんな怖い目をして見ないでくれ」
 ミローの馴れ馴れしい口調が気に障った。
 そんなミローに返されたのは、
「裏切り者のくせに」
 と突っけんどんにはねたユエリの声だった。
 一瞬、ミローの表情に陰りがかかった気がしたのは気のせいだろうか? 一瞬後にはその前までと同じように、薄い笑いを歪めた口元に浮かべた仮面をかぶっていたからには、気のせいなのだろう。
「到底理解し得ない間柄なんだよ、今の俺達は」
 振り払うようにミローは呟いた。
 ユーキは、何度も口を開きかけようやく言葉を口にした。
「お前が…お前がもし新しい世界を見たいと思っていたなら…俺にはお前を責めることは出来ないよ…」
「だったら! だったらお前にも分かるだろう! 俺が、この景色を初めて見たときの絶望…それが、分からないとでも言うのか…? く…くく…馬鹿みたいだ、世界は同じだ。全て同じだ。全て変わりない。全て等しく同じだ。新世界などない! 新しい世界はない! それが現実だ!」
 ユーキは、しばし返す言葉が見つからなかった。
―新世界などない―
 その言葉が、深く傷を刻んだ。
 絶望。その一言に集約された感情は、とても多かった。この村を…新世界を見たときの感情は、その一言以外には有り得なかった。
「そう…なんだろう。お前が言ったことは、正しいのかもしれない。けど、お前はチョウショクを奪った。それは紛れもない罪だ」
「俺達は体が大きい。足りないんだよ、『神』の備えた量だけではな!」
「だからと言って、俺達は退けない!」
 ユーキがミローに飛びかかった。それに倣いトーとユエリもまた飛びかかる。

 そういえば、一つの記憶が甦る。あれは幼き頃、まだミローがいた頃。
 あの頃もこうして取っ組み合いをした。もちろん遊びの延長線で、だ。三人が必死にミローに飛びかかってもミローは軽く一払いしただけで三人を振るい落とした。
 今も、同じだ。ミローの一払いで三人は吹っ飛ばされた。がはっと言う声が誰かの口から漏れた。
 昔、遊んでいたときはミローはどんな風にこの後にしていただろうか。そうだ、大きな口を開けて高笑いをしていた。
 今は、違った。ミローはそこにたたずみ、苦しそうな顔でうめいていた。

「無駄なんだよ…さっさと消えろよ! 帰れよ! 今の内に…怪我をする前に帰れよ! 帰ってくれよ!!」
 ミローの表情に陰りが浮かんだように思えていたのはやはり気のせいではなかった。友…かつての友を想う気持ちは、今もあった。
 友を傷つけたくない。その想いからくるのは、悲しみ、苦しみ、哀しみ、憂い、辛く、奮え、恐れ、歯をきしませていた。
(お前達を傷つけたくない…傷つけたくないんだよ。頼むよ、頼むからもう諦めてくれよ。お前達を、俺は好きなんだよ、大好きなんだよ…!)
 ミローのつぶらな瞳が訴えかけている。ユーキ達に、呼びかけている。
 だが、ユーキ達も退けない。ユーキが、立ち上がる、小さく呟きを漏らしながら。
「負けられないんだよ…!」
 それに倣い、苦しそうにトーも立ち上がった。
 ミローの目つきが、変わった。その奥に見えるのは、感情を押し殺し、敵に向かうという使命のみ。
 だが、その目つきは数秒と待たずにまた変わる。
 うぅっ…
 といううめきに、ユーキとトーが振り返った。そこにいるのは、ユエリ。
「ユエリ?」
 応えは返ってこない。
 ユエリの体は隔てにぶつけられている。小さく漏れる吐息の声がかすれて、生命の息吹が消えかけているように見えた。
「ユエリ!」
 だっと駆け出したのはユーキにトー、それにミローまでもが。
 だが、彼らが着く前に…。

 『神』の手が伸び、ユエリをとっていった。

 ユーキは、天を仰いだ。その先には雲も太陽も空すらない。

「ユエリ…」
 小さく呟く。
 再び、今度は叫んだ。ユエリに届けと願って。
「ユエリィーーーーーっ!!!」
 その声は、虚空の彼方に消えていく。

 たった一滴の雫がどこかから落ちてきて、ユーキの頬をつたった。



―八―

 『神』にとられていく間、ユエリの脳裏に思い出が過ぎていく。短い人生の中にぎゅっと押し込められたたくさんの思い出。
 それらを思い出して内に、ユエリはあることに気付いた。
(ああ、みんなユーキが一緒だ。…あ、トーもいる。ミローもいる…みんなちっちゃくて可愛いなあ…)
 こんなときなのに、くすりと笑ってしまう自分が可笑しく、ユエリはまたくすくすと笑ってしまう。
 何でだろう? とユエリ疑問に思った。何でこんなときなのに笑っていられるんだろう。その答えは思い出のページをめくる内に分かってきた。
 全てに共通する、たった一つの感情。
 悲しかったことなんかない。辛かったことなんかない。苦しかったことなんかない。本当に怒ったことなんかない。不安になったことなんかない。怖かったことなんかない。
(楽しかったな…)
 それはひとえににユーキがいてくれたからだった。
 それに気付いた瞬間、ユエリは胸を締め付けられるような感情に半ばおう吐感にすら似たものを感じた。
 悲しい、という感情。
(ねえ、ユーキ…)
 いつだったか、言ってくれたよね?

―向日葵ってさ、きっとユエリみたいな花なんだよね―

 って。
(けどね、ユーキ。向日葵って言う花がいつも向いているのは太陽なんだって)
 もう、会えないんじゃ言えないよ。
 やりきれない気持ちが胸を締め付けあふれ出す。涙が目からこぼれ落ちる。たった一滴だけ。
 幻聴なのだろうか。耳に響いてきたこの声は。あいつが呼んでる。なのにわたしは行けない。もう、会えない。
(ユーキ、言っておきたかったんだ。わたしの太陽は、ユーキだったんだよ、って)
 届かぬその想い。

 頬をつたった涙が一滴、零れ落ちていった。

 ユエリが『神』の元に。





―九―

 ユーキは天を仰ぎ、ユエリを探した。もうどこにもユエリはいなかった。
 泣かなかった。泣けなかった。悲しくはないから。いつか来ると分かっていた日が来ただけだから。
 でも、悔しかった。やりきれない怒りがユーキを襲う。その矛先はミローではなく隣村の連中でもなくましてや味方であるはずのトーや村の仲間に対してではない。むしろ自分、そして『神』に対してである。
 どうして! どうしてユエリを一人とっていったのか! この俺をも一緒に、とっていってくれればよかったのに! むしろユエリの代わりにこの俺を、とっていってくれればよかったのに…。
 声にならない叫びは、誰の耳にも響かない。
 自分の不甲斐なさに、ユーキは一筋だけの涙を流した。頬をつたい、顎をつたっておがくずに染み込んだ。
 たった、一滴だけだった。
 そんなユーキに控えめに声をかけたのは、ミローだった。
「ユーキ…俺が、俺がユエリを…。すまない…なんていう言葉じゃ、許されないと思う。…許してくれなんて言わない。でも…すまなかった。ごめん。悪かった」
 ミローの口元から赤い鮮血が流れていた。彼の口の中は自慢の鋭い前歯で傷つけられていた。
「許してもらおうなんて思わない。もう俺のことを昔の友だとか思わないでくれ…俺は裏切り者だ。そうして生きていく。だけど罪滅ぼしに、チョウショクは返す。…本当に…」
 最後に続けようと思った、謝罪の言葉が思いつかない。幾つもの言葉を考え、ミローは結局短く続けた。
「すまなかった…」

 ミローもまたユエリに対して淡い恋心を持ってたのだろう。それはもはや幼なじみに対する友情などというものとは全く違った。
 あの夜のことを思い出す。あの夜、ミローは次第に大きくなっていくその気持ちの正体をぼんやりと寝付けない頭で考えていた。一人外に出ていた夜だった。まだまだ明るい空を見上げていた。
 この気持ちは、一体何なのだろう。憎しみや畏れなどの負の感情ではもちろんない。ならば友情? いや、ユーキやトーに対して感じるそれとは全く違った。ならばこれは一体何なのだろうか。
 その感情を否定はしていなかった。答えは分かっていた。この心に引っかかるわだかまりのような感情の正体。
(俺は、ユエリのことが好きなのか…。しかもそれは異性に対する愛情のようなもの…?)
 ミローはその顔を思い出した。今日遊んだときの、笑った顔。素直にミローは可愛いと思った。

 だけど、所詮俺は鬼。鬼の棲む場所は、ここじゃない。鬼は鬼の住処に棲むのだ。
 不意に襲ってきた感情は、本能が教える警告だった。

 はっと目を見開いたとき、ミローの体は宙に舞う。体は鷲掴みにされており、自由が利かない。必死でよじる体は既に天を舞っていた。隔てが、あの大きな隔てが、何故か小さく見えた。
 振り向き、地面を見たとき、そこはもう遠くかけ離れてしまっていた。
「え…?」
 素直に感情がそれを受け入れ、驚愕したのはそういうことで随分たってからだった。隔てを越えた頃だっただろうか。
 静かに『神』はそこに、みんなが新世界と呼んだ隣村にミローを置いた。
 そして、それを理解した次の瞬間、その景色を見て、ミローは絶望した。それは同じ光景を見たユーキ達が覚えたそれと同じものである。
 振り返れば、再び大きくなった隔てを見、その向こうにいるユーキやユエリ、トーを想った。
 特に、ユエリ。
(その感情を理解した瞬間に、俺は離されたのか!?)
 そして、新しい仲間のいる村に棲む以外にはミローに選択の余地はなかった。

 毎夜続く眠れぬ夜に、つむったまぶたの裏に浮かぶ、彼女の笑顔。涙を流さず声を出さずに激しく泣いた。

 だから、チョウショク奪取計画がたてられたとき、何のためらいもなくミローは手を挙げた。迷いがなかったといえば嘘となるがそれ以上に、彼女に会いたかった。ただ一目見るだけでもよかった。
 そして昨夜、彼女の寝る部屋を窓からのぞき、眠る彼女を見た。その顔を目に焼き付け、心の中で呟いた。
―さよなら―
 もう二度と、会うことはないと信じて。

 しかし運命はもう一度会うことを許した。ミローには冷たい冷酷なる仮面をかぶることを要求して。
 そして、その彼女は、もういない。



―十―

 いつまでも悲しみにとらわれているのは愚かな事である。ユーキは既に感情を制し、ミローが差し出したチョウショクを黙々と取っていた。
 …いや。違う。ユーキは感情を制してなんかいなかった。心の深いところに全ての感情を封じ込めることによってしか、それは出来なかった。ミローがかぶっていた冷たい仮面を二重にも三重にもその表情に乗せて、ようやく悲しみを押し殺すことが出来ている。
 けれどもユーキは一つのことを疑わない。
 すなわち、もし誰もいない所で一人になったら、間違いなくその感情をとどめることは出来なくなるだろう。
 そして、感情を全て押し流した後には、何の感情もなくなるほどに落ち込んでいるだろう。
 ユエリの表情が生き生きと甦る。
 笑った顔…いつも彼女は笑っていた。誰よりも明るい笑顔で誰に対しても、誰がいても、いつも笑っていた。
 怒った顔…たまに彼女は怒った。ユーキが危険なことをしたときに、強く怒った。親よりも長く説教をしていたくらいだ。
 すねた顔…ぷいと彼女はどこかを向く。いたずらをされてうまく引っかかってしまったときなんかは鼻先を突き出してぷいとどこかを向いていた。何を言っても話を聞いてくれなかった。

 ねえ、ユエリ。君のことを向日葵だって言っただろう? 向日葵って言う花を、君と見てたかった。僕らの大好きなヒマワリを見てみたかっただろう? ボクも見てみたかった。
 向日葵を君と。
 応えてはくれないのかい? もう君は、いないのかい? 僕らはもう、一緒にいることは出来ないのかい?
 もちろん、ユーキの心に答えは戻ってこなかった。ただ一人、その内で問いを繰り返していた。

 応えはない。
 ユエリはいない。



―十一―

 黙々とチョウショクを取るユーキは、何の感情も持っていなかった。
 その隣でトーは、やはり辛い思いを胸にユーキに倣ってチョウショクを押し込んでいた。ただ黙々と口の中に入れていく。
 その向かいでは、ミローが小さく肩を奮わせていた。泣いてはいない。泣くのを堪えていた。
 と。

 再び彼らは『神』の手を見た。
 その手はユーキの体を鷲掴みにすると、とっていった。
 トーとミローが呆気に取られている内に、ユーキの姿は消えていった。

 ユーキまでが『神』の元に。

「ユーキ…!」
 悔しさにミローは震えた。
 『神』に次々と取られていく仲間…。それをただ見ていることしかできない自分。自分が、不甲斐なかった。
 その隣で、トーが呟く。
「ユーキまで…」
 独り、呟いた。

 ユーキまで消えちゃうなんて…。これでもうボクは独りだよ。
 これが、今朝見た夢なんだね。今頃になって思い出したよ。
 もう二度と会うことはないんだろうね。きちんとお別れを言いたかった。それさえも無理だと分かっていたけれど。それでも、せめてお別れを言いたかった。
 さよなら、って。
 ねえ、ボクはこれから誰と話せばいいの? ボクのずれた感じを、誰が受け止めてくれるの? ボクはもう楽に生きていくことは出来ないの? 他のみんなみたいに、「立派な」奴にならなきゃいけないの?
 ボクには無理だよ。
 でもね、ユーキ。ボクは悲しくはないんだ。嬉しいんだよ? …ううん、嬉しいって言うのはもしかしたら違うかもしれない。よかった、ってほっとしたって言う感じだよ。
 だって。
「ユーキとユエリが、離れ離れになるなんてボクも耐えられないもんね」
 二人は二人じゃなきゃいけないんだから。
 だから、今ボクが泣いているのは悲しいからじゃない。嬉しいからだ。この涙は嬉し涙なんだ。
 きっと…。

 トーの目から零れ落ちる涙は、絶え間なかった。
 ミローは静かにトーの前に立った。そして、その背中でトーを隠した。何故かは知らない。本能がそうしろとささやいた。
 友の涙が、背中の毛に一滴染み込んだ。
 背に悲しみを感じた。





―十二―

 『神』が村を見下ろしている。

 モルモットのゲージが何やら騒がしい。と、彼は覗き込んだ。するとそこには何故かハムスターが三匹もいた。しかもその内の一匹は怪我をしているようだ。
 大変だ。とそのハムスターをとり、怪我の手当をする。
 何をやってるんだよお前達は、と独り愚痴りながら手当を終えると、他の二匹のハムスターをとろうとした。
 が、今度は隣にあるハムスターのゲージが騒がしい。ふと見れば朝食にいれたはずのヒマワリの種がない。
 どこにいったんだ? と小首を傾げる。こんな短時間に全部を食べてしまうと言うことは考えにくい。しかもあからさまに腹を空かせている雰囲気が分かった。
 それで朝食を入れてやっている間に、先輩から声がかかる。どうやらハムスターを二匹欲しいという客が来たらしい。
 さっきとったハムスターはそんなに大きな怪我をしていたわけではない。それでもう一匹とればいいだろうとモルモットのゲージの中の一匹をとる。
 そのハムスターをさっきの怪我していたハムスターと一緒のゲージに入れ、もう一度モルモットのゲージを見直した。しかしそこにはもうハムスターはいなかった。そこにいるのはモルモットが一匹、こっちを見ているだけ。
 そのモルモットにしばし目を合わせていると、少し前の出来事が思い出される。
 確かそんなに前じゃない。小さいときに入れ間違えたのだろう。モルモットをハムスターのゲージに入れ間違えていたのだ。大きくなってきた頃に気付き、モルモットを仲間の棲むゲージに返した。
 そのときのモルモットに、今そこにいるモルモットが似ていた。
 気のせいだろうか?
 しかしすぐに彼の気は違うところにいった。二匹のハムスターを持って客の所にいく。
 数秒の内にモルモットのことなど考えの外に消えていた。
「お待たせしました! ハムスター二匹です。ありがとうございました、またご利用下さいませ!」



―十三―

 ペットショップを出てきたばかりの父娘がハムスターが二匹入ったゲージを持っている。娘の方はまだ六才にも満たないだろう。必死に足を動かし父に着いていく。
「ねえねえ。このハムちゃん達の名前何にする?」
 満面の笑みを浮かべながら父親に尋ねる。
「そうだなあ…」
 父親は振り向いた。燦々と輝く太陽を見つめているのはペットショップの脇に咲いている幾輪かの向日葵。
「ヒマワリとタイヨウ、かな?」
 一瞬女の子の表情がきょとん、とした。
 でも次の瞬間にはにっこりと笑った。どうやらその名前が特に気に入ったようだ。
「今日からハムちゃん達の名前はヒマワリちゃんとタイヨウくんだよお!」


 『ヒマワリ』と『タイヨウ』と今名付けられたばかりの二匹が、ゲージの中でにこにこと笑い、ヒマワリを食べている。『タイヨウ』の頬の中にはまだまだたくさんのヒマワリが入っている。本当は朝食だったはずだけど、あるだけ口の中に入れちゃってきたから全部持って来ちゃったらしい。
 ふと二匹の脇をよぎる花があった。
 大きな花だ。黄色い花びらを咲かせて空を見ている。真ん中は茶色い種に覆われている。
 実物を見たことのない二匹には分からなかったが、それはもちろん向日葵である。
 名前を知らないけれど、二人は顔を見合わせて言った。
 綺麗な花だな。
 綺麗な花だね。と二人の声が重なり、なんだかよく分からないけれど二人は大きく笑った。
 空に燦然と光り輝く太陽よりも明るい笑顔で笑い合う。


 ヒマワリを君と、食べている。





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