259暦法学院戦9天は常に我とあり
六回表、暦法1-2将星。
点こそ入ってはいるものの、それほどごちゃごちゃした展開がないまま試合は終盤戦に突入した。
タイミング的な点でいえば暦法バッテリーの「ホワイトアウト」発動は、とても良かったといえよう。一点追い上げ展開からの、クリーンナップしていた。
この七回のマウンド、将星バッテリーにとっては逆に重たくのしかかる。
冬馬と相川はマウンドに上っていた。
相川「どうだ冬馬」
冬馬「まだ行けます」
ふむ、と相川はあごに手を添えた。
三澤によれば、ちょうどさっきまでの回で冬馬の投球は97球。もともとスタミナがそんなにある投手ではないし、タイプ的にも変化球投手だ。数投げさせるのは得策ではない。
ただでさえ投手が二人しかいない将星だ、やりくりをきっちり考えないと辛い。甲子園を目指すなら、関東大会、神宮大会もこの先に残っている。
相川(…まぁ、その為にはまず目先の一勝だがな)
ファントム、ミラージュの威力も鈍ってきてる。変えるとしたら…。
相川(七回から、か)
この回はしのぎきって貰おう。西条がロングリリーフ可能なことはわかっているが、それでもせめて三回で終わらせたい。一巡なら、疲れもたまらないだろう。
凄まじいカーブが…ホワイトアウトがあるとはいえ、まだ一点リードしているのだ。考え方を変えればいい。この一点を最後まで守りきればいいだけの話だ。
幸い暦法には、これといって怖い強打者が古暮と岳しかいない。しかも二人とも一発を打ちたいときに打てる選手でもない。
相川「よし、行くぞ冬馬。この回なんとしても抑えよう」
冬馬「はいっ!」
『六回の表、暦法学院高校の攻撃は、三番、サード織田君。背番号5』
『ワァアーーーーッ!!!』
ナナコ「うーん…」
降矢「どうしたナナコ」
将星ベンチ、降矢の膝の上に腰掛けたナナコが難しい顔で唸った。
ナナコ「なんだか、嫌な感じかも」
降矢「…だ、な。ここはちんちくりんの腕の見せ所、かな」
西条「あのボケ、そろそろ百球やろ。バテなきゃええけどな」
そんなベンチの悪い予感は的中する。
百球を超え始めた冬馬の変化球は徐々にキレが落ちていく、目に見えてわかるほどに。
『ボール、フォアボール』
相川(ちっ…)
冬馬「しまった…」
先頭の織田を四球で歩かせてしまった。
しかも2-2と追い込んでからのファントムを二球見送り。
明らかに目が慣れてきてる。
しかも。
『バッターは、四番、キャッチャー古暮君。背番号2』
『ワアアアアーーーーッ!!!』
『いけぇー古暮ーーー!!』
『打てぇーーっ』
無死、一塁。
古暮「さ、反撃させてもらいますよ。相川君」
これ以上無い形で嫌な打者を迎えてしまった。
降矢「珍しいな」
西条「あん?何が」
降矢「ジョー。この回のマウンド、あのちんちくりんが疲れてること知っててなぜ無理やり相川さんに代わるよう言わなかったんだ?」
西条「…あー」
緒方先生「そういえば悪態の一つもつくはずなのに、この回は静かだったわね」
西条「そやなぁ…。別に意識してやった訳ちゃうけど。いろいろとくぐってかなあかんやろあいつも」
降矢「…?」
小春「くぐる…って何を?」
西条「なんつーんやろな、それはいわゆる死線とか修羅場とかそういうもんや。この相手に傾いた流れ、疲労蓄積、相手は四番。こんな感じの勝負どころがこの先何回も出てくるやろ」
六条「…」
西条「見ての通り、あいつはあんな強がってるクセに本心はビビリで怖がりや、だからこそこういう場面を乗り越えていかなあかん」
緒方「それは、同じチームメイトとして応援してる、ってこと?」
西条「アホいいなやセンセ、俺はアイツのせいで足引っ張られるのが嫌なだけや」
小春(…防御率だけで見るとそんなに変わらないのにね)
三澤(おまけに西条君のほうがいっぱいフォアボール出してるし)
西条「聞こえてますよ姉ちゃん達!!」
四番、キャッチャー古暮。
言うまでもなく、暦法の中で一番打てる選手である。
データも前もっての高打率の好打者、この場合は長打を警戒すべきところだ。
だからこそ、冬馬の最初の一歩は遅れたのだ。
コキンッ。
初球、ストレートを見逃した古暮。
二球目のファントムに対して…。
吉田「お、送りバントだと!!」
御神楽(駄目だっ、一塁ランナーはすでにスタートを切っている。しかも虚を突いての自分も生きようとするセーフティかっ)
大場「冬馬どん、一塁とです!!」
一瞬、慌てた冬馬だったが、落ち着いてボールを拾い、一塁へ送球。
バシィッ。
『アウッ!!!』
冬馬(ふぅ〜〜…っ)
冬馬は胸に手をおいて安堵した。
あれだけ慌てて暴投しなかったのが不思議なくらいだ。
相川(ほう)
相川もまた、冷静に冬馬の今のフィールディングを評価していた。
徐々に、徐々にではあるが冬馬もマウンド上での落ち着きを持ってきているということか。
…しかし、それでもだ。
相川(おそらく古暮にとっては、どちらでも良かったはずだ)
そう、つまり次の打者に全てを託したのである。
得点圏にランナーをおいて。
『五番、ピッチャー、岳君』
『オオオオオオオオッ!!!』
場内が一層ざわめきだつ、今まで冬馬に簡単に抑えられてきた暦法側にとって、久しぶりのチャンスらしいチャンスといっていいだろう。しかも打者は五番の岳だ、期待しない方がおかしい。
冬馬が先ほどのプレイでの息を落ち着ける暇もなく、即座に岳は打席に入っていた。早くしろ、と言わんばかりに。
相川にとって、正直、古暮よりもこの岳の方が実は怖かった。
データ野球を念頭におく相川にとって、岳のデータは客観的に入ってくる。と、同時にここまでの打席を見ることによって、直感的にもデータに入ってくる。
そして、多くの場合そのデータは一致するはずなのだ。
内角を苦手とする打者は、大体体が閉じすぎているし、高めが苦手なバッターは水平スイングが鋭くない。
だが。
岳「…」
こいつだ。
こいつだけは、本当にわからない。
結果は残しているものの、勝負しにいく球がその時その時においてバラバラすぎる。あまりにも。
客観的なデータでは、偶然や打ち損じてヒットになった場合もあるだろう。だが、アウトの時がそうはいかない。一体何がどうしてアウトになったのか全く見えてこない。
まるで、その時の気まぐれで勝負しているような…。
それとも、別の何かが見えているのか…。
相川(…)
岳のバッティングフォームは、本人が気づいているかどうかはともかく少し前につんのめる格好になる。だから遅い変化球はともかく、速いストレートに大してはすこし詰まってしまう形になる。
はずなのに、他の試合では全打席ストレートに手を出していたりする時もあった。偶然かもしれないが…それでも、それだけ詰まるイメージがあるのなら、どうしてもストレートは見逃してしまう気もするのだが…。
真田(気をつけろよ相川。そいつは自分対相手で対応できる類の人間じゃない)
天性のギャンブラーだったり、その日の運勢を信じる人間。
広い意味では、南雲や吉田の、来た球を打つスタイルにも通じるだろう。
一球目、冬馬の投球は、左打者の岳からは逃げていくファントム。
『ストライクッ、ワンッ!!』
相川(見送った…)
初球は見送る、という感じだった。
どこで勝負してくるのか、相川には今ひとつ読めない。
岳「…」
岳は相変わらずマウンドを見つめている。
が、目線が冬馬にある訳でもなかった。
一体どこを見ているのか、それは本人以外誰にもわからないだろう。
それぐらい岳の目線は茫洋とした物をとらえていた、まるでそこに何かがあるかのように。
冬馬「やぁああーーっ!」
第二球、ストレート内角の甘い球。
岳「…っ」
相川(振ってきた)
ガキシィッ!!!
『ファール!!』
完全に詰まったボールはファールゾーンを転々と転がっていく。
相川(ストレート狙い…?か、球威が落ちてきたファントムを狙ってくるかと思ったが…)
どうする、形はどうであれ追い込んだのだ。
相川の狙いは…。
冬馬「…しっ!!」
…グ、クンッ!
バシイイイッ!!
『ボール、ワンッ』
ミラージュ、内角に食い込んでくるシュートを、岳は全く微動だにせず見送った。チャンスに追い込まれて、この余裕だ。
おっつけてファールで逃げることもせず、見送った。
際どい球だったにもかかわらず、だ。
相川(…もうこいつの狙いが、なんなのか、俺にはわかりかねるな)
ふっ、と相川は笑った。
こうなったら冬馬にリードを任せてみようか、下手に自分が悩むよりその方がいいかもしれない。
だがそれは、相手が何かを考えてる場合のことだ。
――――――。
白。
岳の頭の中は白一色だった。
そこに、黒い筋が走る。
それがボール。
それが岳の世界だった。
常人とはかけ離れた世界。
そして、耳の奥で声が聞こえる。
幼い頃から、それはずっと続いている。
いつどこであった誰の声でもないが、その声はことあるごとに額に囁いていた。
それはもしかしたら聞き間違いかもしれない、それともただの耳の病気かもしれない。風の音かもしれない。
ただ、『声』は常に岳とともにあり。
わずか、一言だけ、岳に告げるのだ。
『行け』、と。
キィイインッ!!!
赤城「!!」
山田「打たれたッ!?」
海部「まずいっ!左中間だ、しかも…伸びるぞ!!」
バッテリーが選択した、ミラージュをまるでわかっていたかのように振り切った岳の球は真田と県の上空を悠々と飛んでいき…!!
『は…』
『入った…』
『ウオオオオオオオオオオオオオオッ!!!』
『ぎゃ、逆転だ!!岳の逆転本塁打だっ!!』
『ワアアアアアアアアーーーッ!!!!!!!!!!』
相川「…ま、まさかミラージュを二球続けたのに…完全に読まれるとは…」
岳「…」
金属バットをそっと地面に置いた岳は相川の方を振り返った。
なんだこの落ち着きようは、まるで自身の打球がスタンドに入るとわかっていたかのような余裕だ。
岳「…それでいい、そういうことだ」
相川「何ぃ…?」
岳にとって、人の右往左往など小さきことだった。
いや、神にとって、か。
岳にとって、その声は『神』そのものであり。
岳もまた、その神を強く信じていた。
だから、目の前のこの矮小な人間がどれだけ悩もうが、自分には関係ない。常に天は我とあるのだ。
六回表、暦法3-2将星。
相川「…冬馬」
冬馬は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
顔に浮かぶ感情は、悔しさ…だろうか。
泣かなくなっただけ、マシになったか。
交代、だな。これ以上は、流石に…。
と思った瞬間に、相川の肩を誰かたたいた。
審判「ちょ、ちょっと君…タイムもかけずに…」
吉田「うおあっ!?さ、西条!た、タイムっ!タイム!!」
相川「西条…?」
西条「あかんで、逃げさせたら。冬馬に投げさせたれや」