258暦法学院戦8運命の天秤
六回裏、暦法1-2将星。
ランナー二塁、一死。
ホワイトアウト。由来は、雪山などで視界が白一色になり、空と地面の区別がつかなくなり錯覚をおこし、太陽がどこにあるのか判別できなくなり、天地の識別が困難になることから。
世界そのものの識別が困難になることはないが、ボールはまるで錯覚を起こしたように一度視界から消えるため、古暮は岳のその『カーブ』にこんな名前をつけた。
――まるで、ボールが消えたような気がしたから。
『ストライク、バッターアウッ!!』
続く大場は、ホワイトアウトを使うまでもなく、2-1から高めの釣り球に手を出し三振。つまり、古暮のデータだけで十分だったと言う訳だ。
だからこそ、このホワイトアウトは、正に強打者用の必殺。本来なら桐生院戦まで隠しておくつもりだったが、まさか古暮はここまで将星に苦戦するとは思っていなかった。
これは、古暮から将星への言わば、賛美。褒称。相手にとって不足は無い、という証。
吉田「真田、気をつけていけよ。まだあの球は正体が判らねぇ」
ネクストバッターズサークルから、一度滑り止めのスプレーをバットにかけに戻った真田に吉田が声をかけた。
呼びかけられた真田は一度、ふん、と鼻をならしてから。
真田「貴様に言われなくても判ってる」
とだけ、残してバッターボックスに立った。
『五番、レフト真田君』
『ワアアアアーーーーッ!!!』
南雲「期待がかかるのう、どうしても」
ホームベース裏、バックネット裏の桐生院勢にとっても、この打席は非常に見ごたえのある勝負になるだろう。落ち着かないのか、スパイクを脱いで座席の上に片膝を立てた状態の南雲だった。
三上「将星は、打の要だった降矢の負傷で、攻撃力低下は否めないでしょう。やはり御神楽、吉田、真田さん。この三人に頼る部分は大きくなります」
望月「逆に言えば…」
烏丸「この三人さえきっちり抑えておけば、将星の攻撃面においては動じる必要がなくなりますね」
良くも悪くも将星は個性豊かなチームだ。一番から九番までが総じて自らの役割を持っているといっても過言ではない。逆に言えば、『それ以外』の役割を果たしてくれる希望は多くない。
特に好投手に対して、県や野多摩に長打を望むのは厳しいものがあるだろう。つまり、上記三選手をきっちり抑えれば将星の攻撃力はそれほど怖くは無いのだ。これに降矢が九番にいれば恐ろしかったかもしれないが、その降矢も今は眼帯でベンチだ。
九番の長打者がいないだけで、将星の攻撃力は著しく、と言っていいほど落ちていた。
裏を返せば、真田らに対して大きな期待がかかってくる、という訳だ。
古暮(さて)
歩かせる、という手もバッテリーにはあった。当然一塁は開いている…が、一点ビハインドの流れで受けに回るのもまた運命の女神を逃しそうで怖かった。
流れという天秤を傾かせる。
その為には今この場で、真田をきっちり抑える必要がある。何しろ、相手投手の冬馬はもうすぐ100球を超えてくる。心なしかファントム、ミラージュの威力も落ちてきている。控えの西条はスロースターターだ。出だしの四球連発という可能性もある。
古暮が顔を上げると、すでに岳は集中モードに入っていた。そこまで信心深くない古暮にとってはわからないが、神のお告げか下ったのだろう。
岳はわずかも逡巡することなく真田と勝負することを選んでいた。
その決断力は、古暮はうらやましく思うところだ。それが、自分でなく宗教という他によることを加えても。複雑な気分ではあるが。それが岳という人間なのだろう。
海部「勝負してきたな、バッテリー」
氷上「?それはそうに決まってるでしょう、ツーアウトですのよ?晶」
蘇我「かいちょー。だって、一塁開いてるし、次のバッターは相川君だよ?」
氷上は目を吊り上げて蘇我を睨んだ。
氷上「蘇我さん!相川様が打てない訳ないでしょう!」
蘇我「ひぃい!」
不破「落ち着いて会長。確かに相川のバッティングは悪くない。けど」
海部「真田に比べたら、という話だ。ウチらとの試合でも、この試合でも奴のセンス、オーラ共に他の誰よりも輝いてるのはちょっと見ればわかる」
関都「ま、格が違うってことだな。やっぱりあの男ただものじゃなかったって訳だ」
氷上「むぅ…でもわたくしは相川様派ですわよ!」
柳牛「そ、そういう問題ではないんじゃあ」
相川と降矢はバッテリーが勝負を決めたことを感じて、すでに推測を始めていた。御神楽も同じように腕を組んで勝負を見守っている。
バシィッ!!!
『ボール』
初球、岳の投球はスライダー外角低め。外に逃げていき、ボール判定。
相川「降矢、どう読む」
降矢「そうだな。…おそらく、向こうにとってはどこであのカーブを使ってくるかだろうぜ。その前に打たれたら、みもふたもねー。だとすれば、追い込むためにあのカーブを使うか使わないか、だな」
膝の上のナナコの髪をなでながら降矢は相川を睨みつけた。実際に睨んでいる訳ではない、目の鋭さのせいでそう見えるだけだが。しかし。
相川「…」
降矢「なんだ、間違ってたか?」
相川「いや、その、なんというか」
その膝の上の少女のせいで、今のお前の姿が物凄くシュールに見える。とは相川はいえなかった。普段の降矢のイメージとかけ離れすぎていて。というか、やはりこいつ退院してから雰囲気変わったか?確かに見た目は怖いが、前のような味方にも向けていたようなナイフのような威圧感はなくなった気がする。
ナナコ「…ふにゅ」
六条(うらやましい)
冬馬(ちょっと心がほんわかする)
大場(ほっこり、とです)
相川「い、いや。その通りだ」
桜井「…」
三澤「…」
うろたえる相川、という珍しいものを見た桜井と三澤は目を見合わせてきょとん、とした。
御神楽「何をうろたえるているのだ、相川」
相川「い、いや。すまん。まぁ、その通りだな。…真田を信じるしかないな」
ここまで来たら読み勝負である。
しかし、真田のデータも恐らく古暮の頭に入っているはずだ、どの球を狙ってくるか、どの球を見逃しているか。クセは無自覚に体に刻まれている、真田としてはいつスイングするかが重要になっていた。
とにかく、追い込まれればお終いである。初見な以上、あの妙なカーブを投げられれば間違いなくこちらに分はない。
バシィッ!!
『ボール、ツー!!』
次は内角へのストレート。130台後半か、無理して当てても内野ゴロになる。これで、ツーボール。真田としては、内心口をほころばせた。歩かせる訳もないだろう、間違いなく次はストライクが欲しい。
古暮(当然それを狙って真田君なら振ってくるでしょう)
真田(だからこそ、ここであのカーブを使う)
古暮と真田の思考は合致していた。だからこそ真田はこのワンストライクを向こうにやることに決めた。たとえ初見でも、一球あのカーブを体験するならワンストライクぐらいくれてやる。経験は何者にも変えがたい。
果たして打席から感じる、あのカーブは。
ホワイトアウトは。
古暮(岳、ホワイトアウトを使います。大丈夫、一度見られたぐらいでこの球が見切れるはずもありません)
岳は古暮のサインににべもなくうなずいた。
来る。
『ワアアアアーーーッ!!!』
すっ、と岳は右手を今までよりも後ろに引き…そのままその長い腕をいかして、遠心力に任せて腕を振り回すッ!!!
岳「……………ッ」
ギョロリとした目が、一瞬血走り、肉食動物が獲物を狙う目に変わる。
―――そして、ボールは視界から消えた。
真田「!!!」
果たして吉田の言うとおり、真田はリリースの瞬間からわずかの間しか白球を確認できていなかった。普通、ボールは手から放たれてまっすぐミットへ向かう。向かうはずなのだ。
真田(…マジかよ、こいつはマジで見えない)
ワンストライクくれてやって正解だぜ、真田は内心舌打ちした。
タイミングだけ読んで、破れかぶれに振り回してみる。
ブォンッ!!!!!
バシィッ!
『ストライク、ワンッ!!』
『ワアアアアーーーッ!!!』
赤城「か、空振りっ!あの真田君が、あんな無様に空振りやとっ!」
どんな時も相手に対して多少の畏怖を植え付けてきた真田だったが、この打席ばかりは違った。まるで見たことのないような、完璧な空振り。初心者のようなまったく見当はずれなスイング。
真田(ちっ、そう簡単には当たってくれない、か)
真田はずれたヘルメットを直しながらマウンド上の岳をにらみ付けた。
久しぶりに、綺麗な空振りをしてしまった。いつ以来だ、あの『大和先輩』の消えるストレート『白翼』を紅白戦で見て以来か。
真田はニィッと口を歪めた。面白い。世界は広いもんだ、こんな県大会でこんな手品を見せられるとは。
古暮(さぁ、1-2…ここからの判断が難しい)
もう一度ホワイトアウトを続けるか。正直古暮としては続けたくはない、なんとか追い込んで頼みの綱で使いたい。だが、何で追い込む?言ってしまえば、岳は悪い投手ではないが、抜群に秀でた投手という訳ではない。実力そのもので言えば、真田に大きく劣るだろう。真田の選球眼も並外れたものではない、下手にストライクを取りにいって、甘い球が入れば痛打される可能性もある。
岳に頼んで、神頼みするか。
古暮(まさか)
古暮は首を振った。
神頼みは岳の仕事だ、自分は自分の頭脳を信じる。
『赤い風』の真田。高めなら振り下ろして球に強いバックスイングをかける。低めの球ならアッパースイングでそのままスタンドまで持っていく。
変化球にはことどとく対応、まるでバッテリーが投げ出したくなるような打者だ。
古暮(…?)
岳(…)
古暮の長考を不審に思ったのか、岳は古暮の方をじっと見ていた。
そして胸元で手を動かす。
岳からのサインだ。
古暮(…人生、神頼み、か)
自分より強い壁にぶち当たった時、誰もが次元を超えた存在に全てを託す時がある。それは、運命や時間、神や天と呼ばれている。
岳は血走った目で、サインを出していた。受け取れ、と。
お告げが下ったのだろう、古暮が悩んでる以上、他に選択はない。
後は天のみぞ知る。
バシィンッ!!!
『ス、ストライクツー!!!』
『ザワッ・・・!』
果たして。
相川「ど真ん中ストレートだと!?」
御神楽「…失投か…?にしても、流石に上手く虚を付かれた形にはなった、か」
真田(なんて度胸だこの投手。この展開で真正面からストライクとりにくるとはな、なめてんのか俺のこと)
腐っても元桐生院だ。そのプライドが真田にど真ん中ストレートを見逃させた。それだけはない、と決め付けていた。
真田(この野郎…何も考えてないな。面白い)
今まで頭を悩ませて四苦八苦する相手は数多く見ていた。全てを投げ捨ててやけになって勝負してくる投手も見てきた。自分を信じて得意な物で勝負する選手も見てきた。
だが。
真田(何も考えずに、自分じゃない何かを信じて投げてくる奴は初めてだ)
ホワイトアウト。
『ストライク、バッターアウトォッ!!!』
天秤は、この試合始まって初めて大きく揺れ始めた。