247Even if nobody's listening
それは、七回の裏に起こった。
順調だった、もしかしたら勝てるんじゃないか、そんな可能性もあった。
七回表が終わって、2-0で勝ち越している。
Bクラスの誰もが、心の中にかつてない高揚感を覚えていた。
今まで勝ち越したまま七回を迎えたことなんて、一度も無かった。
勝てるんじゃないか…?そんな言いようの無い期待がまるで風船のように各人の胸で膨らんでいた。
マウンド上にはユウ、手首に光るD。
エイジはショートから、その勇姿を眺めていた。
堂々たるピッチングだった。
いつも終盤に崩れるのが嘘のような安定したコントロール、冴え渡る変化球。
輝いていた。
まるで、燃え尽きる前のろうそくのように。
「ナイスピー!」
誰もが自分の為に試合をしている中で彼は叫んだ。
チームプレイを知らない彼らの中で、彼はただ一人背中に応援を送り続けた。
彼女はNo.229に振り向いて、笑顔を見せる。
ああ。
でも、それはきっと彼にたいしての笑顔じゃ、ないんだろう。
バシィッ!!!
『ストライク、ツー!!』
裏をかいたようなカーブに、Aクラスの打者のバットが空を切る。
ここ最近も目覚しい成長を見せていたユウが、ここにきて一番のピッチングだった。
打者も後押しをした、彼の三打席目のタイムリーにはチームプレイを知らない皆も喜び手をたたきあった。
気持ちは、一つだ。
行ける―――!
ドサッ。
突然、糸が切れた人形のように。
彼女は地面に崩れ落ちた。
「…え?」
時が止まったように感じた。
それぐらい長い間、彼は動けずにいた。
皆が一斉に不審がって彼女に近づいたのに、彼はゆっくりと歩み寄った。
まさか、Dの副作用?
「おい!どうした!!しっかりしろ!」
ざわざわ…。
まるで森の茂みのように、人々がささやきあう。
どうした?何かあった?まさかDか?ちっ…惜しいな。
関係者達も次々にグラウンドに降りてくる、口々にDの副作用か、という言葉が飛び交う。
その中には、あの四路という女と、降矢という男もいた。
四路「しっかりしなさい!…まさか、こんなことになるなんて…」
「嫌だ…」
それは、本当の言葉だった。
誰でもない、本当の彼の心の音。
「嫌だ!!嫌だよ!!どうして!!」
スイッチが入ったようにユウの元に走り出す。
人を掻き分けて、倒れる彼女を抱きかかえる。
(この投手…まさか)
「嫌だ!僕にだけは名前を教えてくれたじゃないか!!」
君がいなくなってしまう。
君がいなくなったら、名前だけが残ってしまう。
僕の記憶に傷をつけたまま、名前は残り続ける。
(Dが体を蝕んだか…)
(ちっ…コイツも駄目か、せっかくここまで来たのに)
ツヨシのことか。
お前らは、そんな風にしか僕達を見ることが出来ないのか。
彼の中に、黒い怒りが湧いた。
(こんな所で不能か、チームメイトも負ければ罰を受けるのに)
(無責任な事だ…)
何かがキレる音がした。
もう、No.229でもNo.224でもエイジでもない、一人の彼の心が爆ぜた。
「無責任ってなんだ!!僕達は…僕達は関係ないじゃないか!!」
黒服の男達に掴みかかる。
「うお!なんだコイツ!!」
四路「お、落ち着いて!!」
毅「ちっ…おい、速くアレを!」
四、五人の体格がいい黒服の男達によって、彼は地面に押さえつけられた。
顔を完全に地面に向けられているので、何も見えない。
そして、手首に生暖かいものが注入される。
四路「ちょっと!これ…!」
「おとなしくさせただけだ」
四路「違うわよ!!これ…No.229君に打ってた…」
毅「…洗脳用の催眠薬入りの特注鎮静剤だ」
「…あ」
彼の体が自由になった。
だが、頭が何か別の生き物に支配されている。
痛い。
…何してるんだ、こいつは。
頭が痛い。
こんな所で倒れて…早く起き上がれよ。
頭が痛い、痛い、痛い。
役立たずが…ッ!!
ユウ「う…」
「…む、意識だけは覚醒したか?」
ユウの目が開いていた。
だが、焦点はあっていない。
膝を地面につけ、自らの手のひらをじっと見詰めていた彼に、彼女は問いかけた。
ユウ「あ…No.229君…?」
No.229…。
もううんざりなんだ、俺は、僕は一体誰なんだ。
…勝ちたいってのに、なんでこいつはこんな所で倒れてるんだ。
勝利を得る為に、足手まといはいらない。
弱者を、突き放した。
「…う」
毅「言えよ、No.229。足手まといだって」
四路「ちょ…!」
毅「弱い奴はいらない…だろう?」
彼女…ユウの顔が、ひどく憎く見える。
苛立ちが抑えられない、そうかツヨシもそうだったのかもしれない。
冷静な気持ちとは裏側に、体はまるで別人が支配しているようだった。
勝手に、口が開く。
「テメーはもう投げんな。これ以上投げると足手まといだ」
彼女の顔が、歪む。
やめろ、やめてくれ、僕は何を言っているんだ。
四路「これは…」
毅「純粋に勝つ事に対して邪魔なものに激しい苛立ちが湧くのさ。一定の行動において精神を不安定にさせる」
四路「なんでそんなものを!」
鋼「…ボスの命令だ」
毅の後ろに、黒いコートを着込んだ大男が立っていた。
以前三澤博士の隣にいた、男だ。
四路「鋼さん…」
鋼「もうあの子は助からない」
四路「それじゃあ余計に…!最後ぐらい!!」
鋼「あの金髪の少年に傷をつけるのだよ。…心の負の傷が、Dの力を大きくする。事実、No.229はそうだった。自らの行動でNo.220をNo.224を傷つけているという後悔、悲しみ、自分への苛立ち全てが、彼を進化させた。…結果的に彼は自分を失ってしまったがね」
堂島は選手の気持ちを一つに向けさせる事でDを発動させたが、この時彼らもまた負の方向に気持ちを向けさせる事でDを発動させようとしていた。
ネガティブな思想になるのではなく、誰かが憎い、復讐したい、そのような思いは、堂島の配下選手と同じだった。
四路「…」
鋼「所詮、彼らはデータなんだ。智美」
四路「私だって…私だってDがあるんでしょ!!どうして!」
毅「それが俺達の指名だ。見届けること。…そうだろう?」
四路「…だとしたら…あんまりじゃない!このままNo.224もデータの為に人格を崩壊させるというの!?」
鋼「…それが、私達の仕事だ。そうやってしか、私達は生きられない」
四路は崩れ落ちた。
「もう用無しだ、帰れ」
彼の言葉が、まるで鋭利な刃物のように彼女の心に突き刺さる。
目は大きく見開かれ、わずかに目の端に涙がたまっていた。
(…やめてくれ!)
彼の思いは、自らの体には届かなかった。
(僕は…そんなことを言いたく無いんだ!)
ユウ「そ、そんな!約束…したよね!一緒に、最後まで勝ち続けるって」
「これ以上ここにいたって、うぜーだけだ、去ね」
ユウ「う…」
「は?泣くのか、泣くのか?泣いたからって許されるってのか…?俺達は負けるんだぜ、お前のせいで」
「うわああああああっ―――!」
(マインドブレイク、これで終わりだ)
(処分は博士に任せるか)
(そうだな、割になかなかいい選手だったからな)
「絶対的な勝利を、全てのスポーツを、我らに―――」
彼女を、見ることは二度となかった。
Aクラスに勝ったからなんだ。
地上に戻れるから、どうしたというんだ。
太陽は、眩しいだけのうっとおしい存在だった。
綺麗でも、輝かしくもない。
廊下を抜け出した先には、空への扉があった。
風が冷たかった。
裸足が痛い。
施設は地下にあった。
階段を上れば地上に出る、駐車場のような開けたスペースの端っこに彼は座り込んでいた。
Aクラスは自由時間が多く、ほぼ拘束時間が無い。
しかし彼はやることが無かった、練習が終わればこうして二階から行くことに出来る野外広場で外の空気を吸うだけだ。
むなしい。
ツヨシが、ユウが。
あんなになってまで目指したものが、こんなものだ。
こんなもののために、終わってしまった。
「…」
左手を太陽にかざす。
そのまま握れつぶせればいいのに。
…でも、太陽まで距離はあまりにも遠くて。
四路「こんなところにいたのね」
「また、あんたか」
まだ引きずっているんだろう。
No.229の喋り癖が取れなかった。
彼女は彼の隣に腰を下ろすと、同じように太陽に手をかざした。
四路「眩しいわね」
「全くだ」
四路「…間違ってるわよね、やっぱり」
彼は答えなかった。
質問の意図がわかりかねたから。
彼女は続ける。
四路「人を壊してまで、勝つことの意味がわからなくなっちゃったんだ。…こんなこというと甘いって言われるかもしれないけど」
「…」
四路「せめて、あなたにだけでも、私は…逃げて欲しい」
「…逃げたからどうなるっていうんだ」
あの後、彼は泣いた、叫んだ、慟哭した。
自らの過ちを悔い、四路に止められるまで自らを痛め続けた。
その跡はまだ、残っている。
包帯が巻かれた頭と左手が痛々しく見えた。
四路「辛いことも、何もかも忘れて、普通の人間として生きる」
「…」
四路「私、間違ってるかしら」
「あいつらを忘れてしまうことは、俺にとって罪にならないか?」
四路は力なく首を振った。
四路「わからない…けど、もう今みたいな貴方を見てられないのよ」
「…見てられない、ね」
素直に、自らなんて死ねばいいと思う。
しかし自暴自棄になることすらも、消えたユウとツヨシの事を考えるとそれはしてはいけないことだ。
進む事も戻る事もできない彼は、雨に打たれ続けるしかなかった。
磨り減って、自らが消えてしまうまで。
四路「…気づいてるかもしれないけど。Dについての新たなデータが入手できたわ、貴方のおかげよ」
「…これのことか?」
彼は、服をめくり腰と、そして左手首を見せた。
そこには何も無かったが、しばらくして青白い光が浮かんできた。
四路「一人の人間に三つのDが灯るなんてね…前代未聞よ」
「あいつらの怨念だろうよ」
おかげで、彼はAクラスとしては無敵の成績を誇っていた。
彼が打ち、投げる。
一人でも勝つことが出来た。
四路「体に不調は無い?」
「不思議と。前は頭痛がしてたりしてたんだけど」
四路「安定したの…かしらね」
「それもあいつらの怨念かもな」
終始彼は無表情で、四路に一度も顔を向けることなく遠くを眺めていた。
ともすれば、向こうに見える海に飛び降りたい衝動に駆られる。
四路「…やっぱり、逃げて欲しい、私は」
「…」
???「このままDを使えば、彼らの二の舞になるわ」
知らない声が聞こえた。
…いや、聞いた事はあるが、一度ぐらいだろう。
四路「三澤博士…」
薄い栗色の髪を後ろでポニーテールにした女性がそこに立っていた。
彼の目の前に立って、大きく頭を下げる。
三澤「…ごめんなさい。あなたみたいな子供に、こんなことを背負わすようになってしまって…」
「やめろよ、もう終わった事だ。思い出したくない。…そう言えば、あいつらに悪いけどな」
三澤「私はもう、この団の方向性についていけない。…逃げようと思ってる」
思い切った告白だな、彼は苦笑した。
だが隣の四路も真剣な顔で頷いていた。
三澤「このままじゃ、あなたは確実に人として生きられなくなるわ。…それだけDを酷使しているもの…。でも幸い安定はしている、このままDを使う事をやめれば…」
「なぁ」
彼は口を開いた。
「なんでそこまで俺に執着するんだ、あんたも、お前も。俺がDが三つあるからか?死ぬのが惜しいからか?データならもう十分とったろ?」
三澤「私が神高博士や降矢君、鋼君に協力したのは…世界をよりよくしようと思ったから。遺伝子研究も、治療のためだと思っていたわ…。貴方達のことも良く知らなかった…。問い詰めても、コメントは帰ってこないし…」
「あんた、逃げるとか言ってたけど。いいのか?狙われたりしないのか?」
四路「大丈夫よ、鋼さんがいる限りそれはないわ」
三澤「それにもともと私には重要な秘密は知らされてないから…。重要な秘密はダイジョーブ博士と神高博士が握っているの。…もう二人ともここにはいないけどね」
「…逃げたのか?」
四路「神高博士は一度捕まえたんだけど、行方不明。ダイジョーブ博士も元々煙みたいな人間だったし…組織なんて不安定なものよ」
三澤も、彼の横に腰を下ろした。
三澤「…私はね、娘がいるの、No.229君」
四路が何か言いかけたが、彼は手で制した。
今更自分が誰かだなんて、どうでもいい。
三澤「ずっと放っておいてね…研究のためだとか言って馬鹿な親よね。…貴方達を見てると、娘も可愛そうに見えてきて…駄目だなぁ私、って思って」
「そうかい」
四路「…」
「なら、戻った方がいい。そいつも喜ぶだろうよ、俺にその気持ちはわからんがな」
三澤「No.229君…」
ポニーテールが風にさらさらと揺れた。
三澤「貴方の事も、安心していいわ。なるべく私の近くにいてもらうし、何かあったら智美ちゃんも鋼君もいるもの」
「…同じ組織じゃないのか?」
四路「だから、不安定なものだって言ったでしょ?組織の中自体に対立組織はたくさんあるのよ。一応表向きはボスに協力してるけどね」
盗聴でもされたらどうするんだ、と怪訝な目を彼女に向けたら、彼女は笑っていた。
四路「やっとこっちを見てくれたわね」
「…ふん」
三澤「いろいろと考える事もあると思う…でも、自分が幸せに生きることで、彼らの分も生きていく…それも選択肢の一つであることを、忘れないで」
三澤博士はそれだけ言うと、広場から出て行った。
コンクリートが真昼の太陽にさらされて熱い。
彼は地面に手をつけて、思わず驚いた。
四路「…個人的にだけどね」
「…?」
四路「私の本当の名前を知ってるのは…貴方だけなの。だから…このままいなくなって欲しくない」
「くく…本当に個人的だな」
四路「あなたの本当の名前を知ってたNo.220がああなってしまった時…の気持ちを考えて欲しい」
気持ちはわかる。
思わず、名前の事を持ち出してしまったぐらいだ。
名前だけが残ってしまうと、心に傷を残したまま残る。
でも名前が消えてしまうと、誰の心にもとどまらなくなってしまう。
日和美里は、この世から消えてしまうのだ。
…そう、考えれば本当の名前をお互い知っているのは俺達だけかもしれないな、彼は苦笑した。
奴らの分まで生きる…か、それは逃げじゃないんだろうか。
彼女達と別れて、夜。
彼はベッドの上に横たわっていた。
自分だけ幸せに生きる、それが彼らの分まで生きていく事になる、そんな都合のいい解釈をしていいんだろうか。
本当は一人だけ生き残った俺に彼らは恨んでいるんじゃないだろうか?
ユウにいたっては、あんな事を言ってしまったんだ。
一生苦しんで死にながら生きていけ、そう思われても仕方ない。
何気なく、枕の側のグラブに手を伸ばす。
少し小さめのユウのグラブだった。
彼女がここにいた、唯一の証拠だ。
「都合がいい、だろう?」
まるで彼女に話しかけるようにグラブをなでる。
…すると、ひらり、と一枚の紙がグラブの中から落ちてきた。
中に入っていたのか。
今まで全く気がつかなかった。
二つ折りになっていて、外側に「エイジ君へ」と書かれていた。
下に小さく、これを見た人はNo.224に渡してくださいと注意書きがしてある、彼女らしい、と苦笑してしまった。
「…」
エイジ君へ。
最近私は、自分がおかしくなっています。
わからないかもしれないけれど、上手く言えません。
自分が自分でない感じがします。
わかっていても、違う行動をとってしまう時があります。
エイジ君のこと、No.229と呼んでごめんなさい。
(…?知ってたのか?)
一度間違えてから、あなたが優しくまるでツヨシのように話しかけてくれるので、ついつい甘えてしまいました。
それは、ものすごく失礼な事なのに、本当にごめんなさい。
久しぶりに今日は頭がすっきりしているので、今のうちに書いておきます。
もう、私は自分が自分でいられる自信があまりありません。
気がつけば時間がたっていたり、野球以外のことを忘れていることもあります。
エイジ君、ツヨシがいなくなって、もしかしたら私もいなくなるかもしれません。
もしそうだとしたら、エイジ君は無理しないでください。
私もツヨシもきっと、このDのせいでおかしくなってしまった。
これは、悪魔なんです。
ズルをしたら罰を受けなきゃならないのが、今だと思います。
私達は、罰を受けたのです。
…でも、おかげでエイジ君やツヨシと知り合えて良かったと思います。
(ここから、文字が急に汚くなってる)
意識がまた遠くなって
だから、今のうちに書きます
エイジくんがもし、外に出られたら
太陽にありがとう、と私の分まで言ってください
わたしがいたら、いっしょにいいましょう
おねがい
わたし が いなくなったら
えいじくん は えいじくんで
きにしないで
ありがとう
ごめんね
窓を雨が叩いている。
手紙はここで終わっている。
終わりが近い彼女は一体、どんな心境でこれを書いたんだろう。
意識がある内に、彼に伝えたかったのだろう。
―――気にしないで。
彼女らしい、言葉だ。
ぽつり、と紙の色が変わった。
水滴は次から次からあふれてくる。
「ふぐ…っぐ…ぅ」
涙が止まらなかった。
窓を雨が強く叩いている。
雨音にかき消されて、涙の音も消えていく。
ありがとう。
彼女はそう言ってくれた。
都合のいい解釈を、してもいいのだろうか。
…ありがとう、ごめん。
彼も、ユウにそう言った。