246Halation
一ヶ月間で、ツヨシとユウは一変した。
ユウはもう笑うことは無い、負けて人が消えていく事に傷ついた彼女は、いつしか傷つかないように、感情を封印した。
ツヨシは何かに怯えるように、誰とも関わらなくなった。
二人とも野球の試合以外は、廃人同然だ。
それでも…二人が処分されることはなかった。
試合では、結果を出していたからだ。
それはエイジも同様で、気持ち悪いぐらい相手の球を打てるようになっていた。
最初は見ることさえできなかったAクラスの投手の球だが、いまでは驚くぐらい遅く見えている。
止まって見える……それほど、エイジの動体視力は異常なことになっていた。
D。
まさか自分のDがこれだというのだろうか、エイジは自らの右目を抑えた。
左で投げ、左で打つエイジにとって右目は打席に立つとき投手により近い目だ。
片方だけというのも妙な話だが、右目の動体視力が異常なまでに上がっていた。
その反動か、エイジもたびたび頭痛に襲われるようになった。
そして試合の後…いや、右目を使った後は必ずといっていいほど右目から涙が止まらなくなった、眼球が完全に乾燥しているような錯覚に陥るほどだ。
目は充血し、視力が極端に落ちる。
…それでも、ツヨシとユウ…そしてナナコの為にエイジは右目を使い続けた。
勝てば、何かが変わる、ただそう信じて。
ベッドの上で、ユウが横たわっている。
もう練習の時間や試合の時間以外は起きてこない。
エイジ「ユウ…食事の時間だよ…」
ユウ「…」
ユウは、野球以外の全てと関わることを拒否していた。
食事も二日に一回取ればいい、という感じだ。
やせ細った体が、痛々しかった。
焦点の合わない目は多分エイジを見てはいないだろう。
ユウ「わたしの…せい?」
エイジ「食べて」
ユウ「わたし…ごめんなさい…」
エイジ「ユウ…食べてくれ…」
ユウ「…次は…もう、打たれないから」
最初は明るかった彼女。
それなのに、試合を重ね人が消えていくのを感じるうちに、彼女のココロは失われていった。
それに伴い、表情、感情は消えていく。
すでに彼女はただの野球マシンになっていた。
ツヨシ「…おい」
後ろから、ツヨシの声がした。
ツヨシは普段は冷徹だが、まだまともだった。
…突然狂ったように怯えたり、激昂したりする時がある以外は。
ツヨシ「放っておけよ、そいつはもう駄目だ」
エイジ「…」
ベッドの横に跪いていたエイジの肩を掴み、無理矢理立たせる。
ユウの為に持ってきた食事が、音を立てて床にこぼれおちた。
ツヨシ「心が弱い」
エイジ「…」
それはお前もだろ、とは言えなかった。
今のエイジには二人に対して何も出来ることが無かったから。
エイジ「友達だったんじゃ…なかったの?」
うつむいたまま、ツヨシに問いかけた。
一時は協力を誓い合った同士だ、Dを持ち、上を目指す。
仮の記憶とはいえ、僕たちは確かに同じ場所を目指した。
ツヨシ「役立たずはいらない」
エイジ「…!!」
ツヨシ「…それに、そいつは俺たちの名前すら覚えてない」
エイジ「え…?」
そういえば。
彼女の口から自分の名前が出なくなって、どれぐらい経つだろう。
まさか。
ツヨシ「俺だって怖いんだ、いつこいつみたいになるかわからない。…いや、もうなってるかもしれない。今が普通なだけで…明日には廃人同様になってるかもしれない」
驚いた。
今のツヨシの目は、何故か透き通っていた。
出会った頃のように。
ツヨシ「…俺も正直、お前の名前が思い出せないんだ」
「…え?」
ツヨシ「No.224…。もし俺たちがいなくなっても、お前は諦めないでくれよ。いつか、上に戻るんだ、そう言ったろう?」
ツヨシは次の試合で処分された。
試合は1-0の僅差だったが、とうとうエイジ達三人は一度もAクラスも滑ことなく、二人になってしまった。
真っ暗な廊下で、エイジは膝を抱え込んでいた。
窓も無いここでは、月も星も夜も昼もない。
神高にもらったピアス型通信機に、狂ったようにブツブツと独り言を繰り返していた。
もう何の返事も無いのに。
「…ナナコはどうしていますか?元気ですか?今日こっちでは、No.229…ツヨシが処分されました。ユウはもう何も喋らなくなりました。Dが目覚めたんでしょうか、僕の右目は異常に動体視力が良くなっています。その代わり副作用なのでしょうか、使用後は右目がひどく乾きます、閉じていても乾燥して痛いぐらいです。目から涙がとまりません。今も流れています。ナナコは元気でしょうか?勝てなくてスイマセン、次こそは勝ちますので…返事を…して…ください」
左目からも、涙がこぼれおちていた。
エイジの独り言は闇に吸い込まれて、消えた。
また、練習の時間が来る。
その時だけはユウが動いてる様子を見ることが出来る。
それだけで良かった、もう、それだけで少しほっとしてしまった。
ユウ「…どうしたの?No.229君、そんな顔して」
今思えば、ユウはツヨシのことが好きだったんじゃないか、と思う。
練習のときはいつもツヨシの側にいたし、彼女が笑っているのはツヨシと話しているのが多かった気がする。
何より、エイジの顔を見ても、もうNo.229としか呼ばなくなっていた。
思えばDのことを教えられて名前を知ってからは崩壊にしか向かわなくなったエイジ達だ、彼女の頭には、ツヨシでなく優しかった頃のNo.229の面影しか残ってないのかもしれない。
エイジも、それは観察してきたから、よく知っている。
そんなユウにたいして、エイジもなるべくNo.229として接するようになっていた。
ぶっきらぼうで、口は悪くて、でもやる時はやる、それがエイジが観察してしっているNo.229という少年だった。
「別にどうもしてねーよ」
ユウ「なんとなく、遠い目をしてたから」
博士も、ナナコも、ツヨシも、そして名前を忘れてしまったユウも誰も彼の名前を知らなくなった。
だからもう、エイジという人間はいなくなったのだ。
それでもいい。
No.229を演じている間のユウは、それまでが嘘のように笑顔を見せてくれるから。
ユウがおかしくなったのは、もしかしてツヨシがおかしくなっていったからかもしれない。
…人が見れば、道化だと言うかもしれない。
それでも彼…No.224はNO.229を演じ続けた。
だが、心は消耗していく。
彼女は彼を見ず、No.229を見ていたのだ。
エイジは疲れきったように、廊下の壁に背中をつけ、ずるずると腰を地面につけ座り込んだ。
たまにこうして皆が眠りに落ちた後、ベッドを抜け出してここに来る。
目を閉じて、いろいろなことを思い出す。
ユウのために、教官に頼んで登録番号もNo.229に変えてもらった。
もうツヨシ…No.229は処分されていないので、あっさりとその申請は通った、これでもうどこにも本当の彼はいなくなった。
ユウの為にしたことだ、それでいいと思う。
ユウの笑顔だけが、救いだった。
好きなのかもしれない、彼女のことが。
目を閉じて思い浮かぶのは彼女の顔ばかり、それは彼女がNo.220の時からずっと。
「あら、こんな夜遅くにどうしたの?見つかったら怒られるわよ」
彼は顔を上げた。
「お前…」
四路「今晩は、四路智美よ。久しぶりね」
見たことのある顔だ。
神高博士と連絡が取れなくなった時、顔を見せた。
…まさか。
「お、おい!」
四路「ナナコちゃんなら無事よ。今は私達が預かってるわ」
肩から力が抜けた。
安心、したんだろう、大きく息を吐き出すと、随分楽になった気がする。
四路「貴方、変わってるのね。いろいろ話は聞いてるわ。いなくなった人の代わりをするだなんて」
「…かまわねーよ、それでアイツが笑うなら」
四路「貴方が貴方でなくなったとしても?」
「…多分な」
彼女は苦笑した。
四路「もう…貴方の名前をちゃんと覚えてるのは…ナナコちゃんと、神高博士と三澤博士…それに、私ぐらいよ」
…。
いたんだ、まだ自分の名前を覚えててくれる人が。
「お前は、どうして俺の名前を覚えてるんだ」
四路「…本当に変わっちゃったのね。言葉遣いや目つきまでまるで、彼そっくりよ。前の貴方を忘れちゃうぐらい」
かまうものか。
もともとのエイジも、神高博士に言われて演じ続けた人間だ。
いまさら誰になったってかまわものか。
「質問に答えろよ」
四路「二ヶ月でここまで変わるとはね…驚くわ、本当に。まるであなた、本当の自分がないみたい」
「だから質問に…」
四路「誰かが覚えておかないと、あなたがいなくなっちゃうでしょ?」
「…」
変な理由だ、彼は素直にそう思った。
四路「そこにいても、誰も知らなければ、その人はいないのと同じ。誰も知らないのに生きてるなんて、寂しいでしょう?」
「…かもな」
四路「神高博士の事を調べてるうちに、あなたのことに辿り着いたわ。ずいぶんとおかしな…悲しい生き方をしてるなって、思ったの。それだけよ」
「同情か?」
四路「かもしれないわ。…貴方は覚えてないかもしれないけど、私は貴方と一度話したことがあるのよ?」
「…?」
四路「私も…ね、本当が無い人間なの」
四路は、彼の前に腰を浮かせて座った。
小さい子供を言い聞かせるように、ぽつりと呟いた。
四路「私は貴方達と違ってDの失敗作。貴方達と違って、プロペラ団の工作任務を主にこなす存在として育ってきたわ」
「…」
四路「その時私は私でなくなったの。まだ毅君は…ボスの息子としてある程度のアイデンティティをもって生きていけるわ。でも、私は…?元々なんでもなかった、私は、どうすればいいの?」
神高博士の情報である程度は知っていた。
ハーフとして生まれてきて成功した五人の内二人は、普通の生活をした後にここに戻されたという。
普通に生まれてきても普通でない人間の彼ら、にもかかわらず彼女は普通に育てられてきた。
…自分がただの人間じゃないという、事実に知ったとき彼女はどう思っただろうか。
四路「私は、私であることを捨てて「四路智美」になったわ。もう、私の本当の名前を覚えてる人は誰もいないのよ…。降矢毅君でさえ、私の前の名前は知らないわ」
「――――日和美里(ひよりみさと)」
彼女は驚いたような顔をして、彼の顔を見た。
神高博士からの又聞きだが、彼女が普通の少女だったときの名前。
智美は困ったように笑った後、うつむいた。
四路「…困っちゃうなぁ…ミステリアスな女は過去を知られちゃいけないのに」
「下の名前は、お前がずっと持っていたものなんだろう?」
彼女は、こくりと頷く。
何故か鼻をすする音が聞こえてきた。
四路「ひどい話じゃない?同じような境遇になったからって、親近感が湧いて話しかけるだなんて」
「かまうもんか、人間なんてそんなもんだろ」
四路「…貴方変わったわね」
「って…多分ツヨシなら…No.229なら言うだろうぜ」
四路「…そう、あなたはもうNo.229だもんね。私と同じ…でも、私は覚えてるわよ、貴方が私を覚えてくれてる限り…エイジ君」
四路は立ち上がると、後ろを向いた。
四路「ただ…会って話をしたかっただけなの。ごめんね」
「いいんじゃねーか?それで気がまぎれるんなら」
四路「…ありがとう。それじゃ」
同じような境遇、か。
相変わらず廊下は暗くて、すぐに彼女の姿は見えなくなった。
三ヶ月が経った。
すでに彼は、もう他人とも言えるほどに人柄が変わっていた。
彼女でない人も顔以外はNo.229だと信じてしまうぐらいに、彼はそのものになりきっていた。
「おい、そろそろ時間だぞ」
試合の日、起床時間になっても目覚めてこなかったユウを不思議に思い、ベッドに起こしに行った彼は、不思議なものを見た。
ユウは上体を起こしたまま、ぼんやりと何かを見つめていた。
また、前みたいな状態に戻ったのかと思って一瞬ヒヤリとしたが、すぐにこちらの呼びかけに気づき、笑顔を返してくれた。
…怖かった。
その目が、まるでツヨシがいなくなった時みたいに、澄んでいたから。
―――予感は的中した。