238sustain
吉田と三澤は人が集まり、ざわざわとどよめく校内掲示板の前に立った。
しかしあまりの人ごみに対し、端の方に張り出しているその渦中のA4用紙はあまりにも小さすぎる。
この手のお知らせは知られたくないんじゃ、と思うほどひっそりと存在しているものほど重要なものだったりする。
三澤「うーん、見えないなぁ…」
三澤が手をかざしながら、目を細めている。
前の人物の背が高くて邪魔なのか、首だけを右に左にうろうろさせながらしばらく粘っていたが、諦めたらしく、泣きそうな目で隣の吉田を見上げた。
吉田は首を少しかたむけて、何が?と問い返した。
その後、右の人差し指でその紙を指差す。
吉田「あいつらの言ってたこと本当だったんだな」
もう見えなくはなってしまっているが、先ほどまでビラ配りをしていた校門の方を吉田は振り向いた。
三澤「えっとぉ…続きは?」
吉田「ん?何が?」
吉田は見えているのがさも当たり前、という風に首をかしげた。
しかし三澤の表情が嘘をついているように見えない。
三澤「他に何か書いてないかな?」
吉田「んむー…」
さしもの吉田も小さい文字を見るのは苦労するようで、必死に目を細めた。
粗暴、という程ではないが普段温厚な吉田も目を細めればそれなりに険しい表情になる。
その横顔を見つめながら、三澤は珍しい顔だなぁ、なんて思っていた。
というか、あの小さな文字が見えるのか、目がいいなぁ。
三澤はうんうん、とリボンを揺らしてかわいらしく頷きながら感心しながら次の言葉を待った。
吉田「えー…公式な場以外での将星高校らしからぬ見苦しい失態をお見せし、大変…申し訳なく、この反省として心苦しいながらも顧問として最高責任者として、女子ソフト部を無期限の活動中止といたして…」
「あ、吉田君、柚子じゃん。おはよー」
クラスメイトであるだろう女子生徒が、前で込んでいる人の波から抜け出してきた。
セットしただろう髪の毛も制服もぼろぼろだ。
「っていうか、すごいね吉田君、こっからあの文字見えるの?」
吉田「ん?まぁ、みんな見えてないのか?」
「そりゃ、そーよ。私コンタクトだけど見えてないもん」
三澤「ねぇ、これって本当なの?良子」
「まぁ、下のほうに教頭の名前書いてあるし、多分ねぇ。でも、ひどい話じゃない?」
「そうよそうよ、あんなの文化祭の出し物で公式戦じゃないしさ。それに女子ソフト部も野球部も両方本気でやってたし、別に見苦しい試合なんかじゃなかったし、むしろ見てて面白かったけどなぁ」
三澤「うーん…」
???「教頭にしてみたら、それが見苦しかったのかも」
いつの間にか三澤の隣に小さな少女が立っていた。
しかしこの学校の制服を着ている、憂鬱そうな両の瞳にウェーブのかかった背中まで伸びているロングヘアー。
三澤「えっと、あなたは…」
夙川「新聞部副部長夙川です、怪我の方は大丈夫ですか?」
吉田「あ、あの時相川と喋ってた奴か。いや、悪いな、相川たぶん血が上っててよ」
夙川「そのとおりです」
とりあえず頭を下げた吉田に悪びれる様子もなく、恨みがましい目で吉田をにらみつけた。
夙川「あの時試合を中断していればこんなことにはならなかったのです」
吉田「う…」
と、なると試合を始める契約書にサインしてしまった吉田にも責任の一旦がある訳で。
吉田は少したじろぎながら、もう一度すまねぇ、と頭を下げた。
夙川「どちらが傷つく方法しか選べないなんて…」
三澤「でもさ」
と、傷をえぐられてあたふたする吉田の前に三澤が立ちふさがった。
二人の目線が合う。
三澤「相川君は相川君で、生徒会に入りたくなかったし、相川君一人のせいじゃないんじゃないかな」
夙川「………まぁ」
納得いかない、といった顔だが夙川は頷いた。
もともと氷上の素直になれない性格や、教頭の思惑や、吉田の単純さや、女子ソフト部の一部の人間の野球部に対する嫌悪感など様々な理由が重なって起きたことだ。
それに文化祭の一端のイベントとしては、今年のメインとも言えるほど大盛り上がりだった。
実行委員会にも来年もやれ、だの、とても良かった、だの、次からは入場はただにしろ、だの、事前にグッズ販売所を作れ、だのリクエスト箱が紙であふれるほどの盛況ぶりだ。
一番悪い人物を決めるとすれば……それはここまでの大事にした山田か、それともそんな些細なことで女子ソフト部を潰そうとしている教頭か。
三澤「相川君は、自分のために頑張っただけだよ。それが周りを考えないって言えば、わがままかもしれないけど…」
「そーよ、相川君格好いいからいいじゃない」
三澤「そ、そういう問題なのかな」
夙川「………事態はでも、それほど複雑じゃないです」
夙川は背中で手を組んで、明後日のほうを向いた。
夙川「女子ソフト部をなくす…確かに外聞や周囲を尋常じゃないぐらい気にする教頭とは言えどそんな暴挙に打って出るでしょうか?」
吉田「あん?」
三澤「どういうこと?」
少し顔を傾ける。
横顔と髪の隙間から猫科のような鋭い瞳がこちらを向いていた。
夙川「陸上部の顧問が、教頭と通じている、という噂です」
「何それ?」
「なんかキナくさいなぁ…」
「っていうかマジなの!?」
「あたし陸上部だけど別にソフト部嫌いじゃないよー」
周囲の輪がいつの間にか、夙川と吉田達を中心としたものに変わっている。
異様な空気の中、朝のHRも近いというのに皆が夙川の一挙手一投足に目を見張っていた。
夙川「部員どうこうじゃないのです、ソフト部が無くなれば練習場所が増える。特にここ最近最高が全国ベスト4の女子ソフト部よりも、プロ選手やインターハイ優勝を果たしている陸上部の方に費用をさきたい」
「で、でもさぁ」
「それで廃部ってやりすぎじゃない?」
夙川「おそらく、廃部はありません」
三澤「そ、そうなの?」
夙川「ですが、今より規模は小さくなるでしょう。いずれはオリンピックからもこの競技がはずされるという噂ですし。先行の無い事業に投資家は投資しません」
吉田「そういうのじゃねぇだろうがっ!!」
と、黙っていた吉田が大声を張り上げた。
今まで夙川に痛いところをつかれてうろたえていた表情はどこにもない。
その目は烈火のごとく燃えていた。
吉田「がんばって勝って楽しいからやってんだ!それは周りがどうこう言うもんじゃねぇだろ!」
「そーよ、学生なんだしさぁ」
夙川はため息をついた。
その目線は誰よりも冷めてきっていて、吉田は言葉につまった。
夙川「将星は私立です。ビジネスなんですよ、何もかもが。生徒達の学園生活はおまけにすぎないのです」
吉田「だけどよ!!なんとかならねぇか!それじゃあソフト部が可愛そうだろうがよ!…間接的にも俺たちのせいってのもあるしさ!」
最早吉田は夙川の目の前まで顔を近づけていた。
身長差のせいでなかば前傾姿勢となっている吉田、両手は夙川の肩を前後にゆすりながらそむけようともせずに夙川の目を見つめていた。
今までの冷たかった目が一瞬ぶれて、はわわ、と口からかわいらしい声が漏れる。
そのことに気づいて、はっ、と表情を作り直した、その後またにらみ合いが続く。
夙川「……私だって今のままで良いとは思っていません」
見つめあいから先に折れたのは夙川だった、先まで雪のように白かった頬を何故か少しだけ赤く染めながらそっぽを向いた。
三澤「む……」
吉田「なら!」
夙川「新聞部も全力で女子ソフト部に協力するようにしています。署名を集めて提出するようにアドバイスして、署名を作成したのも私たちです」
先ほど女子ソフト部が配っていたのはただのビラじゃなくて、女子ソフト部の活動を再開するための署名運動だったのだ。
夙川「でも物事は複雑ではないのは、廃部の危機ではないからです」
吉田「ん?」
夙川「いいですか…というか、相川さんがいてくれた方がありがったのですがね…」
吉田とあまりにも近すぎる距離を一歩引いて、胸元のリボンを直した。
夙川「重要なのは無期限の活動中止です。流石に卒業生などのかたがたの批判もあると思うので最終的には活動を再開するはずです」
そういえばそうだ、先ほどの紙には廃部、とはどこにも書かれてはいなかった。
夙川「ただその間に徹底的に予算を削減すると思いますが。……活動できない部に所属し続けるのは一部の愛着を持っている人だけでしょう。冷淡かも思うかもしれませんが、進学校においては部活動も大切な推薦の資料になります。活動を行わないよりは、行っていた方が後々いろいろと有利なのです」
誰もが黙りきった。
特に三年生を中心に。
この時期の進路相談でその手の話題には敏感であるし、実感もある。
夙川「ところが、なくなりはしないのです。…いいですか、残り続けている限りは、消滅はしません。女子ソフトは歴史がありますからね。それに多方面からの教頭の手腕は褒められていますが、その強引な手段に嫌悪感を持っている人もいます」
つまりは、再開さえ早めればなんとかなる、ということだ。
何もかもが手遅れになる前に、なんとか行動を開始すればいい。
吉田の単純な頭ではそこまで考えるのが精一杯だった。
夙川「教頭も強硬手段には出られはしないはず…こちらで教頭の行動を変えさせざるを得ない先手を取ればいいのですが…流石に今のままでは」
吉田「よっしゃわかった!とりあえず女子ソフト部を手伝えばいいんだな!よし行くぞ柚子!」
三澤「わきゃっ!?ちょ、ちょっと傑ちゃん!?スカートは駄目だってば!!脱げちゃうってばああーーーー!!!」
夙川が最後まで話す前に二人は走り抜けていってしまった、門の方まで。
…お、おいなんだよ吉田!
いいからそれ貸せ!俺も手伝ってやるから!柚子、ほれほれ!
う、うわあ!?
野球部の余計なお世話などいらん!
うるせー黙ってろ!こんなの見過ごしてられるか!同じ門をくぐる何とかだ!!
あ、あのぉ、そのぉ…。
おらー!協力してくれー!!一世一代のピンチなんだー!ソフト部がだ!!
残された夙川は、前に突き出してた人差し指を、恥ずかしそうに下におろした。
やっぱり相川に話しておくべきだったかもしれない、夙川はため息をついた。
「んー、私たちも吉田君手伝おうよ」
と、なにやら今時の高校生らしくない声が聞こえてきた。
流石は真面目な生徒が多い将星女子生徒だ、署名を手伝おうなど、吉田君には世話になってる、だの、海部お姉さまを助けるんだ、など。
これもあの男の熱さが成せる人望なのだろうか。
???「こら、あんまりぺらぺら喋っちゃ駄目っしょー。こんなに人がいるのに」
ぽかり、と軽いげんこつが頭におちてきた。
夙川「…理穂、痛い」
少し涙目になりながら訴える、振り向いた先には新聞部部長がいた。
山田「こんだけ大事になったらすぐに広まっちゃうわよ。それはそれで大事になりすぎると、良くないこともあるって。時期が大事なんだから、こういうのはさぁ」
ちっちっ、といつもの軽いノリで指を左右に振る。
夙川「うん…」
山田「まぁさ、アタシのせいでもあるし。あんな真剣に頑張ってる部を潰しちゃ駄目だよね。アタシもふざけてばっかりでさぁ……なんとなくこう、面白いことにしか興味がなかったんだ」
夙川「理穂」
山田「でも、面白いだけで、人にひどいことしちゃ駄目だよねぇ。なんとか女子ソフト部の良いイメージ作りがんばろ。抗議デモをやるんよ!あとは、号外も配ろ!隣のパソ部に手伝ってもらえばいいし!」
手を広げて、目を輝かせる。
なんだかんだ言って楽しいことしかやってないんじゃないのかな、と夙川は目を細めた。
だがそれならそれでいい、誰も傷つかないのが一番いいのだ。
夙川「…もう、好きにさせない」
放課後。
吉田の発案により、今日は練習を休みだ、署名を配るぞ街中にだこの野郎!
という気分丸出しな提案と県の、じゃついでにランニングしましょう、というアドバイスによりさながら新聞配達のように署名活動を行うことになった。
駅前でとまりながら署名を求める組、と新聞部が作成した抗議運動のビラを配りまわるランニング組、公正なるくじ引きの結果により二つに分けられた。
ちなみに、降矢は病院から呼び出しをくらい連行中。
以外だったのが、真田が参加したことだ。
それがここのルールなら仕方ない、と吉田に同意したのには皆が驚いた。
吉田「お、おいいいのか?」
真田「二度は言わない。…が、こんなに野球以外のことをする野球部なんて珍しいと思うぜ」
相川「真田…」
真田「くっくく…隣の相川君はさほど乗り気じゃなさそうだからな、俺がやらなきゃいかんだろ」
いつものように、押し殺した笑いがいちいち皮肉じみていた。
相川はというと、昼休みにその話を吉田から受けて以降も、あまり乗り気にはなれなかった。
元は言うと夙川の要求を突っぱねた自身のわがままでなった事態だ、自分が協力したところで煙たい顔をされるだけではなかろうか。
しかし相川なら何とかしてくれる、と信じていた吉田にとっては少々ショックだったようで、そうかぁ、と肩を落としながら教室に帰っていった姿が印象に残っている。
悪いが、と相川は一言断った。
相川「…わがままを言うようですまないが、もうすぐ県大会もある。俺は相手校のデータをまとめていてもいいだろうか?」
そんな相川の複雑な心境は、いつもよりも覇気が無い苦しんでいる表情で皆が読み取れた。
だから誰も何も言わず、それでも野球部のことを考えてくれている相川のことを皆許した。
相川「すまない」
扉が閉じられて、入ってきた時よりもずいぶん綺麗になった部室に相川一人が残された。
机に顔をもたれさせる、横を向くと綺麗な窓ガラスが写った。
六条と三澤というマネージャーや緒方先生のおかげで埃くさくもない。
大きな机に椅子がちらほら、野球用具は隅に置かれたボックスや、籠に綺麗に整理されている。
一般的な部室の汚らしいイメージとは大違いだ、少なくとも中学生時代の落書きと誇りと雑誌まみれの部屋とはぜんぜん違う。
眠い。
ここのところ緊張していただからだろうか、最近ずっと眠い、こんなことではないけないんだが。
……桜井に言われたこと。
氷上をもう許してあげて、と。
相川自身も、もう氷上に対する怒りは失われてきている。
氷上自身に前のような全否定をするオーラがなくなっているからだ、むしろなんというか自惚れかもしれないが、わざわざ相川自身につっかかって来ている気がする。
吉田よりはマシだとしても、相川も女性の仕草や表情から大体の事は理解できるが本性まではわからない、表面で発せられる言葉は嘘かもしれない。
むしろなんというか、氷上のあの態度は……それに他の言動や他人からの言葉でも…。
言葉の端々に、本心では相川に嫌われたくないような節が見える、言葉の割に抑揚が穏やかであったり……そのなんていうか、あれは吉田が三澤に思わせぶりなことを言って三澤がするあの表情に似ている。
……何を考えているんだ俺は。
作業が全く進まない、いっそプライドを捨てて仲直りしてしまえばいい。
ならば外野からの遠慮もなくなるし自分自身も変な気遣いをせずにすむ、何より……。
相川「桜井…か」
彼女が。
相川が氷上といがみ合っている姿を見ている彼女に、悲しい顔をさせずにすむ。
自分はなんて自己中心的な人間なんだ、と最近思う。
この前だってそうだ、結局自分のやりたいことをやってるだけだ。
周りは相川大志をどう思ってるか知らないが、自分は周りが思っているよりずっと最低な人間だ。
格好をつけたふりだけして、冷静なふりだけして。
本当はすぐ意地になるし、頑固だし、口だってよくない、素直になることもできないし、わがままだ。
吉田と三澤のような明るい人間になれたら、どれだけ良かったろう。
何か自分から行動的になれても、根底的に俺という人間は何も変わっていない。
女子ソフト部だってそうだ、快く手伝ってやれば良かったのに。
氷上と仲直りすれば、何かが解決するのだろうか。
女子ソフト部を手伝えば、いいのだろうか。
少なくとも、今よりはずっといい、誰かの為に何かをしてみたいじゃないか。
もともと誰かを支える事は大好きなのだから。
相川「ん?」
ぽつり、と、窓ガラスに水滴が一つ。
それから、ざぁっと音がしてガラスは水に覆われた。
雨だ。
相川「あいつら…ついてないな」
壁にかかっている時計を見れば、先ほど外に駆け出していってからずいぶん経っていた。
ある意味部室に残って正解だったのだろうか。
しかし、すごい勢いで振っている、土砂降りという奴だろうか、にわか雨ならいいんだが、この時期台風も少なくない。
今朝から曇りで、すでに夕方には薄暗かった部室内には最初から電気がついていたが、外はさらに暗くなってしまった。
相川は首をふって目をこすった。
ネガティブになっている場合じゃない、俺は俺のやれることをやるべきだ。
時期がきたら、なんて言わないが…今度三澤あたりにでも相談してみよう、同姓ならおそらく細やかな心情にも気づくだろうし、何か解決策を見出してくれるかもしれない。
相川(まぁ、俺が意地を張らなければいいだけなんだけどな)
今更ではあるが、出場できなかった一年の間に、基礎練習や敵のデータだけはきっちり調べられた、それに敵にもマークされずにすんだ、だからこそ今のこの成果があるのかもしれない。
と、いうか桜井の奴がマネージャーになる、とかいってなかったか?あの試合の中で、氷上がそんなことを言っていたような。
それにしても、女子ソフト部をなんとかするのが先決か…吉田があれだもんな。
相川は混乱する思考をすっきりさせようと、立ち上がった。
とりあえず外の空気でも吸おう、どれだけ雨がふっているかも気になっているし。
がちゃり、とドアを開けたら今までくぐもっていた雨の音が鮮明になった。
予想通りひどい雨だ、天をひっくり返したような雨粒が上空の黒いかたまりからすさまじい量で落下している、おまけに雷まで鳴り出した。
相川「…え?」
部室のドアの前に屋根はない、プレハブ小屋のような感じなので雨宿りはできない。
だからせめて前に突き出した屋根を自分で作ろうと、吉田がは言っていたのだが。
とにかくこんなひどい雨でドアの前に立っていればびしょぬれになるに決まっているのだ。
氷上「…」
バケツを頭からかぶったような格好で、生徒会長の氷上がそこに立っていた。
いつものような尖った雰囲気はなく、捨てられた子犬のように弱弱しい目でそこに立ち尽くしていた。
制服はすっかり色が変わり、肌にはりついている。
髪の毛もその長い髪がシャワーを浴びたようになり、前髪と鼻のさきから水滴がしたたっている。
何やってんだ、と言いそうになった言葉を飲み込んだ。
流石にここで追い返したら鬼だろ、と、相川は少し勇気を出した。
相川「…と、とりあえず入れよ、そんなところにいたら風邪引くぞ」
その言葉に、少し顔を上げる。
氷上「…いいの?」
また驚いた。
まさか相川の前ではあのプライドの塊のような女からこんな弱弱しい声が出るとは。
文化祭の試合が終わったときよりもひどい様子だった、流石に優しくせざるを得ない。
相川はごそごそと部室内をあさり、自分のバスタオルが選択したまま奥に干してあったのに気づきそれを急いで持ってきた。
あまり近くで中止すると、制服から男が見ればセクハラだと訴えられる形状のものがすけて見えるためなるべく顔を逸らしながらそれを頭にかぶせた。
暖かいものでも出せれば気がきいているのだろうが、あるのといえば自分が持ってきたスポーツドリンクが入った水筒ぐらいだ。
氷上「…」
しかし、バスタオルを頭にかぶった氷上は何もせずにじっと部室の入り口に立ち尽くしたままだ。
らちがあかない、と無理やり手を引っ張って椅子に座らせる。
氷上「あ…」
相川「いいから座れって」
氷上「でも、汚れちゃいますわ…」
相川「どうせ後で帰ってきた部員が土足であがりまくるんだ、気にしないよ」
そのまま座ったままの氷上にため息を一つついて、塗れた髪をタオルで吹いてやる。
こういうのは男よりも女のほうが得意なんじゃないのか、と思いながらも流石にそのままじゃキツイだろ、と相川は背後から手を動かした。
相川「なんであんな所にいたんだ」
その言葉に氷上の肩がびくり、と動いた。
相川「…どうした」
氷上「勇気が無かったんですわ」
相川「勇気が」
氷上「あれだけ言われて、嫌われている私が今更相川君にどう頼みごとができまして?」
そう言って自嘲気味にふふと笑う。
それでも頭は相川のバスタオルに包まれたままそれを拒否しようとはしなかった。
ぱたぱた、と氷上にまとわり着いた雨が床に落ちる音だけが響く。
相川「頼みごと、って何だよ」
沈黙に耐え切れなくなったのか、相川がまた口を開いた。
氷上「…女子ソフト部のことはご存知でして?」
相川「まぁな、うちのキャプテンもご熱心に署名を集めにいったよ」
氷上「…相川君はなんでここに」
相川は言葉に詰まった。
適切な言葉を捜すが、見つからない。
あるのはその場しのぎの建前だけだ。
相川「大会も近いんでね、データのまとめもあるし、そちらも疎かにはできないさ」
氷上「そう…ですよね」
また、沈黙。
雨の振る音と、相川がタオルで髪を拭く音だけ。
何故か相川は心臓が高鳴っていることに気づいた、一体なんだと言うんだ。
氷上「…女子ソフト部の部長とは仲がよろしいんですの」
相川「…まぁ、下の名前で呼び合ってるぐらいだしな」
氷上「……私、まさかこんな事態になるだなんて思っても見なくて…」
三澤経由の話では、陸上部の顧問がどうたらこうたら、という話だ。
まさか女子ソフト部もこんなことになるとは思っていなかったかもしれない。
氷上も自分にその責任の一端があると思っているのか、口調にいつもの覇気がなかった。
落ち込んでいる、といえば最適か。
氷上「……親友として私は失格ですわね」
相川「気に病むことは無いさ」
氷上「気休めはいらないですわ」
相川「……気休めじゃ…」
ガタリッ!!
氷上は勢いよく立ち上がって相川の方を向き直った。
瞳も唇も濡れている。
氷上「よしてください!……私がわがままを言わなければ、維持をはらなければ…」
相川は頭をかいた。
どうしたものか、最早仲裁役の桜井もいない。
氷上「……それが、結局貴方にお願いをしに来ただなんて虫が良すぎますよね…ふふ」
相川「座れ」
氷上「………」
相川「座れよ、いいから。髪が拭けないから」
氷上は俯いたまま椅子に座りなおした。
二人が欲した優しい慰めは、相川の口から出てくることは無かった。
ここで慰めても根本的な解決にはならない。
相川は何も言わず、氷上の髪を拭き続けた。
相川「―――俺だって、女子ソフト部を助けたい」
氷上「…」
相川「ただ俺のわがままであの試合を中断しなかったんだ。今更俺に何が言える」
氷上「それは違いますわ、相川君は吉田君のために頑張るという意思を貫いただけですもの…」
もう氷上の髪はほとんど乾いていた。
服の方はまだ濡れてはいたが。
相川「俺も結局ただの自己中心的な人間だよ」
氷上「私だって…そうですわ」
相川「……ぐずぐずしてるよな、お互い」
氷上「………そうです、わね」
相川はバスタオルから手を離した。
後は、自分で拭いてくれ、と。
俺が拭けるのはここまでだ、と。
氷上はそのタオルを受け取った胸元で握り締めた。
氷上「……お願い、しても、よろしい?」
相川「物による、俺は神じゃないんだ」
氷上「晶、一度泣いていましたの。ソフト部をなくしたくない、と。そして二人の間ではタブーであった私が理事長の孫という立場を話に持ち出しました」
相川「…」
氷上「なんとかしてくれ、と」
氷上はタオルを胸の前でぎゅっと握り締めた。
まだ制服からは水滴が滴り落ちている。
氷上「…でも、私は前のわがままのせいで、もうお願いは聞いてもらえない。何もできないんですわよ、力があるのに。どれだけ愚かな人間なんだ私は、と思い知りました」
雨はまだ外で降り続いている。
雷が落ちた低い音が遠くで聞こえる。
氷上「そんな折…こんな話を聞きましたの。私のおばあちゃんの友人のお孫さんを相川君が助けたって」
相川「…ん?お孫?」
…あの子のことだろうか。
相川の脳裏におとなしい少女の姿が浮かんできた。
氷上「人の慈善をこんなことに利用とする私が愚かなら笑ってもらってかまいません」
氷上は再び立ち上がって相川の方を向き直った。
深々と頭を下げる。
氷上「お願いします」
上げた目線には曇りは無い。
氷上「…この学校に橘さんのお孫さんのお姉様がいらっしゃいます、なんとか話をつけていただけないでしょうか…」
なんとも都合がいい話だ。
自分は散々あれだけやっておいて、結局他人に頼っているのだ。
馬鹿げた話だと思わないだろうか、普通は見捨てられてもいい。
だが。
氷上は泣いていたのだ。
双眸からは、雨と混じった涙がぼろぼろと零れ落ちている。
友人思いなのは嘘じゃなさそうだ。
氷上「…お願ぃ……」
いくら最低なことをしていても、プライドをぶん殴って自分に頭を下げているのだ。
ならばいつまでも意地を張っていても良くない、大体全てが上手くいけば万々歳なんだから。
そうだ。
相川は氷上の頭に手を置き、少し動かした。
あ……という小さな息が、氷上の口から漏れる。
相川「…吉田じゃないけど、女の涙には弱いんだ」
そう、優しく笑う。
氷上は口を手でおおった。
氷上「あっ…あっ……あ、ありがとう…ううっ、ぐすっ」
相川「おいおい、泣くなよ――――って」
人生で時が止まった、と思える瞬間はいくつかある。
こんな風に女性に抱きつかれたことなど無い相川も今それを体験していた。
そう、今氷上は相川に抱きついているのだ。
どうすればいいかわからない両手が宙をさまよう。
濡れた髪からいい香りがする、濡れて冷たいはずの服なのに体温が高いせいでぬるく感じる。
女ってのはこんなに暖かいのか、とか見当違いのことも考えていた。
何か柔らかいものが胸元を中心に体に当たっている、密着。
相川「ひ、氷上!?」
自分のキャラらしからぬ、上ずった声が出てしまった。
ホームランを打たれるよりも動揺している。
氷上「ぐすっ…………ごめんなさい……でも……私………相川君のことが――――」
ガチャ。
桜井「…会長、上手くいきまし……た……か…………」
刺されるんじゃないか、と相川は覚悟したという。
海部「…相川は来てないのか」
偶然なのか必然なのか、JRの駅の前で出くわした海部と真田、そして吉田と三澤は遭遇した。
雨のせいで少々クセのある毛先がいつもよりはねてしまう。
海部といえど女子だ、髪のセットぐらい気を使いたい。
内側にはねた毛先を指先でいじっていた。
真田「どうも自分のせいで、と気にしているらしい」
海部「…アイツのせいじゃないだろうに」
雨に濡れた用紙はなんとか乾かそうとティッシュをかぶされている、さほど意味はなさそうだが。
いつものようにニヤニヤ顔の雪澤が海部のすました横顔に顔を寄せる。
雪澤「なになに、相川君のことが気になるのかにゃ?」
関都「はぁ?海部それマジか?」
海部「何を言っているんだ…まったく、そういうのではない」
仲間内からの妙な詮索により、さらに気分を害したようだ。
吉田「でも、相川は結構気にしてたみたいだけどなぁ」
真田「っくく…」
海部「そ、そうなのか?」
と、急にこちらを向きなおす。
試合のときとは違って、今日はころころと表情を変える。
吉田「結構考えるタイプだしなぁ…」
三澤「そうだね、相川君内に溜め込むタイプみたいだし…」
海部「気遣う必要などない、と伝えてくれ。結果的に私たちが負けなければこんなことにはなっていなかったんだから」
何故か急にむすっとした顔で海部はまだ雨がふりしきる外を眺めた。
雨にやられた会社帰りのサラリーマンや、主婦、学生が我こそはと駅構内に逃れてくる。
おかげでそこらの床が水浸しだ、ローファーがつるつるすべる。
関都「なんで協力しようなんて思ったんだよ吉田」
吉田「あん?そりゃあだってよ、いくらなんでも無茶苦茶じゃねーか、黙ってられるかよ!」
関都「ふーん……将星の男子はなよなよした奴ばっかなんじゃないかと思ってたけどお前みたいなのがいたんだな」
吉田「なんだそりゃあよ」
関都「あたしはさぁ、そういうの嫌いじゃないよ。結構あんたも男気あるみたいだしさぁ」
三澤「…むー」
吉田「?」
関都はバシバシ吉田の肩を叩いた。
関都「ありがとよ」
吉田「おお!任しとけ!なんとかしてやるよ!何、きっと相川もすぐ手伝ってくれる!」
関都「結局相川頼りなのかよ…」
あはは、と関都は苦笑した。
その様子をなんとも面白くない様子で三澤は眺めていた。
海部「…」
雪澤「大丈夫だよ、晶。なんとかなるって」
海部「お前はいいな、気楽で」
雪澤「うんにゃあ、そうだねぇ。まぁでも深刻になっても楽しくないしねぇ」
海部「全く…」
上空は黒い雲に覆われている。
雨はまだやみそうにない。