231一軍戦28一秒間の戦い
九回裏、二死、ランナー二塁。
一軍9-8二軍。
アウトになれば、自分が最後のバッターだ。
だが、気負いはない。
トレードマークの爪楊枝は、天をむいている。
笑顔はない、長い前髪に隠れているせいで目は外からわからなかった。
ただ集中している。
マウンド上の植田も、キャッチャーの堂島も、いや、今ここにいる全ての人間が南雲から発せられる異様な空気を感じていた。
世界の半分がすでに、赤色から青色へと変わっている。
山の上にある桐生院からは星が良く見える、頭上にはいくつか白く光る宝石が浮かびはじめていた。
ボールは。
振りかぶってから三秒で来る。
きっちり、だというのならわずか0.000001秒で戦うこととなる。
あの速さではその狂いが命取りになる。
コースは、堂島のミットに寸分たがわず来る。
D。
集中力が高まった状態の植田は正確無比にボールに自分の力を与えることが出来る。
したがって、微塵の失投は絶対にない。
絶対にない、ということは、裏返せば絶対に狂うことがないのだ。
サイボーグ、いわばピッチングマシンとの戦いだ、いや下手したらそれ以上か。
ただ、懸念は追い込まれることだ。
追い込まれればおそらくストレートは投げてこない、今までの堂島のリードからして。
追い込まれるまでに、微塵を打つ―――より確率が高い方を、南雲は勝負に選んだ。
南雲(…)
口にくわえた爪楊枝は微動だにしない。
ゆっくりと沈み込み、右手をバットのグリップに添える。
左手を鞘代わりにして体を捻っていく。
サムライ。
居合い抜きののような構えが、植田の前に形作られた。
堂島(どうする)
誰も答えてくれる訳はない。
しかし堂島は迫り来る夜の空に問いを飛ばし続けた。
ここまで圧倒的な男…しかし、微塵を投げれば抑えられるだろう。
今までもそれでしのいできた…が、今回ばかりは嫌な予感がする。
堂島(…ちぃっ)
それでもマウンド上の植田は眉一つ動かさない。
セットポジションの体勢からこちらをじっと見続けている、体の半分が赤い。
堂島(あてつけか)
堂島にとって今の植田は、お前のリード通り投げてやるよ、と言っている封にしか見えなかった。
今までお前のリードが悪いから打たれたんだ、といわんばかりである。
…が、それは全て堂島だけの妄想である。
堂島は自分自身と戦うので必死になっているだけだ。
笠原「疑心暗鬼、か」
風が冷たくなってきた。
太陽が失われ、気温が下がっている。
ブルゾンを着込んでいて正解だった、前面に描かれた桐生院のロゴも夕日で赤く反射している、それももうなくなりはじめている。
笠原(疑うこと、それは信じれないこと。つまり自分を見失うことだ)
生きることとは、自分を信じることである。
当然生きるとは食べて寝ることでなく、何もない荒野を歩き続けることである。
自分を信じれなくなれば、歩き続けることはできなくなる。
信念はコンパスであり、地図だ、なくなれば迷ってしまう。
自分を信じれないとは、そういうことだ、意図した未来に向かうことを忘れて、この地図があっているのかと問い続ける。
それでは、日がくれてしまう。
笠原は帽子を深くかぶりなおした。
――――南雲の勝ちだ。
笠原(もっとも、今のまま、ならだ)
懸念はマウンド上のサイボーグにある。
何故首を振らない。
笠原はいらだたしげに歯軋りした、今の植田は望月と匹敵する能力がある。
それをつぶしているのが眼前の迷える旅人だ、口惜しい。
負けた方が退部などと馬鹿げた勝負だ、自分を自分で傷つけているにすぎない。
虚しい勝負だ。
植田はじっと堂島を見続ける。
出たサインはスライダー。
相手は大きい、この場面でわずかも動じていない、むしろこの勝負を楽しんでる感がある。
だが、自分も動じてはいない、まだ一点リードしている。
勝利を信じる気持ちは迷っていない、それは堂島からもらったDのおかげでもある。
が…心の奥底にもう一つ、ある心が芽生えていることにこの時点ではまだ自分でも気づいてはいなかった。
じっとキャッチャーミットを見つめる、外角低目、ボールに外れるスライダー。
植田、セットポジションからゆっくりと足を上げる。
シュッ。
風を切る音、手首が捻りボールに回転を与える。
バシィイッ!!!
『ボール!!!』
一瞬、南雲の爪楊枝がピクリと動いたが、体は一向に動かずボールを見送る。
堂島の背中にはまた嫌な予感が走った。
大和「自信を持って見送ったね」
神野「ああ、やっぱ集中してるときの南雲はおっそろしいな」
宗「正直、勝負はしたくない…が、今の堂島の頭の中には勝負しないっていう考えはないだろ」
灰谷「おまけに、南雲が出ればサヨナラのランナーとなる、植田はともかくその中で堂島が冷静に勝負できるか…」
見れば見るほど堂島の方が人間くさく、植田はサイボーグだ。
大和「南雲君はストレートを狙っているはずだ」
宗「まぁ、そういう奴だろうな」
灰谷「問題は…堂島が南雲相手にストレート投げさせるかな?」
パシィインッ!!
カーブ。
『ストライク、ワンッ』
南雲(まさか)
一度もストレートを投げないまま、自分と勝負する気か。
手立ての一つではあるが、それではキャッチャー失格だ。
パシィンッ!!!
南雲(チェンジアップ…)
『ボール、ツー!!』
望月「お、おいおい、ストレート投げない気かよ植田!!!」
三上「違うよ望月君、投げさせてないのは堂島先輩だ」
弓生「…訂正しなければ、と思った方がいい」
布袋「は?」
弓生「ストレートが来る三秒は、『振りかぶった』時のこと」
望月「…おい、今セットポジションだったじゃねぇか」
四球目―――。
その、サインは、来た。
今自分が一番自信を持って投げれる球種。
植田「食らえ南雲要!!!!!!!!」
気合が違う。
南雲の髪が夜風になびく。
その一瞬、獣のようにぎらつく目が覗く。
一瞬だけ赤く光る。
ドォン!
ボールは、ミットに収まった。
南雲のバットは空を切っていた…!
『ス、トライク!ツー!!!』
弓生「た、タイムっ…!」
思わず手を上げて、走っていく。
セットのことが、完全に頭から抜け落ちていた。
発見をしただけで、いい気になりすぎていた。
南雲のもとまで走っていったはいいが、弓生は書ける言葉が見つからなかった。
南雲「どうしたぜよ?」
弓生「あ、いや…三秒間は…振りかぶって…だと思ってくれれば」
ぽん、と南雲は弓生の頭に手を置いた。
弓生「…?」
南雲「わかっとるぜよ」
笑っている。
目の前の長身は笑っていた。
南雲「だが、わずか一秒間以内の違いぜよ」
弓生「一秒…」
南雲「勝負に水指しちゃいけん、まぁ、見とくぜよ、そう簡単に終わりはせん。ここまでつないでくれたおまんらの為にも」
行け、と南雲は優しく弓生の胸を押した。
これ以上は何もいえない、弓生はおとなしくベンチへと帰った座った。
大きい男だ。
相変わらず無表情ではあったが、弓生の目は多少ぬれていた。
堂島「降参の算段か」
南雲「まさかのぉ…それよりも、植田にストレートを投げさせちゃれよ、かわいそうに」
堂島「かわいそう…?奴をかわいそうだと思うのか…?」
南雲「…?」
堂島「自ら過ちに手をそめる男に憐れみはかけるものなのか?」
南雲「意味がわからんきに、さっさとサインをだしちゃれよ。植田はおまんをまっとるぜよ」
マウンド上の植田は威風堂々に立ち尽くしていた。
その視線はじっとホームベースに向かっている。
二死だ、ランナー勝負なのだろう。
堂島「…」
それでも、それでも堂島は、変化球を選択した。
その瞬間、植田の表情が一瞬揺らいだのを南雲は見逃さなかった。
植田、第五球…。
南雲「…しぃっ」
左手のバッティンググローブをこするようにして右手で刀を抜き去る。
自分のほうに向かってボールがスライドしながら落下していく…スライダー。
全神経を研ぎ澄ませる。
当てる。
キィンッ!!!
『ファ、ファール!!』
植田「…」
打球はファースト側に流れていく。
南雲は一切表情を変えずに、元の構えに戻る。
走る様子も見せなかった、ファールにするつもりで打ったのだ。
植田(カットした…?)
続く、三球連続、堂島は変化球を選択する。
キィン!
ガッ!!
ガキイッ!!!
全てファールボールに、南雲はいとも簡単に打ち分けていく。
しかも…全てがファースト方向へと引っ張ったファール…。
大和「ストレートを待っている」
そういうことになる。
宗「南雲め、ストレートが来るまでファール打ち続ける気かよ」
神野「確かに植田の変化球は当てれないレベルじゃないだろうが…」
灰谷「9回裏二死だぞ…アイツはやっぱりいかれてるな、普通の人間なら緊張して本来の実力も出せないところだ」
ロージンバッグを握る。
何を考えているんだ、この男。
堂島(くぅ…)
堂島にとっては完全に神経を逆撫でされる形となっている。
だが南雲は相変わらず集中したまま動かない。
堂島(俺にストレートを投げさせようという魂胆か…)
馬鹿げた話だ。
何故自分から自殺するような真似を…。
南雲「いつまでそうしとるつもりぜよ、植田」
植田「…なに?」
南雲「確かにバッテリーは協力しあうもんぜよ…キャッチャーであり先輩である堂島のリードには従うもんかもしれん…しかし」
南雲「それじゃあ、おまんは、一体このグラウンドのどこにいるがじゃ?」
植田「…!」
南雲「そうじゃろう、おまんが意思を発揮する場所は、おまんが意地を通せる場所は、今どこにある?つぶれていくのを黙ってみておける男じゃないはずぜよ、おまんは!!!」
植田「ほざけ!!お前に何がわかる!!!」
南雲「少なくともおまんがストレートを投げたがっとることぐらいはわかるきに!!」
植田「……」
植田は押し黙った。
本心を、心の奥底にある本音を当てられたからだ。
頭では堂島のリードに背く気はない、だが右肩がうずいている。
堂島「…余計なことを吹き込まないで欲しいな、南雲」
南雲「お前らは金メッキのダイヤぜよ。見た目は綺麗じゃきに、みんなだまされるが、一皮向いたら本当の姿が出てくる」
堂島「…誰が金メッキかと言いたいのかね」
南雲「植田、意地を張ってる相手にはおまんも意地を張ればいいぜよ」
植田「…」
堂島「誰のおかげで、ここまで来れたと思ってる」
植田は黙って堂島のリードにうなずいた。
わずかな明かりの中で、植田は考えていた。
それでも、やはり頷くしかなかった。
植田「くそおっ!!!」
南雲「…また、変化球か」
カーブ、くく、とゆっくりと曲がり落ちてくる…が。
キィンッ!!
『ファール!!!』
南雲「無駄ぜよ…おまんの変化球は、わしには通用せん」
植田「ふざけるな!!!」
南雲「ストレートなら、あるいは、ぜよ」
植田「どういうつもりだ…なんなんだ、なんなんだお前は!!」
南雲「おまんの、全力と勝負したいだけぜよ。中途半端に戦っても、双方に悔いが残るだけぜよ」
堂島「誰が中途半端だと言うのだっ!!」
南雲「真剣勝負は戦、どちらかが全滅するまでやるもんぜよ」
植田匡人は下唇を噛んだ。
見えない声の正体は、右肩だ。
Dを植えられたといっても、メッキの奥底には本当の植田の右肩がある。
いかに軽くても望月と比較されようとも、ストレートには自信を持ってきた。
それでも変化球を投げさせられるというのは、いかなる事情があろうとも自分のストレートを信用してもらっていないということだ。
所詮、人の信念を曲げることもできないということだ。
それでも自分の信念を曲げる必要はないのではないか。
素直な自分でいるべきではないのか。
サインは、チェンジアップ。
堂島様はどうやら自分を曲げる気はないらしい。
植田はセットポジションから、ゆっくりと足を踏み出していく。
突き出した左腕を引き絞り、弓のようにして打つ。
ボールはゆっくりと弧を描いて…。
キィンッ!!!
南雲「まっすぐはどうした!?まっすぐを投げて来いぜよ!!」
植田「…ぐ」
堂島「何を迷う必要がある、私に間違いはなかった、そうだろう?」
堂島のサインは、スライダー。
植田「――――っ!!!」
振りかぶった。
堂島「…」
呆然としている、ランナーの妻夫木ですら、一瞬戸惑った。
ゆっくりと足をあげる、そこから、右肩がうなりをあげる。
咆哮!!!!!
植田「うおああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
―――ギュバアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!!!!
望月「来た!!!!!」
三上「ストレート!!!!」
微塵!!!!!!!
加速していく途中で、ボールは姿を消し、夕闇に消えていく。
だが、南雲の光る双眸はその球を捕らえている。
わずか一秒間の戦い。
南雲は左足をいつもより一歩後ろに出した。
その分だけ、ボールにバットが追いつく。
バットを短く持ち、軌道に乗る時間を極限まで減らす。
南雲「それでいい」
植田「そうかい」
カキイイイイイイイイン!!!!!!!!!!!!!!!!!
悔いはない。
自分の真横を駆け抜けていく打球は速すぎて反応も出来なかった。
立ち尽くし、夜空を見上げる。
妻夫木がホームベースに帰っていくのがわずかながら見えた。
神緒「馬鹿野朗ぉおおおおおおおおおお!!!!!」
誰もが振り向く。
二塁へ向かおうとしていた南雲が塁間に挟まれている。
植田はゆっくりと振り返った。
神緒がセンターの前で倒れこんでいる。
凄まじい打球が右中間を抜けようとしたとき、神緒がダイビングで転がるボールをとめたのだ。
そのまま上半身だけを起こして二塁へ送球。
南雲はタッチアウト。
南雲「…楽しいじゃろ?植田?」
植田「……さぁ」
南雲「素直じゃない、ぜよなぁ」
堂島「何故だ…何故だ!!」
いつも、どうしてこうも自分の思い通りにならないんだ。
変化球で南雲をうち取らなければならなかった。
命令無視でストレートを投げた上に、結局同点止まりだ、無様に負けていればいいものを…!
―――拍手が巻き起こった。
ギャラリーからの拍手。
二軍ベンチ、そして一軍ベンチからに対する、南雲と植田と、そして神緒に対する拍手だった。
気づけば、他の部員や、生徒もいる、グラウンドの周りにはいつの間にか人でごったがえしている。
そして皆が手を叩いていた。
それだけ、見事な一勝負だった。
そして、完全に日が沈み、世界は暗闇と星に沈まれた。
―――ガァンッ!!!
設置された桐生院グラウンド専用の巨大な照明に灯がともる。
激戦は5時間を越えた。
十回表、一軍9-9二軍。