226女子ソフト部戦10再起。











もう、実はちょっと気になる男の子だったのだ、そのときから。

女の子は得てして精神の成熟が男子よりも早い…まぁ要約すると、柚子は吉田少年のことがなんとなく気にかかっていて、からかわれるほど仲の良い友達はいなかったけれど、テレビや本を見ててなんとなしに、二文字の感情を彼に向けているんじゃないのか、とは思っていた。

ともかく、そんな相手の前に無防備なパジャマ姿を晒すなどもってのほか。

何故こんな格好で玄関に出てしまったのだろうか。


三澤「!!!ちょ、ちょっと待ってて!」

バタァンッ!!

吉田の体が吹き飛ばされるほどの衝撃でドアが閉められた。

そんなこんなで訳もわからずドアを閉められて、目をパチクリするしかなかった吉田だが、すぐに正気に戻る。


吉田「お、おい!三澤!確かに急に来て悪かったが話ぐらい聞いてくれっ!」

三澤「うるさいっ!ちょっと待ってろ!」


玄関先でギャアギャアわめく吉田少年に一喝し、慌てて自室に戻…その前に洗面台に行き顔を洗い、髪の毛を整える。

…たかが、来客一人迎えるのに何故ここまでしてるのだろう、と幼き柚子は少し疑問系に思って気恥ずかしくなったが、それでもあの不恰好さのままで吉田と話す方が耐えられないだろう。

自室に戻って、お気に入りのワンピースに肌を通し…。

三澤「…」

あの日、吉田からもらった緑色のハンカチ…もといリボン。

あれ以来毎日つけるようにしていることに果たして彼は気づいてるだろうか…いや気づいてないだろう、幼き少女の乙女心など知ろうともしない野球馬鹿だからだ。

まぁ、いいかなぁ、なんて少し前までは考えもしないような答えで思考をまとめ、手早く長い髪を後ろでまとめる。

こほん、と念入りにのどを一回鳴らしてから、いまだ叫び倒しているドアを開けた。

あんまり騒がないでほしい、もし母親がいたら盛大にからかわれるところだ。


三澤「…何?」

吉田「け、怪我、怪我なんだよ!試合が足りなくてできないから、お前出てくれないか!?」


は?と三澤は眉をひそめた。

一体何を言っているのだろうか。

いつものように泥だらけの白いランニングに半ズボン、裸足にスニーカーはいつの時代の小学生と問いたくなるような格好の吉田少年の額は汗にまみれていた。

女の子の家を尋ねるならもうちょっと別の形があるでしょうに…、いやこの男にそんなことを期待しても今更だろう。


三澤「落ち着いて、何のこと言ってるかさっぱりわかんないよ」

吉田「と、とにかくついて来いっ!!」

三澤「え…きゃあっ!」


いきなり右手を取られて連れ出されてしまった。

鍵をかけてない、とかテレビ消し忘れてる、とかいろんなことを考えたけど。

目の前の少年に手を握られているという事実の前では、それ以外の事項は全て白くぶっとんでしまった。

走っているのに加え、別の理由でも胸がドキドキする。

顔がかあっと熱くなって、前を向いていられなくなった。

三澤(なんで?一体何の用があってこの私を呼び出したんだろ)

…期待するだけ無駄だろう、どうせこの男は野球のことしか考えていないのだ。

はぁ、と少しだけ熱いため息をついておとなしく前をひた走る少年についていくことにした。

それでも三澤はちょっぴりだけ幸せだった。




吉田「連れてきたぜっ!!」

「あぁん?なんだぁ、そんなおとなしそうな奴が野球できんのかよ?」


草でびっしり覆われた坂道を走り降り、並べられた自転車をかいくぐる。

向こう側に見える大きな鉄橋の上を列車が駆け抜けていく…河川敷。

太陽の光を受けてきらきらと反射する川面がずいぶん向こうの方に見える、対して手前に見えるのはその草を抜いたのだろうかそれとも踏み鳴らしたのだろうか、土でできたグランドが広がっていた。

そこにどこから持ってきたかわからない四角いダンボールが四つ、そして多数の子供たち。


三澤「やっぱり…」


ようやくたどり着いた、とへばった三澤をそのままに吉田少年は相手と思われる坊主頭の少年に向かっていった。

吉田少年よりもずいぶん横に幅が広い、そして態度も偉そうだ…いわゆる柚子が一番嫌うガキ大将と言うタイプだった。

その少年が私に対してだろうか、罵詈雑言を並べ立てている、失礼な。


「誰を連れてくるかと思ったら…俺たちもなめられたもんだな!」

吉田「できるっ!三澤は俺たちの練習ずっと見てたんだぜ!ルールぐらい…」

三澤「ちょ…ちょ、ちょっと待ってよ、吉田君」


とりあえず状況を理解しなければならない。

いきり立っているのはどうやら吉田少年だけで、どうやら彼のチームメイトも話についていけてないそうだ。

チームメイト、と言ってもどれもこれも見たことのある顔ばかりだ、柚子と吉田のクラスメイトであった、皆が微妙そうな顔をして柚子をぼけっと見ていた。

その中で足を抱えてうずくまってる少女がいた。

クラスメイト…名前は桜井とかいったか。

確か子ども会の何かのソフトボールをやっていたと思うのだが、おそらく吉田少年によって借り出されてきたのだろう。

ちなみに子ども会にはソフトボールしかない、おまけにこんな田舎町にはリトルリーグすらない…そんな中で吉田少年は何故か頑なに野球をすることにこだわった。

一度だけその理由を聞いたが『俺は野球がしたいの!』という無茶苦茶な理論で返されてしまった、柚子にとってこんな直情的な人間は初めてだった。

とにかく、一体何事かとそのうずくまっている桜井さんのところまで駆け寄る。

正直あまり仲は良くない、それはそうだ、昔があんなキャラである柚子である。

吉田との多少のつきあいによって嫌われることはなくなったが、別に好かれているほどでもない…というか三澤自身がまだまともに喋れる相手が吉田ぐらいしかいなかったからだ。


三澤「…大丈夫…ですか?」

桜井「うん……ちょっと…痛…」

「お、おい桜井大丈夫か!?」

三澤「触っちゃ駄目…」


母親は看護婦でも医者でもないが、何故か医学関係について詳しかった。

深く理由は聞かなかったが、おそらく父親とか関係があるのかもしれない、幼少の頃から柚子が怪我をする度に驚くほど適切に処理されてきたので、柚子も多少は怪我について知識があった。


三澤「なんで怪我したの?」

桜井「さっき守ってるときに捻っちゃって…しばらく大丈夫だと思ってたけど…バット振ったら足が立たなくなって…」

三澤「…そうなんだ」


軽い捻挫だったのが、無理したので炎症がひどくなったのだろう。

湿布でも当ててしばらく安静にしなければならい、あまり無理をすると他の場所も痛めてしまう。

とにかく無理に動かないで、と念を押して三澤は周囲にいたクラスメイト達に状況を聞いた。

どうやら隣の小学校と練習試合をしていたらしいのだが、最終回の土壇場で九人ギリギリで試合していたこちらのチームの…そこの桜井さんが動けなくなってしまったらしい。

しかもバッターだったことでそこで試合は中断…代打ぐらいルールを認めればいいのに、向こうは頑としてそれを認めなかった。


吉田「これで文句ないだろうが!」


というのもここまでで、はるか向こうの川まで打球をぶっ飛ばした回数が三回…つまり3ホーマーの吉田を代打にしたくなかったかららしい。

なんせ敵チームはプライドが高いらしく、試合前さんざん将来のプロ候補などと自慢していたぐらいだ、兄も有名中学の選手らしい、こんな田舎のチームに練習試合だろうと負けたくないのだろう。

なんとも馬鹿げた話である、子供のケンカにムキになって…。


「………ノリオ…ひそひそ」

「………ふん、そうだな…いいぜ、そこの女を出しても」


おそらく柚子なら打ち取れるだろうという算段があったのだろう。

そのガキ大将らしき太った少年はいやらしく笑うと吉田に顎を向けた。


吉田「よっしゃあ!三澤出番だ!!」

三澤「……えーと」


確かに状況は飲み込めたんだけど…。


三澤「あのね、吉田君その…言いにくいんだけど、私はその吉田君たちの練習は見てるけど…野球自体はやったことないから私下手くそだよ?」

吉田「いーんだよ下手くそでも!」

三澤「?」

吉田「とにかく試合を最後まで俺はやりたいんだっ!負けても勝ってもいい!ただ中途半端に終わるのだけはごめんなんだ!」

三澤「…うーん…」


と、言われても…柚子はちょっとうつむいた。

最終回、点差は一点、二死、ランナーは二塁に一人、三塁に一人、まるで思い描いたような場面だ。

一発サヨナラもありうる、なーんて…。


三澤「でも、やるからには負けたくないよね?」

吉田「そ、そりゃ、そうだが…」

三澤「じゃあ、教えてよ」

吉田「は?」

三澤「私、バットも振ったことないんだよ」


その言葉を聴いて、向こうのチームのメンバーが大爆笑した。

ど素人が打てるかよ、とゲラゲラ笑っている。

嫌味や悪口には慣れている、と三澤はすまし顔で吉田少年を見つめていた、その反応に何故か吉田の方が少し慌ててしまった。

こんなところも、三澤が全国レベルの女子ソフト部員達や、周囲のプレッシャーがありながらも途中までまともなピッチングを続けていられた要因だろう。

とは言うもののやはり、その柚子の右手も多少震えてはいたが。


吉田「うーん、じゃとりあえず、これ」



ほら、と吉田少年は自分のバットを柚子に渡す。

その重さに思わず、よろけてしまう。


三澤「け、結構重いんだ…」

吉田「まぁな、ほらちゃんともって…ああ駄目駄目、その巻いてる紐あるだろ?」

三澤「うん」


当然、吉田のバットは木のバットであった。

グリップのところには自分で巻きつけたのかぐるぐると包帯のようなものが巻かれており、ひどく汚れていた。

だが自然と柚子はそれを握るのが嫌ではなかった、むしろ…吉田の手に握られているみたいで…。


吉田「なるべくそれの上の方を持つんだ」

三澤「あ、少し軽くなった」

吉田「俺は馬鹿だから良くわからんが、真ん中を持つと棒は軽くなるんだぜ」


ふぅん、と三澤は軽く聞き流した。

この吉田少年、皆の人気者で運動神経抜群、顔もまぁまぁ、明朗快活…だが、おつむの方は見ているこっちの方が悲しくなるほど悪かった。

三澤にとって、その…勉強の話題が出せることは話をするとっかかりができた幸運であったが。


吉田「じゃあ、振ってみろ」

三澤「え?」

吉田「ほら、俺たちがいつもボールを打ってただろ?」

三澤「う、うん」


言われるままにブン、とバットを振る。

駄目だ。

柚子は振り終わってバットに振り回されるようによろよろとよろける。

自分でもまるで駄目なスイングだとわかってしまった、いつも見ている吉田と比べればひどいものだ。


吉田「お、結構いいじゃんか?」

三澤「…へ?」


驚いた、まさか褒められるとは思わなかったから。

…が、そんな訳ない。


三澤「…おせじ、はよしてよ」

吉田「おせじ?なんだそりゃ」


言われて、三澤は言葉に詰まった。

そりゃそうだ、この吉田少年は柚子をかつてえぐい言葉で傷つけるほど人に気を使えない男なのだ、いやまぁ言い方を変えれば真っ直ぐとでも言えるのだが。

とにかく、ということは吉田少年は素直に柚子のスイングを褒めたのだ、不恰好この上無いスイングを。


三澤「…んー」

吉田「初めてバット振ったんなら上等上等!はっはっは!!」


ガハハ、と笑い飛ばす。

品の無い笑い方であったが、この豪快な笑顔を三澤は嫌いではなかった。

自分に無いまぶしい笑顔…いつか私もあんな風に笑えるのだろうか。


三澤「こ、これでいいの?」

その後、何度か吉田にアドバイスを受けようと質問するも、帰ってくる答えとは。

吉田「大丈夫だ、思いっきり振ってりゃいい」

ぐらいしかなかった。

聞いてるこちらが馬鹿らしくなるほどのシンプルな答えだった。

ため息は気づかれなかったようだ、吉田はうんうんと頷いた…もちろん笑顔で。


吉田「よし、なら勝負だ!三澤!行こうぜ!!」

三澤「え?も、もう?」

吉田「あんまり考えるとよくねー!来る球打てばいいんだ!」


簡単に言うなぁ、と三澤はまたため息をついた。

実際にやるのと言うのではぜんぜん違うのに…。

ええい、仕方ない。

かわいらしいワンピース姿に、木のバットというアンバランスな装備で三澤柚子は打席に立った。


「ふふ……打てるもんかよ」

三澤(む…)


相手の少年は、下は半ズボンだったが上はプロ野球チームらしきユニフォームを模(かたど)ったシャツを着ていた。

と、いうことは野球経験も豊富なのだろう、言葉も偉そうだし。


「行くぜ!!」


太い投手は、大声をあげて右腕を上から振り下ろしてきた。















―――は?


バシィンッ!!!

「どうした?ストライクだぜっ!!」

審判役のこちらのチームメイトが苦々しくストライク宣言を上げる。

しかし柚子にとってそんなことよりも……。



三澤(は、はや…)


びっくりした。

ううん、怖い…。

柚子はバットを落として、自分の体をぎゅっと抱きしめた。

三澤(…何…これ)

違う、全然違う。

やっぱり、見てるのと、実際やるのとじゃ全然違う。

あんな速い球…当たったら…死んじゃう。


「くくく…びびっちゃったか?」

三澤「う…」



いつも偉そうに理屈ばかりで物事を述べていたと自覚していた柚子は、激しい自虐に陥った。

何のことは無い、結局何もできないのだ私は。

心の底のどこかで、なんだそれぐらい、打てばいいんだろ?と野球を甘く見ていたところが、確かにあったのかもしれない。

だからこそ今見た本物の投球にショックを受けた。


吉田「大丈夫だ三澤っ!!まだワンストライクだ!」

「そうだそうだっ!!」

「いけえ三澤っ!!」


―――だが。

がちがち、と歯が震えていた柚子がバットを振れるはずもなく。

あっという間に、2ストライクに追い込まれてしまう。

駄目だ。

やっぱり私じゃ、駄目だよ。

代わりの人を呼んできたほうが…。


ふらふら、と柚子は勝負の外側で応援していた吉田少年の下に歩いていった。

吉田「お、おい三澤、どうしたっ?」

三澤「……だ、駄目だよ、やっぱり」

あんな速い球打てるはずがない、というかバットに当てるどころか、バットを振ることさえできそうにない。

柚子の瞳は涙で今にもあふれそうなほど潤んでいた。


三澤「わ、私の代わりを探したほうが…!」

「それが…駄目だったんだよ」

桜井「知り合い全部当たったんだけど…三澤さん以外にもういなくて…」

三澤「…そんな」


なんのいじめなんだこれは。

だから人とかかわりあうのは嫌なんだ、勝手に重い責任を押し付けて私にどうしろというのだ。

吉田君、うらむよ、と非難がましく睨んでみる、猫の手を借りたいつもりの向こうの心情もわからなくもないが、今のこの切迫した状況で冷静にそんなことを考えることはできなかった。


吉田「どうしたい三澤、泣くなよ」

三澤「…う、な、泣いてないもん」

吉田「前にも言ったけどよぉ、俺は泣いてる女を放っておけないって言われてるんだ」

三澤「……」


うつむく三澤の肩を、急に吉田の両手が掴んだ。

ちょっと、と何をされるのかわからなくなり三澤の頬が赤く染まる。





吉田「な、三澤、笑おうぜ?」




はい?

この期に及んで一体この男は何を言い出しているのか。

笑えって、どういうことなのよ、と柚子は訳がわからなくなった。

吉田「ほら、はっはっはっは!!」

吉田はいきなり大爆笑…というか豪快に笑い声を上げるが当然柚子はぼんやりとその様子を見ているしかできなかった。

吉田「なんだっていいんだよ、無理やりでもいい。だけど」

不思議だった。

彼の声や、姿、表情を見てると、くよくよすることが馬鹿らしくなってくる。

なんとかなるんじゃないの?と思えてくる。

あんなに必死に誘ってきたから勝負を受ける気にもなってしまったし、自信満々に褒めるから打てる気がしてしまった。




吉田「そんないじけてる顔じゃボールは打てないぜ」


今回の挿絵。

きゅん。

―――ああ、なんだ。

なんてことは無い、私はきっとこの笑顔に憧れていたのだ。


三澤「…あはは、かもね」

「吉田いい事言った!!」

「さすが吉田君!!」

吉田「おーし、その調子だ!!よし、いいか三澤、ちょっといい事思いついた、こっちこい」

三澤「わわわ、ちょ、ちょっと!」


急に顔を近づけられて小声で話される。

み、耳に息があたって…。


三澤「………っ」

吉田(いいか、三澤、相手が振りかぶった瞬間から1.2.3を数えて、真ん中を思いっきり振りぬけ)

柚子(…え?そ、それでいいの?))

吉田(おお!多分今まで投げてきた球全部ど真ん中だし…。お前には多分ど真ん中しか投げてこないって)

三澤(1.2.3スイング…?で、いいの?)

吉田(おう!よし、行ってこい!)


顔が離れていき、どん、と背中を押される。

吉田「笑え!笑おうぜ三澤!!きっと打てる!!あっはっはっはっは!!」

三澤「…くす…」

「おお!あの三澤が笑ったぞ!!」

「なんだ結構かわいいじゃん!」

三澤「……え、えと」

桜井「…三澤さん」

三澤「…?」

桜井「がんばって……」

三澤「うん!……ああ、えっと、その、そうだ。いい吉田君?」

吉田「ん?なんだ?」

三澤「もし…もし、私が打ったら……私のこと、下の名前で呼んでもいいよ」









中学生三年生…の秋。

そろそろ進路調査票も提出しなければならない…と、言っても不確定な目標だが柚子の進路は半ば決まっていた。

桜井「でもさ、柚子は変わったよね」

三澤「…ん?そう?」


放課後、掃除当番だった二人は用具を片付けた後軽くおしゃべりに乗じていた。

椅子に腰掛け、リラックスした体勢の楽しい会話。


桜井「そうだよ、覚えてる?あの時の試合」

三澤「えっとぉ、私が傑ちゃんに無理やり参加させられた試合だよね?」

桜井「そうそう、ほらあの偉そうなピッチャーから柚子がホームラン打った試合だよ。その後みんなで大騒ぎになってさぁ」


あの試合は結局柚子が外野と外野の間にボールを弾き返して、サヨナラゲームということで幕を閉じた。

その後もみくちゃになって、お気に入りのスカートを泥だらけにしながらも皆と喜びをわかちあった、人生においてあそこまで心から笑えたのは初めてかもしれない。

柚子は嬉しすぎて泣いてしまったほどだ、あの時の吉田の顔はまだはっきりと覚えている。

その後はもう柚子はそれはそれは皆が驚くほど目に見えて明るい娘になっていき、吉田以外にも破壊力抜群の笑顔を振りまく少女へと変貌を遂げた。

桜井に誘われソフトをはじめ、女の子の友達もたくさん増え、少しづつ日常へ溶け込んでいった。

まぁ、素直になれなかった子が、素直になっただけだが。



桜井「あの後、ソフトに誘ったまではよかったのに…友情より愛情をとったんだからなぁ」

三澤「な、何言ってるの!?」

桜井「まさか野球のマネージャーになるとは思っても無かったんだよぉ?先輩たちもみんながっかりしてたなぁ、ウチのエースになると思ってたのに」

三澤「うーん……そ、それはそのぅ…」

桜井「大体吉田君も吉田君よねぇ、こんだけ露骨に柚子が好き好きビーム出してるのに気づかないんだもう」

三澤「も、もうなしなし…」

桜井「昔は柚子もっと暗かったよねぇ、これも吉田君のおかげ?そういえばそのポニーテールも…」

三澤「は、恥ずかしいから終わり終わりっ!…それより小春はどうするの、進路?やっぱり将星?」

桜井「んー……別にソフト目的じゃないけど。制服も可愛いし…」

三澤「…そっかぁ」

桜井「柚子は…うーん、柚子もやっぱり将星?」

三澤「ど、どうして?」

桜井「ほら、吉田君が聞かれても無いのに担任に俺はゼロから甲子園を目指す!って言ってたの聞いたよね?」

三澤「あー…うん」

桜井「ついていくんでしょ?」

三澤「あはは……そう、かも」


もうとっくに吉田が好き、なんてことはわかってるのだが。

なんというかそれだけじゃなくて…尊敬というか親愛というか…馬鹿げた話だがあまり親しくない父親よりもよっぽど父親らしいというか…。

だから恋人になる、という感じがどうもいまいち納得できない、もっとも吉田関係でドキドキすることはたくさんあるのだけれど。

本人がああも男女関係に疎いと自分もそんなことどうでもいい気がしてくるのだ。

ただあれだけ必死にがんばっている大切な人の手助けをしたい、そんな感じ。


相川「三澤、ちょっといいか?」


と、廊下から隣のクラスの相川君が顔を出す。

人数の少ない吉田が野球部に無理やり入部させた選手で、いい意味で対称的な彼らはいいコンビ…だと柚子は思う。

とにかく吉田にとって相川は親友であり、ということは柚子にとっても相川は大切な人である。


桜井「…ぁ」

相川「…」

三澤「え、えっと、じゃあ小春、それじゃ行くね」

桜井「う、うん」


それと、この二人もいろいろあるみたいだったけど、こればかりは本人の問題だ。

最近急によそよそしくなってしまったが、そんなに険悪という訳でもない。

複雑なんだろうなぁ、と思いながらも相川についていくことにした。


三澤「…あ、あのさ」

相川「なんだ?」


まぁ、親切は親切なのだが…やっぱり相川は吉田と比べて多少つっけんどんなところがあるので、三澤も多少おとなしくなってしまう。

桜井小春のことを聞こうと思ったけど、冷たい…本人はそのつもりは無いんだろうけど…物言いに多少言いよどんでしまう。


三澤「う、ううん、なんでもない。えっと……それで、傑ちゃんのこと?」

相川「…くっく、中学生にもなって他人の男に『ちゃん』づけ、か。最初は驚いたぜ俺も」

三澤「…ぅぅ」


改めて指摘されると多少恥ずかしいものがあるが、せめて呼び方ぐらい自分の思い通りにしておきたい、傑ちゃんと呼ぶのは世界で一人だけ。

まぁ、それはともかくとして。


相川「どうやらあの馬鹿、進路書に大真面目で将星って書いたらしいぜ」

三澤「え?やっぱり?」

相川「野球部ない女子高だってのによ…くっく…はっはっは!本当に面白い奴だ吉田は」

三澤「…うーん…でも、どうして将星なんだろ?」

相川「あいつのお袋、体が悪いだろ?だからあんまり家から遠い高校に通いたくないんだよ、そうなるとあいつの行ける高校は市外になっちまう。…なら、家で近いところだと新しく男子生徒を取り出した将星ぐらいしかないだろ。後のところじゃアイツじゃあいけない」

三澤「……それで?」

相川「アイツに勉強を教えろと、顧問がからのお呼び出しでな」

三澤「うん?じゃあどうして私が?」

相川「俺一人の力でアイツをバットから引き剥がせるか。…不思議とお前の言うことならあいつは聞くからな」

三澤「私…っていうか、傑ちゃん女の子のお願いに弱いから」

相川「……ふざけた話だ」

三澤「ねぇそれよりも…」

相川「なんだ?」

三澤「相川君も、将星に行く…って本当?」

相川「まぁな」


考えられない話だ。

相川ほどの学力があれば、市内でも有名な進学校…どころか、都心の超エリート校にも進学できる。

どっちかという吉田が将星に行く、というよりも相川が将星に行くという方が驚きだったりする。

でも…柚子としてはなんとなくわかってもいた。

きっと彼も私と一緒なのだろう。


相川「馬鹿みたいな話じゃないか、ゼロから甲子園なんてよ」

三澤「…」

相川「だけど、アイツは俺になんというか、夢を見せてくれたんだ」


相川も三澤と同じくこの学校で吉田と出会ったときは無愛想で暗い少年だったという。

だが吉田はその相川の才能を高く評価し、無理やり野球部に引き入れてた。

それから、勉強しか知らなかった相川の人生が大きく変化を遂げた。


相川「スポーツなんか絶対にやらないと思ってたのに、人間わからないもんだな。それもこれもあの馬鹿野郎のせいだ」

三澤「うん…そうだね」


口調とは裏腹に相川は笑顔だった。

そう、一見冷たく見えるこの人も中身は吉田と同じぐらい熱いのだ。


相川「俺は…『楽しい』ってことを、アイツに教えてもらった。人生変わった…なんて言えば大げさかもしれないが、三年間ぐらいアイツの夢を助けてやってもいいじゃないか」

三澤「うん!」

相川「…三澤、俺はやるぜ」







―――アイツが力尽きて諦めるまで俺はアイツを支えてやると決めたんだ。

―――私も……できる限り傑ちゃんを支えて、あげたい。














ぱち。

吉田「柚子っ!!だ、大丈夫か!?」

三澤「……?あれ?私、どうして…」


なんだか夢を見てたみたいだ。

気を失ってたのだろうか…そうだ、今は試合の途中で…。


相川「ダブルプレーだよ」

三澤「へ?」

大場「海部さんの打球は三澤さんの体に当たったとですが…」

西条「その球を素手で掴んだんや…見事なダブルプレーやで」

三澤「…そう、なんだ」


……海部の打球は三澤の肩と首の間を強く強打した…が、三澤は吹き飛びながらも空中に浮いていたそのボールを右手で捕球、その場で崩れ落ちた。

長打になると、打った瞬間にスタートを切った関都を封殺すべく、相川は三澤に駆け寄ったのだが、誰よりも早く吉田が既にそこへ到着していた。

信じられない速さだ、火事場の馬鹿力と言う奴か。

そのまま吉田に指示を送って二塁に送球、スリーアウトチェンジで四回を防いだのだ。



三澤「良かった……いつ…っ!!」

緒方「う、動かないでっ!!今担架呼んでくるからっ!!」

三澤「でも…私…投げなきゃ…」

吉田「駄目だあっ!!!!!」


今気づいた。

ぽたぽた、と柚子の顔の上に何か水滴が落ちている。

眼前の吉田がぼろぼろと泣いていた。


三澤「駄目だよ…傑ちゃん…傑ちゃんは笑って無いと」

吉田「柚子…っ!……すまねぇ!」

県「…吉田先輩のせいじゃありません…」

海部「それより、あまり動かないほうがいい」


先ほどの打者であった海部が倒れこんだ柚子の側に膝を立てた。

入念深く、その打球が当たったところを見て、わずかばかり触れてみる。


海部「…なんて腫れだ…もしかしたら鎖骨が折れてるかもしれない」

相川「な…っ!」

原田「鎖骨っ!?」

吉田「…ぐ…っ!!!!」


吉田は両手を握り締めていた、白くなるほど、強く、強く。

しかし相手もわざとじゃないということはわかっている、だから何も言うことはできない。

どうしようもなかったということもわかっている。

だが……柚子が苦しんでいると思うと……。


三澤「…傑ちゃん、ごめんね、ちょっと苦しくて…喋れないかも」

吉田「いい!喋るなっ!!」

冬馬「そ、そうだよ!悪化したら…!」

三澤「…でも聞いて……」


三澤はそう言うと少しだけ吉田に顔を寄せようとする…が、痛みで顔をゆがめる。

その意を察してもう目からぼろぼろと汗を噴出している吉田は耳を寄せた。


三澤「………!」

吉田「…え?そ、それ…」

三澤「……勝っても…負けても…いいから、中途半端は、駄目、だよ」


そうして、三澤は保健室へと運ばれていった。




事によると入院かも、という保険医の響きがなんとなく耳に残ってしまった。

騒然となったグラウンドだったが、その熱も徐々に引き落ち着きを取り戻している。

試合を、再開せねばならない、根性で身を挺してアウトを取ってくれた柚子のためにも。

だが…。




海部「……諦めろ、相川」



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