220一軍戦17とまどい
六回裏、一軍6-2ニ軍。
無死、一塁、二塁。
南雲(ここで、差をつめずにどこでつめるぜよ)
口にくわえた爪楊枝もいつもより湿り気が増している。
上空の雲は依然立ち去る様子もない、雨ももちろんやむ気配すら感じさせなかった。
ヘルメットを雨粒がたたきつける。
堂島(最悪の場面だ)
流れは完全に向こうに向いている。
この雨が堂島の行く道をさえぎっていた。
だが、乗り越えればおそらくもう向こうに流れがいくことは無い。
堂島はゆっくりとマスクをかぶりなおした。
視界は雨霧のせいで多少ぼやけている、しかし植田の目から闘気は失われてはいない。
植田(…)
動じてなどいられない、チャンスは二度ないのだ。
植田の心は水をうったように静かだった、自分でも驚くぐらいに。
これもDの副作用なのか、そうでないのかはわからなかった。
これは、試練だ。
植田(南雲要…)
バッターボックス上に、背の高い男がいる。
そして、ゆっくりとあの構えにうつる。
先ほどまでは座っている堂島の二倍ほどはあろうかと思えた背丈が、身をかがめる体勢のために半分ほどになる。
だが雨に濡れたその前髪から覗く目は植田の目を確実に射抜いている。
両者の目線は一時たりとも外れてはいない。
植田の足が、セットポジションからゆっくりと上がった。
堂島の配球は…………ストレート!!!
植田「微塵っ!!!!」
ゴッ―――!!!
南雲「…!!」
確信。
迷いなどない。
キィィィンッ!!!!!!!!!!!!!
ボールは、空の遥か彼方に消えていった。
ただ、ファールラインの外側である。
『ファールボール』
『危ねぇ…』
『もうちょっとでホームランだぞ』
観客からの大きなため息が漏れた。
牧(何もわかっちゃいない…)
つり球だ。
ストレート…微塵ではあるが、わずかに外角に外れていた。
流石の南雲もあの球をスタンドに放り込むことはできない。
大和「ここだね」
傘の下の大和がぼそり、ともらした。
宗「やはりか」
神野「まぁ、ここじゃなかったらどこだっていう話だが」
大和はゆっくりと頷く。
大和「堂島君、この場面でどうリードするかな」
この雨だ。
微塵もまた、白翼、ライオンハートと共にリリースポイントが関係してくる。
この雨ではボールも滑りやすくなる。
つまり、ボールに力を与えにくくなり、そうすれば自然とストレートの威力は半減する。
灰谷「…しかし、もし変化球を投げても」
大和「そう、南雲君なら」
間違いなく、捉える。
植田自身の変化球が悪いというわけではない。
ただ『微塵』ほどの威力でないと、今のニ軍には太刀打ちできない。
それほどまでに南雲たちの実力は恐ろしく、それでも打てない微塵は反則級の威力であった。
だが、この雨だ、微塵の威力は先ほどまでより明らかに落ちている。
植田自身に落ち度は無い、ただこの場面での南雲が…。
大和「圧倒的過ぎる」
バシィイイッ!!!
『ボール』
変化球を低めにはずしたが、南雲は指先ひとつ動かさなかった。
Dでも使っているのではなかろうかと堂島が疑ってしまうほど、堂々とした落ち着きぶりだった、腹立たしいほどに。
頭をかきむしりたかった。
堂島(ええい…)
どうすればいい。
まさか、こんな展開になるとは自分自身思ってはいなかった。
ストレートを妻夫木にバントされる、変化球は藤堂に完璧に捉えられる。
マウンド上の植田の表情が全く動じていないだけに、いっそう悔しかった。
―――リードは、三上の方が上手い―――
不意に、ニ軍ベンチ側で声援を飛ばしている鼻の頭に包帯を巻いた男の顔が思い浮かんだ。
堂島(…この俺がマネージャー如きに劣るなどと)
認めん。
バシィインッ!!!
『ボール、ツー』
南雲「わしが、怖いのか、堂島」
南雲が口を開いた、だがそれは静かな声だった、ともすれば雨音にかき消されそうになるほどに。
堂島はその言葉を無視した。
『ボール、スリー』
何故だ。
南雲は、『堂島』と言った。
目線は植田を見ているにもかかわらずだ。
それは、つまり。
この勝負において、ただ一人怯えているのが、堂島だということ。
堂島(馬鹿な)
しかし、何故それなら自分は『ストライク』を要求しない。
植田は自分のミットの場所にほぼ寸前たがわず投げてきている、それが堂島のリードだと信じて。
だが南雲は、堂島の雰囲気が変わっていることを見逃さなかった。
空気が震えている。
植田の周りの気が、静寂を貫いているのに対して、背後の気は不安定にゆれていた。
堂島の頭の中はその通り交錯していた、さまざまな考えが浮かんでは消えていく。
ここは敬遠すべきか。
しかし、次は威武だ。
今の微塵の力では完全に打たれる、ならば変化球で勝負か、いや。
南雲と勝負するべきか。
勝負するなら、何を投げる。
微塵か、スライダー、カーブ、チェンジアップ、シュート。
どれもこれも、足りない。
役立たずが。
望月がシビレを切らしたように布袋に話しかけた。
望月「お、おい、ずいぶん長い時間投げないな」
布袋「植田の野郎、びびったのか」
弓生「違う、と思った方がいい」
三上「うん、植田君は待っているんだ」
上杉「待ってるって…何を?」
三上「堂島先輩の、サインを」
気づけば、守備陣も堂島の一挙手一投足に注目していた。
牧、秋沢、烏丸、国分が自分を見ている、自分を信じきってみている。
ふざけるなよ。
俺は貴様らみたいな化け物ではない、普通の人間だ。
戦うのは俺の役目ではない。
だが自分は今、ステージに押し出されていた。
植田がストレートだけで勝負したい、と言ったこと。
そしてストレートだけで勝負した打たれたということ。
ここまで抑えられたこれたことは、堂島が正しかったということ。
それは、堂島に逆らってはいけないということ。
それは…………堂島のやることは間違っていない、ということ。
汗が噴き出していた。
湿気のせいで全く気化しようとはしない、熱ばかりがキャッチャーマスクの下にたまっていく。
自分の息遣いが、やけに大きく聞こえる。
笠原(タイムを取るべきだ)
異様な空気は、この名将も感じ取っていた。
帽子の下の目は、戦況を捉える目は、全く鈍ってはいない。
笠原(打たれるぞ堂島)
いつの間にか、ひどく客観的に試合を見ていることに気づいたが、別段驚きはしない、いつだってそうだった。
今だってそうだ、だが、決して忠告はしない。
堂島が今この場所でこの空気を打開する何かを思いつかない限り、その程度の選手ということだ。
そして、笠原は今まで『プレイヤー』としての堂島を評価したことは、数えるほどしかなかった、南雲たちに比べて。
空気に呑まれていた。
そして、力を過信した。
堂島の出したサインは、ストレート。
先ほど、ストレートで勝負しなかった堂島、ストレートのど真ん中を信じきれなくなった堂島。
雨が地面をたたきつけていた。
植田「行くぞ、南雲」
南雲「…」
ただ。
ただ、例外というものが存在する。
それを笠原はいやというほど見てきた。
笠原(期待や、展開や、空気に比べて)
事実と結果は、時にあまりにも。
あっけない。
―――ドォンッ!!!
南雲の刃は空を切っていた。
ここにきて、植田の微塵の威力が戻っている。
失投をおびえることはない、それは堂島への信頼。
堂島「はぁー、はぁー、はぁー…」
おびただしい汗だった。
堂島自身は誰を信用している?
植田?守備?それとも、自分?
いや、信用できるものなどこの世にはいない。
結果こそ全てだ、そしてすばらしい結果になるために、そこにいたる過程を完璧にしている。
何故だ。
ニ軍はもう存在していないはずだ。
二軍と一軍の入れ替え戦など存在していないはずだ。
もう望月の心は折れているはずだ。
観客たちは一軍の味方、二軍の敵になっているはずだ。
何故だ。
何故、雨が降っている。
堂島(…はぁ、はぁ、はぁ)
意味も無く、守備陣に目を配った。
誰か、自分を助けてくれ。
願い、いや、懇願だ。
カキィイィインッ!!!
『ファールボール!!』
意地になったかのようなストレートの連投。
先ほどは空振りしたものの、再びすさまじい当たりではじき返す南雲。
しかし、答えるものは誰もいない。
皆堂島の全てを信頼しきっている。
自分の心に主軸など存在していないのに。
天井を支えるための柱はことごとく折れている。
何故、試合が続いているのだ。
ただ、たった一つ堂島の心に残った光は。
今、南雲が空振りした、ということ。
妻夫木(やれやれ、誰が一番臆病だか)
藤堂(ここにきてど真ん中ストレートを南雲相手に要求されて失投しない植田の方がよほど良い)
南雲「わしが、怖いのか、堂島」
堂島(ぬかせ)
ただ、口にはできなかった。
カウント、2-3…。
バシィッ。
『ボール、フォアボール』
堂島は立ち上がっていた。
あっけなかった。
敬遠、威武との勝負を選んだ。
望月「あ、あのやろう!!」
布袋「完全にびびってるだけじゃねーか!!」
南雲は何も言わずに、一塁ベースへと歩いていく。
何故かその姿が堂島にとっては恐ろしかった。
堂島(いや、正解だ。間違いのはずがない、ここで勝負しても打たれていた)
雨は、先ほどよりもまた威力を増していた。
だが、審判からも堂島からも笠原からもコールドの声はかからなかった。
それだけ、今の状況に誰もが食いついている。
笠原(敬遠か、セオリーなら半分は正解だ)
今の南雲なら、おそらくどんな球を投げても打っていただろう。
『全力の微塵以外』は。
笠原(最後の最後で、植田を信頼できなかったな、堂島)
南雲が空振りした球と同じ微塵が来ていたら、今頃二軍の攻撃は終わっている、もう二軍に流れが行くことも無かっただろうに。
満塁だ。
笠原(威武、か)
堂島はタイムをかけようともせずに、配球を組み立てていた。
普通ならマウンドにかけよるところだ、だが自分にそんな余裕などなかった。
牧と秋沢は相変わらず無表情だった。
南雲「タイム、とらんでもいいんか?」
一塁ランナーの南雲が牧に話しかける。
牧「必要ない、堂島様が自らタイムを取らない限りは」
南雲「そりゃ、堂島に対するイヤミかのぉ?」
牧「馬鹿な。堂島様がタイムと言わない限り、そのタイムのタイミングは間違っている他無い」
崇拝、全肯定の結果がこれだ。
堂島は自分で自分の首を絞めている。
望月の時は、全く信頼していない藤堂の行動が望月を変えるポイントとなったことは間違いない。
南雲は大きく息をついた。
本来なら自分が決めておきたかったが、もう堂島に逃げ場は無い。
南雲「頼むぜよ、威武」
男は昔から桁外れの体躯だった。
その力を頼りに中学の頃から注目の的であった。
威武剛毅という名前は、同じ市の中では割と通る名前であった。
その実力を元に、男は名門桐生院へとやってきた。
だがそこで男が味わったのは違和感だった。
楽しくない。
野球が楽しくないのだ。
あまりにも固い管理体制と、勝利を心情とした帝王野球は威武にはなじめなかった。
だが、そんな中でも信頼できる友人はできた。
その男はこの環境下においても心から野球を楽しんでいた。
―――おまん、なんぞその顔は、腐っとるぜよ―――
図体のでかさだけが目立って、恐れられ、馴染めなかった存在に、そいつは話しかけてきた。
―――つまんなそーな顔しとるのー、わしとキャッチボールでもせんか?―――
その人物は、南雲、と名乗った。
明らかにこの桐生院では浮いた人格ではあった、だが野球は上手い。
―――おまん、なんじゃその小さいグラブは――――
男が持っていたグラブは、小さい頃に祖父から買ってもらったものだ。
体躯の割りに小さいグラブ、それを見たものは思わず笑う。
だが笑われても良かった、これは自分の唯一の父親からもらったものだからだ。
厳格な祖父だった、野球をやらせてくれ、と言っても最期まで許してはくれなかった、代わりに勉強をしろ、とは言われたが。
葬式のときに、祖母が泣きながら渡してくれたのがこのグラブだった。
右も左もわからなかったので、何故それを自分から渡してくれなかったのか、幼少の威武にはわからなかった。
ただ、大切にしなければならない、ということは信じていた。
そのときから体躯はもう人より大きかったから、そのグラブはかろうじて今でも使える。
―――こりゃ、ぼろぼろじゃのう。普通なら新しいものを買うんじゃが、なんか思い入れでもあるんか?―――
威武は頷いた。
―――ほうか…んなら、ちょっと待つぜよ。わしが、手入れしたる。このままじゃ使えなくなるぜよ―――
男は自分の小さいグラブのほつれた糸を縫い直し、磨き、綺麗にしてくれた。
威武は南雲に話しかけた、あまりにも朴訥な声ではあったが。
ありがとう、と言った。
だが、そのグラブを、あの男が捨てた。
堂島「あのボロいグラブなら捨てさせてもらった。困るのだよ、天下の桐生院は見た目も大事だ。先輩方にとっても、あんなグラブを使われていては醜悪な部だとみなされては困るだろう」
堂島「人も道具も、腐ったリンゴはいらんのだ」
そこから先は覚えていない。
気づけば、多くの部員に取り押さえられていた。
そして、威武はニヶ月の部活動禁止と謹慎を食らった。
その男が今背後にいた。
堂島(…)
腐ったリンゴは、土に還る。
そして、土壌を育てる。
腐ったリンゴを別の場所に捨てれば、土地は荒れ果てる。
あのグラブは、威武のキャッチングセンスを育ててくれた。
物を大事にするということを教えてくれた。
祖父の優しさを教えてくれた。
そして、南雲という親友を作ってくれた。
その親友に、今恩返しするべきだ。
威武「俺、打つ」
ここで打たなければ、自分は一生南雲に迷惑をかけたままだ。
それだけは、ごめんだ。
六回裏、一軍6-2二軍。
無死、満塁。