199僕なら飛べる
電車の窓の向こう側に見える水面を、月光はぼんやりと照らしていた。
それでも窓から離れるにつれ明るさは弱まり、街灯とたまに通る車のライトだけが暗闇の中で白く光っていた。
ミッキー「本当にすごかったネ!サンシロー!」
いまだミッキーは興奮さめやらぬようだ、帰りの電車の中でもまだ声を荒げている。
手を小さく振っては、試合を思い出すように遠くを見つめた。
県「うん、そうだね」
しかし県はというと、逆にドアの側にもたれて、首を傾けてぼんやりと外を見つめているだけだった。
興奮を通り越して、夢でも見ているかのような高揚感が体を支配している。
テレビで見る逆転劇と、生で見る逆転劇は違う。
確かにあのグラウンドの向こうには、リアルな奇跡が存在していた。
ミッキー「アキラは答えなんか無いって言ったけど、何かヒントをあの試合で見せてくれた気がするヨ」
県「ヒント?」
ミッキーは大きく頷いた。
ミッキー「速く走るだけじゃなくて、もっと大きな何かネ…。技術はいくらでも学べるヨ。でもこの気持ちは本や他人には教えられないものだと思うんダ」
その通りだったから、県もまた頷いた。
ミッキー「とにかく走りつづけるヨ、僕は。もっと速くなるためには結局のところそれしか無いネ」
からから、と笑う。
どうやら彼の中で何かが吹っ切れたようだった。
それは県も同じだった。
どんな絶望的状況でも、「もしかして」がありえないリアルを生む。
それが例え1%だとしても、諦めて楽になった瞬間にそれは0%になる。
ミッキー「サンシロー、僕はもうちょっとだけ日本にいるネ。…その間、一緒に練習しないか?」
県「え?」
ミッキー「サンシローがいたあの河川敷なら、とても広いし走るspaceも十分あるヨ。…一人で走るよりも、二人で走るほうが楽しいネ。サンシローも、速くなりたいよネ?」
県「…うーん、でも僕は部活の練習があるから…」
ミッキー「あ、そうネ…」
残念だ、という表情をこれでもかというくらい前面に押し出す。
本当に喜怒哀楽が豊かな少年である。
県「あ、でも。部活が終わってからならいいよ?七時から、とか夜になっちゃうかもしれないけど」
ミッキー「ホント!?全然OKヨ!!Thanks!!サンシロー!」
アハハ、と県は苦笑いを浮かべた。
果たしてこの練習量で体が持つのだろうか。
…しかし、人よりも何倍も練習しなければ、上手くなれないのも事実だ。
電車を降りてミッキーと別れたところで、それを身をもって示した男とあった。
原田「…ありゃ?県君ッスか?」
自宅へと向かう橋の途中で、チームメイトと遭遇してしまった。
髪の短い…そう、原田は成川戦に負けてから坊主にしていた。
随分と高校野球らしい風貌になっている、理由はというと特には無いらしいが。
…それでもきっと誰もが降矢の怪我で心に何かしら影響を受けているのだろう。
県「原田君?どうしたの?」
原田はこれまた県と同じく将星高校野球部専用ジャージであった。
前髪のなくなった額に汗がうっすらとにじみ出ている。
原田「あ、自分はランニングッス。毎日の日課で欠かせないんッスよ」
県「へぇ〜…すごいね、練習終わって走りこんでるだなんて」
原田「県君もジャージじゃないッスか」
確かに、と二人は笑った。
原田が人一倍走りこみ、練習をしているのは県は聞いていたが、こうして見ると実感させられる。
将星の中でこのわずか半年間の間に一番実力を上げたのはおそらくこの男だろう。
当初は守備すらおぼつかなかったものの、今では下半身がしっかりと機能し粘り強いプレーができるようになった。
いつのまにか師弟関係になっていた御神楽からバッティングの技術も叩きこまれ、その実力は他の高校の一年生と比べても遜色のないぐらいにまでしあがっている。
練習は裏切らない。
走りこみでつちかった下半身が、全ての効果を二倍にしているのだ。
県もそんな原田に刺激を受けて部活の練習後も走りこみをすることにした内の一人である。
原田「へ?パワフルズの試合を見に行ってた?」
県「うん、すごかったんだ!巨人相手に六点差挽回だったんですよ!」
喋れる程度にスピードを落として並んで走る。
ミッキーがいなくなったことでか、県の興奮は大きくなっていた。
原田「あれ?県君って頑張ファンっしたか?」
県「え?…あ、ううん、そうじゃないですけど」
原田「それじゃまた、どうしてこんなペナントも終了って時期に見に行ってきたんッスか?あれッスか?プロの技術を盗む、みたいな」
県「えーと、説明しずらいんですけど」
あはは、と苦笑する。
パスポートを落とした黒人の少年がパワフルズの選手の知り合いで、無理やり連れられて試合を見た。
なんてどう考えてもありえない話だ、今考えれば。
原田「?」
県「えっと、友達、そう友達が見に行こうって」
原田「わざわざウチのジャージ着て行ったんッスか?」
県「…ら、ランニング中に出会ったんですよ、あはは」
苦しくなってきた。
原田「ふーん…で、何か見つけて来たッスか?」
県「…うん」
含みのある「うん」だった。
何よりも深い「何か」を、あの試合で県は学んでいた。
原田「あれッスか?県君だからやっぱり、盗塁とか走りとかッスかね〜」
県「違うんですよ、それが。…そう、もっともっと大きな…」
原田「大きな?」
ふと、県が立ち止まった。
つられて、原田も足を止める。
原田「どうしたんッスか?」
いつしか県の表情は鬼気迫るようなものへと変化していた。
驚いた原田は思わず言葉を飲みこんだ。
県「…降矢さんがいなくなって、僕らは…」
原田「…」
県「今まででも、桐生院なんかには適うわけ無かったのに。それで甲子園出場なんて夢の又夢ですよね」
川にかかる橋の中腹。
ライトが県の顔をオレンジ色に照らした。
原田「…それは」
県「でも、諦めたら。諦めたらきっとそこで終わりだと思うんです。降矢さんが駄目でも、僕は降矢さんの分まで走ろうと思います。桐生院にも、負ける気は『今』はしません」
今、を強調した。
少し強い秋風が二人の間に吹いた。
県「僕はあの試合で、勇気を学びました。1%に賭ける勇気。そして99%を恐れない勇気。盗塁もバッティングも守備も…すべてはそこに帰ってくるんだと思うんだ」
原田「1%に賭ける勇気…」
そして、県は何を思ったのかいきなり橋の手すりに足をかけて、上に乗った。
原田「ちょ、ちょっと県君!?あ、危ないッスよ!!」
県「僕は勇気が無かった、いつだってそうでした。何度も何度もチャンスを潰してきた。皆が覚えていなくても、僕は全て覚えている。…僕に勇気があれば、…もしかしたら、降矢さんも」
原田「な、何言ってるんッスか!?」
自殺――。
原田の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
理由はわからなかったが、いきなりこんな行為をされては冷静に思考する能力もあっというまに消えるだろう。
下は水とはいえ、ここから水面までは高さは低いとは言えないほどはある。
県「臆病な僕には、サヨナラ、だ」
―――今の、僕なら飛べる―――
吉光のようにはいかないかもしれない。
橋森のようにはいかないかもしれない。
降矢や、相川や、吉田のようにはいかないかもしれない。
しかし、県は今、自らの手で新しいスタートを切った。
99%を恐れない勇気を。
気がついた時には、原田が泳いでこちらに向かっていた。
何を言ってるかは判らなかったが、必死だった。
自分が何をしたか、今になって始めて歯の根が合わなくなった。
ただ、投手のストレートにすらおびえる自分は死んだ気がした。
時は午前中にさかのぼる。
一つ上らしい女子バスケ部の主将が和やかに話しかけてきた。
夏以来、男子野球部への嫌悪は一部を除いて皆無といっていいほど減っていた。
逆に親しくなったと言ってもいいぐらいだ、特にルックスが良かったことが幸いしたのか相川や吉田、御神楽らは上からも下からも、随分な好印象だった。
いわゆる、モテる、という奴かもしれない。
「ねぇ、知ってる相川君?あの噂」
相川「噂…ですか?」
この女子バスケ部の主将とは、以前吉田が足を痛めたときに相川が代わりに部長会議に出席した所で知り合った。
メールアドレスも教えてもらったが、醒めてはいるが相川も吉田と同じく、女よりも野球の心持ちだったので、仲の進展はしていない。
吉田の代わりに来た相川にとって二回目の部長会議までにはまだ時間がある。
相川は首を先輩の方に向けた。
「そう、理事長のお孫さんが、帰ってくるの」
相川「理事長の孫…」
そういえば、ヨーロッパのどこかへ留学しているとかいう話だ。
だからといって、それが何の影響があるのだろうか、帰国子女が一人増えるだけだ。
いや、そうではない。
相川と吉田は一年のとき、この理事長の孫に散々に苦渋を味合わせられた。
なんといっても『男嫌い』なのが大きかった。
男子の部活は実は、『野球部』ただ一つなのである。
本来将星の男子は進学コースとして勉強一筋になるはずなのだが、吉田と相川はその将星に革命を起こした人物でもあった。
そして野球部は開設したものの、メンバーが増えたのは降矢と冬馬があのポスターに手を重ねた時からである。
それまでの一年間、相川と吉田の二人はひたすら緒方先生と三人で、他の部活の冷たい目から耐えてきた。
試合すら出場できない部に予算や場所の割り当てをするだなんて、間違っている、と。
相川「本当…ですか、それ?」
相川の口調が少々厳しくなったのに、先輩は少し引いた。
「う、うん。噂だけどね…本当だったら、大変だよね。一年の時苦労してたもんね、相川君達」
相川「…」
何よりも男嫌いな理事長の孫。
そして零細とした部活に追いこまれたのも、彼女の力が大きかった。
陰湿といえるほどのいやがらせや仕打ちで、男子生徒は全て野球部に入ることを恐怖としていた。
相川が一年の頃の将星は、ほぼ彼女の独裁状態であり、彼女に反対することは高校内での孤立を意味していた。
進学や推薦に関わるだけならまだしも、退学や留年もほめのかされるほどであったし、実際に彼女に反対した女性生徒が一人登校拒否になった例もある。
…が、野球部はどうにかこうにか、彼女が留学する一年の冬まで乗りきった。
理由は相川の学力だ。
吉田はともかく相川は学年トップとも言える成績を毎回のようにキープしており、そんな優秀な生徒をムキになって陥れようとするわがままさは流石に理事長といえど無視できなかったらしい。
一度焼けた石を冷ますための留学、いわば応急処置、そして彼女が丸くなることを願った留学だったが…そうか、そろそろ10ヵ月がたつ。
何か嫌な予感がした。
バタン。
―――と、そのときだった。
大きな音をたてて、会議室のドアが開いた。
???「…久しぶりね、野球部副主将、相川大志…」
相川「…どうも」