191敗北の狼
桐生院が霧島工業に負けた。
…そのニュースは、すさまじい勢いで県内関係者の間をを駆け巡った。
そして桐生院内にも、その衝撃は十分に響き渡っていた。
廊下は沈黙が支配していた。
その私立の名門校らしく綺麗に整備された空間に、動きが生じる。
年はくっているものの、がっしりとした身体を持つ白髪の男が静かな音を立てて「理事長室」と書かれた部屋から出てきた。
雄雄しい髭がついている表情は固く、眉間に皺が何本も寄っていた。
男の名は笠原、桐生院高校の監督である。
…話は昨日に遡る。
大和ら甲子園で活躍した三年生が抜けた野球部初めての公式戦、前年度南地区優勝を決めていた桐生院高校は当然のごとくシード、いきなりベスト8からの出場だった。
そして準々決勝、準決勝と順調に勝ち進んだところで。
事件は起きた。
笠原「…何?決勝は東創家じゃないだと?」
準決勝が終わり、次の試合の報告を学校の監督室で待っていたところ、桐生院の一年生スコアラーの報告によってその事実はもたらされた。
走ってきたのか、スコアラーはひどく息を切らしていた。
汗を拭いて、直立した状態で背筋を伸ばし、再び口を開く。
「はい!準決勝霧島工業が東創家商業を2-0でくだし、駒を進めました」
突然のサプライズに笠原は思わず動揺した。
が、すぐに表情は平静に戻る、落ち着いた口調で返事を返した。
笠原「わかった、すぐにアイツらにも伝えて来い」
「はい!」
そう言うとスコアラーはまた慌しく監督室を出て行った。
笠原は大きな椅子を回し、背後を向いた。
後ろは大きな窓があり、外の景色が一望できる。
眼下にはグラウンドが広がっている。
笠原「霧島………赤城か」
笠原の脳裏にたれ目の関西弁の男がよぎる。
笠原「あのサギ師、次は何をやらかしたか…」
かすかな不安が、笠原の中にこのときから芽生えていた。
東創家は夏に陸王を下した上、三年生が消えてもほとんどパワーダウンしていない。
圧倒的に実力で勝る「東創家」が「霧島」に負けるはずが無いのだ。
笠原「…霧島に、俺の知らない何かがあるのか……?」
この地区予選はチームの和が乱れる、と堂島の意見を聞いてレギュラーから「南雲」「望月」「布袋」「弓生」は抜けている。
それは監督としての笠原には納得のできる意見だった。
今の桐生院の大多数が洗脳的なまでに堂島を崇拝している状況で南雲達を出せば、逆に統率がとれなくなるだろう、ということだ、一理は、あった。
高校野球はプロ野球ではない。
精神的に大人になりきれていない者も部員には少なくない、だからこそ選択には悩む。
どこまでいっても高校野球はチームワークである、時には結束力が固い方が実力が上のチームを上回る。
遥か昔からの名試合がそれを証明してきた、そのことを桐生院が弱かったとき笠原は思い知った。
時には、実力があっても出せない選手もいた、いくら強くてもそれがずば抜けていない限りチームの和を乱してしまう場合はどうしても出場を考えてしまう。
それはもう上に立ち指示する者としては仕方が無いことなのだが。
しかしそれはあくまでも監督としての立場だ、「人間」笠原は言いようのない不安がその背後にちらついているのを確かに感じていた。
少しづつ少しづつ桐生院は堂島という巨大でおかしなカリスマに支配されていく気がする。
実力こそ図抜けているとはいえないが、圧倒的な存在感と巧みな話術で部員たちの支持を日々得ていく堂島。
それに惑わされない望月達、一体どちらかが本当なのか…。
そして迎えた南地区決勝戦。
先発は以前降矢に打たれた植田、そして捕手堂島のバッテリー。
対する霧島は…。
笠原「…?緒伍貫(おごぬき)だと?」
霧島の先発ピッチャー、大きな足音を立ててマウンドに上がる人物は、昨日までは全く姿形も霧島ベンチに見えなかった男だった。
その風貌はふてぶてしく、まるで元広島の江夏投手のようだ。
決してスマートとは言えない体型だが、恐ろしく威圧感が溢れている、白いメガネの奥には漲る闘志がぎらぎらと光っていた。
暑い太陽が直射日光のスタンドの方では、見慣れた選手たちの姿があった。
南雲「誰ぜよ、ありゃ」
南雲達、反堂島造反組はベンチ入りからも外され、多数の部員たちと共に、スタンドで応援に回っていた。
しかし文句を言う事もなく、彼らは黙々と試合を観戦し続けていた。
望月「さぁ…?昨日までの試合にはいなかったはずですが」
望月は手をあごに当てたまま首をひねった。
準々決勝、あの東創家を破った試合でも先発は『アイアン尾崎』だった、この緒伍貫という男、一体…。
布袋「一応…ベンチ入り登録はされているみたいだが」
望月「いわゆる、秘密兵器って奴か」
苦笑気味の望月の言葉に、南雲の爪楊枝がピン、と上に立った。
南雲「…ふむ」
弓生「…この試合、このままじゃすまない、そう思った方が良い」
南雲と弓生の予感は当たる。
『……』
桐生院の応援団は完全に沈黙していた。
今までの二試合、二回コールド勝ちをおさめていたのに。
全国が当たり前の桐生院は地区予選ごときではてこずってはいけないはずなのに。
七回を過ぎた時点で、桐生院、いまだ一塁を…踏まず!!!
『ワァアアアアアアアアアアアア!!!!』
『な、なんだよ霧島のあのデブ!!』
『あ、あんなすげー奴がまだいたのかよ!!!!』
にわかに、一般のファンたちの声が大きくなる。
比例するように堂島の額からは冷や汗が吹き出た。
『四番、キャッチャー堂島君』
堂島(ぐ…ぐぅ!!なんだこの霧島の投手は!こんな話聞いていないぞ!!)
緒伍貫「…」
緒伍貫はマウンド上で少し突き出た腹をぽんぽんと叩きながらにやにやといやらしい笑みを浮かべた。
緒伍貫「天下の桐生院がこの程度か…笑わせるな」
堂島「何ぃ…!!」
緒伍貫「南雲はどうした」
堂島「あのような自分勝手な奴をいれても、チームの和が乱れるだけだ」
緒伍貫「和ぁ…?そうかそうか」
ククっと緒伍貫が笑う、堂島は緒伍貫の細くなった目に思わず背筋が震えた。
緒伍貫「それなら桐生院も、負ける」
振りかぶって、右足を思い切り振り上げる。
そして、思い切り体を沈めてからの…サブマリン!!!
堂島(ぐぅっ!!)
地上すれすれから、空へと舞い上がっていくような錯覚を覚えるストレート。
しかもその上、緒伍貫の重量感溢れるフォームとあわせてボールは重い。
いままでの軽やかなイメージとは程遠い、新機軸アンダースロー!!!!
堂島(外角ギリギリストレート、だが見逃せばストライクッ!!)
かなり厳しいコースだ、しかしこの緒伍貫という男、アンダースローながらかなりのスピードを保ったまま低めにコントロール効いたストレートをバンバン投げてくる。
カウントが苦しくなったところでの高めのストレートを思わず振ってしまい、桐生院の打者達はなすすべもなかった。
『バシィィッ!!』
またもや堂島のバットは空を切る。
『ストライク、ワンッ!!』
緒伍貫「南雲、望月、布袋、弓生…そして『威武』がいない桐生院に、何の魅力も無い」
堂島「おぉのれ…っ!!!」
堂島の鈍い唸りがむなしくグラウンドに吸い込まれた。
スタンドでは、再び堂島の打席と言う事で活気を取り戻していた。
しかし、四人は相変わらずテンションは上がりも下がりもせず…。
南雲「おー、あのピッチャーすげーぜよ。あのストレートの速さであんだけストライク入れるなんて」
南雲はのん気に腕組みをしながらジュースを飲んでいる始末だった、ずず、と残り少なくなった紙コップ底を叩いている。
望月「そうですね、南雲さん。もしかしたらこの試合…」
布袋「おいおい望月、何があろうとも俺達は桐生院だぜ」
おかしなことを口走ろうとしていたことに気づき望月はかぶりをふった。
望月「…そうだったな」
弓生「そんなことより、気づいたか?と思った方が良い」
望月「ん?」
布袋「何がだ?弓生」
弓生はゆっくりとマウンド上の男を指差した。
弓生「さっきから…あの男。ストレートしか投げていない、と思った方が良い」
三人『!!!!』
くくっ、と赤城はキャッチャーマスクの下でくぐもった笑いをこぼした。
赤城(天下の桐生院が、中堅高校の見知らぬ投手にストレートだけでノーヒットか。なんつー愉快な話や)
また、バシィイッ!と気持ちの良い音を立てて、赤城のミットにバットを潜り抜けたボールが帰ってきた。
それに口で返事とボールを一緒に返す、当然隣の堂島をチラリと見ながら。
赤城「ナイスボールや緒伍貫」
緒伍貫「赤城こそ、ナイスリードだぜ。桐生院もお前のサギっぷりにはついてこれないようだ」
赤城「ほうほう、そうなん?堂島君?」
振り向かれた堂島は顔を赤くして赤城を睨む。
堂島「あの『ストレートの変化』…『ヤスリ』かサギ師!!!」
審判がその声に反応して勢いよく赤城の方を向いた。
当然赤城は慌てて首を振る。
赤城「な、ち、違います!違いますよ、堂島君人聞きの悪いこと言わんといてくれんか?」
堂島「ならあのストレートの変化はどう説明する気だ!!」
赤城「ストレート…?さっきから堂島君、なんのこと言っとるんや?」
赤城は、意味がわからない、と言った表情で堂島を向く。
堂島「…な、なんだと」
赤城「ほらほら、無駄な時間使うとる場合や無いやろ。勝負勝負」
堂島「ぐぅ…」
赤城は内心ほくそえんでいた。
確かにストレートじゃないが、変化球でも、無い。
バシィィッ!!!!
『ストライクバッターアウトッ!!』
『ワァアアアーーーーーーーー!!!』
『堂島三球三振!!』
『やっぱ桐生院も南雲と真田がいねーと辛いな。ただでさえ去年の三年生が史上最強と謳われただけに』
観客のため息を、その言葉を、笠原は無表情で受け止め、試合を見ていた。
笠原(この試合…負けるな)
全ては…堂島が真田と揉めた時から始まっていたのだ。
今のメンバー。
気づけば、堂島にしたがっているものだけしか、ベンチにはいなかった。
笠原(この俺すらも、堂島に操られていた、か)
すでに、堂島に反対すれば自分の監督という立場まで危うくなる所まで、桐生院は堂島に支配されている。
…これが、堂島のプロジェクトKなのだろうか?
笠原(…そうか、もう一つ見逃していた。夏の霧島は三年生が一人しかいない。つまり…去年の実力よりも、今の霧島の力は数段上ということだ)
失念していた、そして慢心していた。
それがたわいもない油断と、取り戻せない後悔を招いたのだ。
『ストライー!バターアウッ!チェンジ!!!』
赤城「緒伍貫、軽いなぁ。今日の試合は」
赤城がマスクを取って笑顔で緒伍貫の肩を叩いた。
緒伍貫「ふふ、まぁ、あの球が完成するのにここまでかかったがな…。ある意味この試合に俺が出たのがいい具合に働いているかもしれん。ただ、そろそろリミットだ。後は尾崎に任せるぞ」
尾崎「…はい、わかりました!」
赤城「おっしゃ…。緒伍貫の『インフィニティ』と尾崎の『アイアンコレクション』があれば…桐生院やろうが、将星やろうが…甲子園やろうが…怖くない。制すのはわいら霧島工業や!!!」
そして。
八回裏、霧島の三番日ノ本、四番山内の連続ヒット、五番の平井のタイムリー、六番山中の犠牲フライで疲れてきた植田から二点を奪取、ついに均衡が動く。
そして桐生院は緒伍貫と交代した尾崎のアイアンボールに手が出ず、ついに最後まで霧島投手陣を攻略する事はなかった。
『ウゥゥーーーー!!!』
そして、試合終了を告げるサイレンがなる。
この瞬間、桐生院という狼は、負け犬と変わり果てた。
布袋「終わったな…」
望月「一応準優勝だから、県大会には出れるが…」
弓生「…」
南雲「一度負けた。こっから、桐生院がどう変わっていくかで次の道が見えてくるはずぜよ」
始まる、強豪桐生院の物語。