060 OVER GROUND
完全に日も傾いた、夕暮れ。
朱色に染まるスコアボードには、五回までしか数字が刻まれていない。
桐15-0将、五回コールド、だった。
もう試合も終わり、誰もいなくなった球場に一人だけ降矢が残っていた。
降矢「…」
手も、足も出なかった。
真の桐生院の実力、圧倒的な力の差を見せつけられた。
有無をいえないほどに、敗北の二文字をぶつけられたショック。
降矢は何も言えなかった。
試合後もチームメイトとも合流する事はなく、ただ一人ここからスコアボードを眺めていた。
風が髪の毛をかきあげる。
赤い上空には二羽の黒いカラス。
静かな球場、さっきまではあそこで戦っていたのだ。
降矢「…」
悔しさも腹立たしさもなかった、降矢をしめつけたのは無力感。
あまりにも自分の力の無さを痛感して、何もする気に離れなかった。
望月「よぉ」
降矢「…ん?」
振り返ると桐生院の制服の男、望月だった。
あれだけの力を持つ望月でさえも桐生院では三番手にすぎない。
上には上には、上が、上がいた。
降矢「なんでこんな所にいるんだよ」
望月「さぁな、なんとなくだよ」
違うチーム同士の、しかも宿敵同士がそこに二人並ぶ。
その光景には少し違和感があるはずなのに、その二人は何故か妙にあっていた。
長身と低身、降矢と望月。
望月「敵を慰めるわけじゃないけど、そんなに落ち込むなよ。今日の桐生院先発は全員レギュラーだったんだ」
降矢「だからなんだよ、負けには変わりないだろ」
降矢は負けたからといって涙などは流さない、かと言って悔しさの怒りに打ち震えているわけでもないのは前途の通り。
ただその事実を事実として受け止めることなく流す、物事と面と向かって向き合わない。
それは逃げであるが、下手にストレスがたまるよりはそうして全て客観的に捉えてるほうが楽だった。
望月「お前は何で野球なんだ?」
降矢「は?」
望月「どう考えても、野球するような奴には見えないんだよお前は。といよりもスポーツする奴にはな。…形がどうあれ、スポーツをやる奴は心の中心の場所に、熱い物を持ってるんだ」
降矢「…」
望月「だけど、お前にはそれが感じられない。ただ、形として野球を、形としてチームメイトを助けているとしか見えない。…自分のために野球をやってるんじゃない」
降矢「…!」
驚き、だった。
今まで絶対に自分のためにしか生きてきては無かったはずのなに。
他人のことなどどうでも良かったはずなのに。
…見に覚えはいくらでもあった、キャプテンや冬馬の落ち込む顔を見るのがただめんどくさいから、嫌になるから、いつだって勝つために必死になってきた。
負けるのは嫌だった、それは周りにいる奴までも嫌な気分にさせるからだ。
自分以外どうでもいい、だなんて。
本当は他人のために動いてる自分がかっこ悪くて隠していたのかもしれない。
だから、いつだって物事と向き合わなくなった。
他人のために動く自分が嫌だったから。
降矢「…お前は、お前はなんで野球なんだよ」
望月「俺?…最初は楽しかったから。だけどな、今は違う」
降矢「違う?」
望月「そうさ、倒すべき相手が見つかったんだ。そいつは遠い遠い存在だけど、今の俺ならわからない」
降矢「ふーん…」
望月「…大体、野球をする理由なんて無理矢理こじつける必要はないのかもな」
降矢「…」
望月は足元にある石ころをひろった。
そしてそのまま石をグラウンドのほうに向かって投げた。
望月「プロ野球選手だってリトルリーグだって、結局、そこにボールがあったから皆やってんだろうな」
降矢「…そこに、ボールがあったから…か」
望月「考えすぎてるのかもな。俺にとってはある意味もう生活の一部だから」
どんっ。
不意に胸に手を置かれた。
望月の右手は、まめだらけだった。
望月「お前はどうするんだ?」
降矢は答えることができなかった、どんな色をつけた言葉だってこの問いには説明できそうに無い。
望月「…悩むくらいならやるな、別にお前が野球をやろうとやるまいと、俺は知ったこっちゃない。…ただ」
望月は出口への階段を登った。
もう振り返ることは無い、ともわかっていた。
ちんちくりん二号と馬鹿にしていたけれど、今はこの男が大きく見えた。
望月「―――お前は、どれだけ凡人が努力しても得られない『一流になれる素質』を持っているんだ。全国の夢見る野球少年からすれば、うらやましい話だろうよ」
望月は、グラウンドの向こうへ、OVER GROUNDへ消えていった。
降矢「…」
ただ、いつもの降矢なら鼻で笑うであろうこのことを。
今彼は、考えていたのだ。
それは、彼が少なくとも野球については、向き合っているという事だ。
冬馬「降矢っ!!」
望月と入れ違いざまに、入ってきたのは冬馬だった。
冬馬「探したんだよっ、ミーティングにも出ないで…」
降矢「…お前はなんで野球なんだよ」
冬馬「…え?」
唐突な質問に冬馬は呆気にとられた。
ただ、見たこともないような降矢のあまりにもの真剣さに、すぐに本気で答えてくれた。
冬馬「憧れ、かな」
降矢「憧れ?」
冬馬「そう、俺はどうしても会いたい人がいるんだ。…その人が野球をやってるって、それだけ」
降矢「…簡単だな」
冬馬「そう?…でも、今はこのチームで野球をやってるのがすごく楽しいから、かな」
えへへ、と笑う。
降矢「…俺は、もともと」
ただ、単に部活に入ろうと思って適当に選んだんだ。
その言葉はのどで飲み込まれた、冬馬の野球に対する熱意にそんな理由は情けなさ過ぎる。
降矢「…いや。俺は」
冬馬「なに悩んでるの?もし、悩んでるなら相談してよっ、俺たちチームメイトじゃん」
降矢「…」
俺なんかでいいのか?
俺みたいな奴がが同じグラウンドに立つ事は、あれだけ野球を真剣にやってるキャプテンやコイツを馬鹿にすることじゃないのか?
降矢「俺、野球部辞めるわ」
冬馬「―――え?」
降矢「何かもうどうでもよくなったんだよ。難しいことを考えるのは嫌なんだ。もういい、どうでもいい」
辿り着いた答えは、向き合わない事だった。
やはり、降矢はそういう答えを選んだ。
そんなに難しいことなら野球なんてもういい。
降矢も、出口への階段を登った。
…望月とは行き先が違うが。
冬馬「え?え?…降矢!?どういうことだよっ!?」
降矢「…じゃあな」
冬馬「降矢―――っ!降矢ぁっ!!」
冬馬「なんだよっ!なんだよそれ!勝手すぎるよ!!」
降矢も消えていった。
グラウンドの向こうへと消えた。
OVER GROUNDへと消えた。
降矢「…めんどくせーことは、嫌いだ」
第一部終幕。