夢を見た。僕の体が白くなっていく夢だ。
手や足の指先から徐々に色素が抜け、乾きひび割れていく夢。
僕はそれになんの情動も示さずに見呆けていた。
今まさに自分が壊れていくはずなのに、僕は我が身が壊れていくことに目を逸らさず、見開きもせず、ただ淡々と光景を眺めていた。
肘から先の白が欠落する。足も膝の連結部分から切り離し。ゴトリと落ちる四肢。その断面もまた白く、塩のような粉が飛び散る。
白の侵食は肩と腰にまで迫ってくる。でも、それでも僕は抵抗もせず。眼球から送られる映像に感情は刺激されることもない。
腰、下腹部、肩、首、上腹、胸……。
ついにその白は、僕の眼前を覆い、
そこで、全ては白に染まり、黒に覆われた。
視界から飛び込むのは、一面の白――ではなく、黄色く煤けた天井だ。
吐息が聞こえる。ぜえぜえと荒く、大型動物のような呼吸音。それが僕自身のものだと分かるのは、呼吸が落ち着きだしてからだった。
息を整えながら僕は周りを見渡した。小学校入学記念の机、山積みになって片づかない本の山、衛星放送が入らなくなったゲーム用のテレビ。
間違いなく僕の部屋だ。僕は一息吐き、改めて、よくよく見聞する。余り変わってないことに安心する。
僕は大きく息を吐き、よし、と一言立ちあがった。
時刻は七時過ぎ。正確に言うなら7:05.30。
やることは……えーと寝間着から制服に着替えて、歯を磨いて、トイレに行く。そして下に降りてご飯を食べる、だ。
まぁ大丈夫だろう、と考えて、再び時計を見る。7:05.55。
デジタルの時計が粛々と秒数を刻み、遂には7:06.00に変わる。
そして0から1に変わろうとした瞬間、視界が揺らぐ。
と言ってもその振れは体感にして一秒もない。だが故にかその奇妙な一秒は普遍の一時間にも匹敵した。
存在する奇異。位相を違えたかのように、世界は変わらず、よって切り替わる。
ふう、と呼吸を着くと、先ほどと違い口内には清々しさが含まれていた。
自分の体を見る。うん、大丈夫だ。ボタンの掛け違えはないし、シャツも入っている。
心なしか圧迫感も軽く、巧くこなせて≠「ることを確認する。
慣れるもんだよなあ、と独り言を呟き、さて、朝ごはん食べようか。
僕は筆を取り、部屋の壁に貼り付けた紙に大きく文字を書いた。
『7:20、部屋退出』
家を出て僕はすぐ隣の家のチャイムを鳴らした。
普遍的な電子音から数秒、はーいとくぐもった声が耳に届く。
どたどたと騒がしい足音は次第に近づき、その主は家の扉を開く。背中で扉を開けたのか、彼女はこちらにスカートを突き出している。
「お、おっはよーぅ」
「おはよう」
僕は声をかけてきた幼馴染に挨拶を返す。
ちょっと待ってー、と彼女は言いながら、焦った様子で衣服の乱れや穿いた靴を直している。別に急いでるわけじゃないのに、彼女は毎日慌てる。
そのいつもと変わらない仕草に僕はこころなし頬が緩む。
「ゆっくりでいいよー」
「あっ、わかった、わかったからすぐ行くからっ」
……なにがわかったのだろう?
僕が彼女の応答に疑問を浮かべている間に、よしと一声こちらへ向き直った。
肩口まであるだろう髪を後ろで一束にしている。彼女曰くうっとうしいかららしい。
脱色を一度もしたことのないような艶やかな黒が、彼女の動きに合わせて右へ左へと動いていた。
少々年代物の黒縁メガネも、贔屓目ながら彼女によく似合っている。
「ごめんねー、待たしちゃった?」
「ううん、全然」
いつもの言葉にいつもの動作。僕は彼女をじっと見つめる。
「な、なによぅ」
「いや、別に」
彼女の体に変化がないことを確認した僕は体を預けていた門から離れる。
彼女をそれを見てとり、門を開いて、道路へと出る。
「あ、忘れてた……」
彼女はそう呟くと、再び家へと向かう。
「お父さーーん、先に行くからねー! 遅れないでよー!」
彼女は大声でそう叫ぶと踵を返し、こちらへと駆け寄ってくる。
行こうか、と彼女が微笑むのを、僕はああ、とそっぽを向いて応答する。
今の表情を見せることはできなかった。
彼女の父親がもういないことを、知らない彼女には。
下らない話をさせてもらうなら、僕はこの世界が崩壊しだしていることを知っている。
最近AM7:06から7:20の14分間は軸飛びを起こすし、僕の部屋の右の壁はグズグズに崩れている。
お隣さんである彼女の父親は消えてなくなってしまい、向かいの家族は一家総出で失踪済みだ。
まぁ、だからと言って、そうあまり困る事柄でもない。
時間は意識できないだけで流れているし、壁は触れなかったらいい。
お隣のおじさんはいなくとも一人娘は元気に登校するし、向かいの家の新聞は日ごとポストに突っ込まれている。
世界が壊れだしても、この世界に住む住人はいつもどおりである日常のようにいつもどおりをこなしている。
だから多分、大丈夫ってことなんだろう。
きっと。
スズメが囀りを止めたのはもう結構前のこと、通る車もタイヤを溶かしながら進む。
人が消えていきだし、今ではもう半分以上いなくなっている。
それでも世界は廻り日々は過ごされる。一日を積み重ねながら過去と同期の螺旋を繰り返す。
「ね、ねぇ〜」
「んぅ?」
「や、やっぱりさぁ、恥ずかしいんだけど」
彼女はそう言いながらきょろきょろと辺りを見回す。
そして、そのさまよった視線は自分と僕の手へと収束した。
まぁ、手を繋いでいることに言及しているんだろう。
「こんなの、外でやるのは。や、やっぱなぁ……」
「外だからこそ、だよ」
「そ、外だからって……っ。へんたいっ」
へ、変態ですと?
その言葉に反論したい気持ちをぐっと抑えて、彼女の手を強く引っ張った。彼女の驚嘆の声が響く。
唸り声とジトリとした視線を感じながら、無言で手を握り締めて前を歩いた。
僕だって、恥ずかしいとは思っている。閑静になったとはいえ、こんなこと往来で率先してやる様な性分ではないのだ。
でも、それでもやらなければならない理由がある。
それは、世界が壊れだして、法則そのものが崩れだしているから。
其処に鎮座していたはずの物理法則が崩れ始めると、物体はその明白さを曖昧にした。
空のあちこちには光が届かない隙間が生じ、遮るコンクリートの壁は融けて揺らぎ、アスファルトの床には覗きこめない孔穴が穿たれた。
気づくことなくその穴へ嵌まった人が、どこに行ったかを僕は知らない。そして、再び出会うこともない。
僕は彼女を見る。僕に手を惹かれて、恥ずかしそうにうつむいている、彼女を。
諦めたのか抗わず、ただ黙々と歩いている。
……視える僕には、せめて彼女を守る義務があるのだ。
彼女にその綻びが見えず、知らずにいようとも。
さすがに学校まで来ると彼女は手を振りほどいてくる。まぁ、校内は比較的崩れていないため、僕も逆らわずに手を離した。
二人で並んで門を越え、靴を履き替えて教室へ向かう。同じクラスの為、別れることもない。
クラスに入ると、喧騒が僕を横を通り過ぎていく。やかましい位のざわめき、足音に挙動、笑い声に怒鳴り声、混ざりに混ざって響いている。
僕はそれに眉を潜ませながら窓際にある自分の席へと座る。誰かと話す気分にはなれなかった。
「おはヨう」
「……おはよう」
でも、そんな僕に話しかけてきた声。義理は通さねば、と言葉を返した。
机の横にはクラスメイトが僕の顔を覗き込むように腰を折っている。
「なんダよ、げんきねェなぁー」
「――別に」
「ふゥ〜。それではつかレるゼぇ〜」
やれやれと頭を振っているのが分かった。けど僕は構わない。これぐらいでいいか、と再び頭を埋める。
おい、と声をかけられるが、気にしない、いくつかの呼びかけを無視すると、舌打ちを漏らして去った。
僕は間を置いて彼を盗み見た。彼は違うクラスメイトに話しかけて談笑していた。そしてクラスメイトも笑顔で応じている。
一見すると、普通に見える。彼の顔の皮膚半分がずるむけてなければ。
皮膚一枚はがしたような、人体模型を見るようなそんな顔。赤い筋繊維は表情に合わせて収縮し、口を開くたび伸展を繰り返す。
そして、あの舌足らずの口は、間違いなく消えていく予兆だった。
大方、融けた壁に寄りかかったのだろう。消失は免れたみたいだが、あそこまで欠損すると、時間の問題だった。
そうやって、また人が消えていく。だが、それでも、消えたことをクラスメイトは気にかけない。
気にかけることなく、世界は廻るのだ。
授業のチャイムが鳴ると各々自分の席に座り始める。その数は全体の四分の三ほどだろうか、一般の人に比べると多いが、だがやはり空席は目立った。
僕は廊下へと視線を移す。廊下側のほうに彼女がいるのを確認すると、安心感が沸き立つように感じた。
教員がやって来て、礼をし、授業が始まる。
数学の授業だが、しかし一部の文字の欠落している様が見て取れる。完璧と呼ばれた数式も今や見る影もない。
教員の声も一部ノイズが酷く、おおよそ人間のものとは思えない。
僕は教員に見つからないよう工夫を凝らしながら、目を閉じて眠りへと入り込む。この現状を感じ続けるのは、僕にとって苦痛でしかなかった。
授業が終わり、休み時間になり、また授業が始まっては終わり……。
その全てを僕は意識を埋没してやり過ごす。消失、欠損、欠落、不完全なクラスメイトの姿は見たくない。
たぶん、世界はもうすぐ終わりを告げる。その終わりまでにきっとこれ以上のものが失っていくだろう。
今はまだ一部が消えることで済んでいるが、いずれは音が、分子の働きが、重力に至るまでの法則が、光に至るまで。
人もこれ以上に消えていくことになるだろう。残った人は、存在しないはずの亡霊に話しかけ、変わらぬと信じきる日々を過ごすに違いない。
そして、その変化を知る僕は、ただ無常の流れを観察し続けるのだ。なにも出来ず、変えることが出来ずに。
それは、僕にとってとても恐ろしいことであり、また彼らにとっては幸せなことだ。
彼らは終わりを知らずに終わり、僕は終わりに怯えながら終わる。
どうせなら、知らない方がよかった、とも思う。なんで僕だけがこんな目に合わなければならない?
僕もみんなと同じように、壊れていく様を知覚せずに生きてゆければどれほど幸せだっただろう。
それが籠の中の人生でも、籠の中しか人生を知らなければ、幸せじゃないか?
知ってもなにも出来ないのなら、こんな力は……。
そして、いっそのこと先に終われば。
そう思って、そこで歯止めがかかる。命を絶つことに、戸惑いを抱く。
だって、それは――――。
開いた瞳をそのままさらに開く。その矛盾した感覚はどうやら眠っていたことによるものだ。
窓を見ると青空は既にない。血のように濡れた空が世界を呑み込んでいる。
どうやら昼休みを飛ばし、放課後まで一直線に眠り続けたらしい。教室には人一人いない。
椅子に座りながら手を伸ばし、窓を開く。夕焼けは空だけではなく、存在する隙間さえも紅く染めたて上げていた。
眼下に広がるグラウンドには誰もいない。夕暮れとはいえ、まだ部活動をやっていそうなものだが。
僕の背中にヒヤリとした考えが浮かんだ。身を乗り出して景色を凝視する。耳を傾聴させる。
……いない……なにもない……っ!
聞こえるはずの喧騒が、いるだけで存在する人の空気が、生きる者としての痕跡が。
まさか、こんなにも早く……っ。
彼女は、彼女はどうなった!?
幼馴染の彼女、いつも一緒にいた彼女、時にはけんかし、でもすぐに仲直りした彼女。
その彼女は、どこに――――!?
血が沸き立ち、僕は暴れだす感情に任せるままに立ちあがった。
そこで、一枚の紙が床へと滑る。どうやら僕の腕に挟まっていたらしい。
僕はそれを取り上げた。そこには――。
リノリウムの床、掲示板に張り出された紙、誰が見るか分からない勧誘のポスター。
赤に染まる景色は校舎全てをその光の染料で染まっている。この時ばかりは、世界が在りし日に戻った気がしてしまう。
もともと、夕日は荒廃のイメージを持つから、だろうか。ネガティブなものではあるだろうが、しかし、それでも僕には安心感があった。
僕はドアを横に引いた。少しカビ臭さが目立つが、しかし仕方ないかもしれない。
歴史を示し、先人たちが記した遺書の数々、時間の置き場そのものだから。
僕が図書室に入り、辺りを見回すと、すぐそこに彼女はいた。
誰もいないのに行儀よく椅子に座り、読書に熱中する姿。その様子に、僕は安堵の息を洩らした。
僕はちょっとしたいたずら心が沸き立ち、そろりそろりと音もなく彼女へ近づく。
椅子の真後ろにまで近づいた僕は、ゆっくりと彼女の揺れる子馬の尻尾を……。
「わきゅぁっ!?」
珍妙な断末魔が彼女の口から迸った。
何事かと振り返った彼女は僕の顔を見るなり目元を下げ、しかし頬を膨らませる。
「なにやるのよ〜」
「いやぁ、無防備に尻尾を揺らしているものだからつい」
僕はそのポニーテールの先を指で弄る。
さわるなぁっ、と彼女は頭を振るが、しかし僕はやめない。
小競り合いが数分続くが、彼女はもういいよとと呟いた。根負けしたみたいだし、僕は思う存分弄りまわす。
「はぅ……。まったく、全然違うよ」
「んーなにがー?」
「なんでもないっ」
彼女はつっけんどんに言い離すと、僕に背中を向けた。
なんでかなぁ、と文句を言う彼女に、僕はごめんね、と呟いた。
えっ、と彼女が振り向く。僕は頭を撫でてごまかした。
……彼女がいなくて焦った僕。図書館にいるからという置き手紙を見たが、安心はできなかった。
世界は段々と壊れていっている。図書館にいるかもしれない。けど、もしかしたら崩壊に巻き込まれたかも?
そんな不安の中来たら彼女がちゃんとそこにいて。安心ついでにイタズラがしたくなってしまったのだ。
僕の生きる意味は、彼女だったから。
いつも一緒にいた彼女。彼女が消えることが、僕にとってどうしようもない苦痛だった。
どうせ消えるなら、最後の最後まで、ついぞ消える今際の瞬間まで、一緒に居たかった。
その彼女だからこそ、僕は焦ってしまったんだよ。
言わない言葉は僕の心でわだかまりになった。その代わり僕は笑ってみせる。
「そういえばさ、なんの本読んでたの?」
「ん? んーとねぇ」
彼女はその表紙を僕に見せる。が、日本語ではないその題名は分からない。
「……なんて書いてるか教えるヨロシ」
彼女はむぅ、と唸りながら口を開いた。
「こぎと、えるご、さむ」
「……悪魔召喚?」
僕の言葉に彼女は苦笑いをはみながら否定する。
「我思う故に我あり、だよー」
「あ、えーっと……デカルト、だったっけ?」
彼女は嬉しそうに首を振る。その満面の笑顔に、僕は思わず吹き出してしまった。
「あ、笑ったなー?」
「ごめんごめん。いや、あんまりにも嬉しそうだったからね」
「……ふんっ」
「それで、どうしてそんな本読んでたの?」
「……いや。ただ、ね。なんだか、悲しいなーと思って」
悲しい? と聞き返すと、彼女はそっと頷いた。
彼女はページを開く。そこには難解という言葉にふさわしい文字の羅列がびっしりと刻まれている。
「――ある男の人は疑いました。善とはなにか、悪とはなにかと。
石に足を引っかけ転んだ人に手を差し伸べることは良いことなのか、悪いことか、
助けを求めるからとして安易に助けることは、その人によって是なのか非なのか」
彼女は言いながらシャーペンを持ち、本に書き込みを入れる。
【相対主義】【二元論】
止めようと思ったが、彼女のなにも言わせぬ気迫に負け、口を噤んだ。
彼女は面を上げ、目線を右往左往させる。いまだ紅く輝く日を、そして椅子を支える床を。
「分からなくなった男の人は次に肉体に与えられる感覚を疑いました。感覚とは何物かと。
主観による感覚は確固たるものではありませんでした。それに感覚とは他者が生み出した仮想かも知れません」
【マトリクス】【クオリア】
一人一人違うんだよ、と彼女は呟いた。
それは、誰のことを言ったんだろうか? 大多数が普通と思う中で、一人崩壊を知る僕のことを。
「ならば人が生み出した計算はどうか? ――いいえ、それも不確かです。
今まで正しいとされた定義が間違っていたりするので、絶対とは言えません」
【非ユークリッド幾何学】【不完全性定理】
彼女は数千年間、途方もない数の人間が導き出してきた学問を一蹴する。
「ならば神は? 神が正しいと誰が言えるだろう。神は信じるを前提にされているものでしかありません。
彼は疑いに疑いました。正しいものはないか、信じてよいものはないか、絶対不変の真理とはなんだ? と。
けれど結局、なにひとつ正しいと言えるものはありませんでした」
【神の非存在証明】【脱構築】
彼女の声は落胆してしまったそれだった。重く深い声はいつもの彼女ではない。
でも、それでも彼女は顔を上げて僕を見、そして自分の胸に手を当てた。
「ただひとつ。彼の心に、ただ一つだけ残りました。それは、自分です。
肉体のことではなく、こうやって疑う自分。その自分までは疑えるものではないと。
……世界全てが嘘かも知れません。でも、嘘かも知れないと思う自分だけは確かにあるのです。
コギト エルゴ サム。――我思う。故に我あり」
――でもね、私は思うんだよ、世界が崩れる中で、自分と言うものをを本当に疑えずに入れるか?
――世界の一部である自分が、世界が壊れかかっているのに、それでも確かと言えるのか?
――認識が果てるその垣間に、私たちはなぜ自分を信じられるんだって。
彼女は俯いてしまった。
なにか、言おうと思った。けど、言えなかった。
世界が壊れだしていることを一番僕が知っている。壊れていく世界の中で、まだ壊れていない人たちはなに不自由ない日常を過ごしている。
消えていなくなった人をありのままに受け入れ、まるでそれこそが自然かのように、ありふれた日常を繰り返すのだ。
泣いている彼女に、僕はなにが言えるか分からなかった。
ただ、多分こうすればいいと、思った。
「んっ……」
僕は彼女の手を引き寄せる。
彼女は拒まず、僕の意識のままに腕の中へ入り込んだ。
あらかじめそういう風に出来ているように、彼女の体は僕の胸へスッポリ納まった。
「……」
「……」
気の利いた慰めは、多分要らない。
それは彼女が求めるものでないし、僕が求めた答えでもない。
――世界は、今、緩やかに死へ向かっている。
自らもまた世界の一つである僕たちもまた、共に滅びることになるだろう。
そのことに、なにも思わないと言えば、ウソになる。
ただ、そのなにか≠言葉にできない。
生命の本能とか、種のあり方とか、自己保全とか、多分そんなものでなく、
ただ、僕たちは、無性に、悲しかったのかもしれない。
彼女を離した時、日は既に暮れていた。
僕が帰ろうと促すと、静かに彼女は頷いた。
帰り道、僕が手をつなぐと彼女は何も言わずに応じた。
僕らは無言で歩いた。
やがて家に辿り着き、彼女と手を離し、別れを告げる。
今日以上に壊れているだろう明日を約束して。
時間は過ぎる。
崩壊は時間を経る毎に進んでいく。
隙間は徐々に増え、孔は段々と広がっていった。
難解な文字は意味を失い、色さえも一つ一つ単調になった。
臭いはもう臭いかどうかすら分からない。時間は度々軸を飛ばし、昼か夜かさえ判別がつかない。
そして、とうとう、
ぼくはナニもかもをウシナった。
ここがどこかさえ分からない。体はウゴかず、手も足もモトからないようだ。
今のぼくはいくつだろう。ヒルなのだろうか、ヨルなのだろうか。
分からない。
ワカラナイ。
カンガえたって、シ方ない。
もう、カンガえるのは、よそう。
このまま、もう、眠ってしまえば、
そして、それで、スベて……。
………………。
…………。
……。
そっと、ボクのほおをナでる人がいた。
ボクは瞳をヒラく。光がぼくにアフれる。
そこには、彼女がいた。
彼女はそこでカわらずにいた。ケッソンもソンシツもなく、微笑んでいた。
ぼくは笑った。
よかった。
「ねえ」
ああ、そうだ、このセカイがおわる前に、カノジョに言っておかないといけないことがあったんだ。
いつも思ってたこと、大切にシマってたもの、本当はこわくてついに一歩をフみダせなかったコトバ。
「だいすきだよ」
この世のハてがくる前に、
流れたトキが消えない内に、
ぼくはやっと、そのコトバを言った。
「しってるよ」
……わかってた?
じゃぁさー。
なかないで、よぉ。
全てが白く、そして彼女が消えていく中で、僕はふとした考えが浮かんだ。
図書館での彼女の、長い長い独白。なぜあんなことを喋ったのか。
たぶん、彼女は、
僕の秘めた思いも、
世界が変わっていく様も、
すべてを分かってて、
すべてが分かった上で、あんな事を。
その結論が出る前に、僕は――。
エピローグ:始まり。もしくは終わりに、
たぶんこれが、俺が俺足る遺書として、最後のものになるだろう。
世界はこの日を境に世界じゃなくなってしまう。俺もここから、徐々に緩やかに死んでいく。
死ぬことも分からずに、なにもかもを摩耗しながら死んでいく。
怖い。 とても、怖い。 自分が自分でなくなることが。世界が世界を失っていくことが。
でも、自殺はできなかった。たとえ衰退するとしても、彼女を残して死ねなかった。
彼女はなにを思うだろう、そしてなにを感じるだろう。それを知ることは、ついに出来ない。
ただ、見捨てないでほしい。我が侭だが、そう思う。
だから今ここで、彼女にはさよならを、世界にはクソッタレと、そして自分に、はじめまして、と。
俺は、幸せでした。