――――雨上がりの朝。
そんな空気は、素直に心地良い。
軽い湿度を持った大気を、鼻から取り入れる。
肺ではなく丹田に込め、それをイメージで脳髄まで回し、ゆっくりとCO2の多くなったのを口から吐き出す。
それはある呼吸法の一種で、気持ちの良い時にはいつもやっている。
気分爽快になり、漠然とながらの力が身体に巡るからだ。
ああ、気持ち良い。
こんな日が、いつまでも続けばいいのに…………。
「御堂さん」
突然、声がかけられた。
歩みを止めて、確認する。
そこには一人の男。
確か、この人は…………。
「村井さん」
村井栄一郎。
中学にいた時からの知り合いである。
性格を言うと、血の気が多く、少し初対面では悪印象を持たれ易い。
今はどうなのか知らないが、昔と変わらず坊主頭に太い眉毛が特徴だ。
「……お久しぶりっす」
「はい、元気ですか?」
そう言いながらも変わらないなあと感慨に耽る。
どんな場合も一本調子。信じた人間の為には盾になる事も厭わない。
献身的と言うか盲目的と言うか、とにかく依存心が高い。
現に前もそれでトラブルが起き、かなり困ったものだった。
「……余り、元気とは言えないっすね」
「おや、それはまたどうしてです?」
「……御堂さんがいなくなったからですよ。いきなりさよなら。結構あんまりな別れ方だったじゃないですか」
「……仕方ないですよ。時期が時期でしたし」
「……あの時のみんな。まだ待ってるんすよ。一番空けて御堂さんの事を」
「意味ありません。卒業した人間に、その席は無意味ですよ」
「……本当に卒業したんですか?」
「形式的にも実質的にも、ね。こうやって高校にいるのですから」
「だってあの時の事はみんな――」
「……村井さんっ」
辛い思い出。
触れられないようにと思ったが、やはりこの子はすぐに抉る。
一本調子と言う事は、雰囲気に合わせる事も難しい。そう言う事。
その場合は、制すしかない。
「……あんたは変わっちまったっす。なんで下の俺に敬語なんか使うんすか。あの凛々しい時は消えちまったんすか!? ……まるで、別人見たいっす」
「……敬語は、全ての人を敬っている為。凛々しくもなんとも無かったですよ、私は。多分、昔の私は、凄く見えたんでしょうね」
「……一つ一つの動作が美しかった。それは時に荒々しくて、女性に見違える程、舞が綺麗で……。御堂さんは、御堂さんじゃ……」
「人は時によって変わるものですよ。それを言うなら、あの場所にいた君も場違いだったと思いますよ」
「……年上の人多くたって、良かったすもん。あんたが見えてさえいれば、どこでも構わなかったすもん。俺、御堂さんに憧れてたんっすよ!」
「……憧れても、裏切られるだけですよ」
「――!! 裏切られる覚悟が無くて、信じることは出来ないっすよ!!」
――ドクン!!
『それは裏切られる事を知らないから言える、綺麗事さ』
「黙りなさい!!」
「――ッ!」
響き渡る自分の声。
強張る彼に言葉を畳み掛ける。
頭の中で醜き刃を構成し、唇から発す。
言葉――――。
肉体ではなく、心を壊す刀。
時には癒す。だが、今は潰す。
的確な急所を狙って。
「それは裏切られてから言うものです。何も分かっていなく、ガラス細工の心で言えるような軽い言葉ではありません! いざと言う時に重く傷つけられても、それでも耐えるようになってから使いなさい。……今は経験を積む。それから道を作るんです! 若造が粋がってるんではありません!!」
蘇る言葉。辛い記憶。悲しい思い出。
それに囚われて、つい言葉を吐き出しすぎた。
村井さんは、絶句してこちらを見据えていた。
……焦点を合わせていたら、だが。
「……話は終わりです。……さようなら」
とどめ。
一回痙攣し、動かなくなる。
足早に去って、思う。
人は、脆い。
心を許した人間には、尚更、脆くなる。
鉄の精神と謳われた彼は、ガラスの瞬間傷をつける。
それが、とても効率的。
「……スゥ――――――――」
丹田へ、心臓を経由して、中枢へ…………。
「はぁ――――――――」
吐き出す。
「…………」
呼吸法は、何の意味も成さなかった。
+。
−。
その二つが、行動を決める。
明瞭な人間なら、打算で動く者なら、それだけで総てのものの決断が為されるのだろう。
人の善し悪しで、その者にとって+なら好き。−なら嫌い。
補正値は用意され、その中に当てはまるなら曖昧で。
殆どの人間はその補正値は偏りがある。
+が多ければお人好し。−に傾けば疑心暗鬼。
どちらにしても公平は少ない。
それが出来るのは冷徹の極みかマシンだ。商業の社長をお薦めする。
出来ないからこそ不完全で、出来ないからこその人間味で。
人間とは、不完全の定義から生まれているのだろうか。
それを言うのなら、ドジな人間は最も人間なのだろうか?
「ユウ。そう呼べ」
全てが食べ終わり、泣き止みまで一時間。
布団は十二分に濡れ、鍋は乾ききっていた。
その後の気まずさを十分に堪能して切り出した、彼の第一声だった。
「……ユウ?」
「そうだ。さんも様も殿も何もいらない。ユウ。その呼び捨てでいい」
「……でも、」
「でもも糞もねえ。そう呼べ。これは識別名の強制だ。それ以外ならシカトする」
「……分かった、ユウ」
「……で、お前は?」
「え?」
「お前の名前だ。お前とずっと言っとくのはメンドイ。誰かにそう呼ばれていたとか、そう言うのあるだろ?」
それは、彼なりの配慮である。
白髪の、しかも幼き者が路頭に迷う。
どんな珍妙な事があったかが分からない故の、”誰かにそう呼ばれていた”と言ったのだった。
「……ユウ」
「あ? 俺の名前じゃねえって言ってっだろ」
――フルフル
「YOU(貴様)、そう呼ばれてた。それ以外に、余り呼びつけ方は無かった。せいぜい、THAT(あれ)」
「…………」
婉曲な訊き方は、巧を為さなかった。
むしろ、気にする所斬り付けて塩をもんだ感じに、的確ないじめに変化した。ご愁傷様である。
「……って言う事はあれか。”でも”って言い淀んだのは自分もそうだったからか?」
――コクコク
「……俺の予想外しまくりじゃねえか」
「……そうでもない」
「あ?」
「大事な所、本当に伝えたい所は汲み取ってくれた。だから、違う」
「つったって。俺が忠告した以外のどこにそんな配慮があった?」
「知覚してないだけ。他人な私は分かる」
「……それって気が滅入る事に変わらねえじゃねえか。覚えている部分は、スカした事ばっかなんだから」
「……人は覚えてる。だから、あなたも覚えておいて欲しい。助かってる、ありがとう」
それはとても、反則的な笑顔。
にっこりと。
薄らぐ様な、思わず抱き締めてしまいたくなる様な。そんな保護欲を掻き立てられる。
「……で、だ。俺もユウ、お前もYOUだ。……それなら、俺がお前の名前をつけるぞ」
「ユウ、が?」
「不満か?」
「違う」
「なら自分で考えているのか?」
「それも違う」
「なら、別に異存は無いだろ。どうせ名前と言う物は人からつけられるもんで、自分が選ぶ事は出来ねえんだからよ」
「……わかった」
肯定を見て、ユウは考え出した。
元々YOUと言う名も、「お前」という意味で使われただけだ。全く違う名でも、おかしくはあるまい。
だが、あえてユウは――――。
「優璃」
「……え?」
「だから、ユウリだ。俺の名でもある、やさしいやすぐれるという意味合いを持つ優。そして瑠璃――宝石のラピスラズリの和名の――璃だ。それを合わせて優璃。凄いだろ」
「…………ユウリ……。私は、優璃……」
「『瑠璃の光も磨きから』。素質があっても、それ相応の練磨をしなくばものにならぬという意味だ。優しくする事も、優れるということも、頑張らなくては決して光らない。それを掛けている」
「…………?」
「説明する気にはなれんから、己で理解しろ。じゃ、寝ろ」
話は終わったと言わんばかりに、彼は立ち上がる。
「待って!」
だがそれを彼女――優璃が制止する。
彼は体躯を背けて立ち止まり、顔だけを向けた。
「なんだ?」
「…………訊かないの? 何故私が、あそこにいたのか?」
「メンドイ。それに、会ったばかりの俺に言える様な軽いもん背負ってる訳じゃねえだろ。それにほいほいと人を信用するな。社会っつうもんは五割の虚構、四割の欺瞞だ。挙句の果て、搾り取られて捨てられるぜ?」
……醜悪な表情。
それを全て味わって、それを表現したような、邪な視線。
寒気が彼女を襲う。
「例えば俺が、お前の身体目当てでここへ連れてきた。飯を食わせて餌付けし、元気になって懐く頃、浮浪者集めて輪姦する。その時の裏切られた表情とあえぐ顔を裏ビデオで捌く。数十万の利益だ。
例えば俺が、金持ちのデブのロリコン精神を満足させる為にお前を差し出す。見た所処女。それに奴らはこぞって買いたいとせびり、それだけで数百万取れる。
例えば俺が、臓器売買のルートを持っている。ごつい男のドナーは結構いるが、女の、しかも小さいのは滅多に見つからねえ。目玉、腎臓、肺、心臓。全てが売り頃だ。一千万を超える。
そんな可能性を常に考えろ。どこでお前は犯され、奪われ、死ぬか分からねえ。依存したら、終わりだ」
憑き物が、消える。
そこには何もついてない、透明な色。
ガラス。
「逃げ出せる準備をして、体力を温存し、いつでも相手の喉下を噛み切れる覚悟をしろ。そして、弱い部分を曝け出すな。そうすれば、命を失うまで心を守れる」
「……怖い」
「当たり前だ。俺や世界は、そんな場所だ。気を抜ける場所は、死んだ時のみだ」
「……でも、何故そんな事、言う? 油断させといたら、それで金が手に入る。なのに……」
「『善い人だからそんな忠告するんだ』。そんな事思ったら、大間違いだぜ。壊れにくいようにしといたほうが長持ちする。結果はそんなとこかも知れねえんだ。俺を信用して、そのまま死ぬか?」
「…………」
「分かったか。これが助けた理由だ。分かったら寝ろ」
――パチ。
備え付けられたスイッチで明かりが消える。
全ては暗闇に帰し、何もかもが暗黒色になる。
足音のみが聞こえ、ゴソゴソと鳴り、すぐに止んだ。
……寝よう、優璃は目蓋を閉じた。
そこで眠る一瞬とも永久ともつかぬ間、彼女は一つだけ、ポツリと真意が読み取れたような気がした。
結局は「そんな危ういお前を放って置けなかった」。そう言いたかったのではなかろうか?
しかし、そんな思考も冥き眠りに侵食され、塗りつぶされた。
それは生と生、その垣間の死。
全ての安息な、眠り――――。