まばゆく室内を照らす蛍光灯の下。
バスッ
と、鈍い音がおれの手元でくすぶった。分厚い牛皮で作られたキャッチャーミットに、白球が吸い込まれる音。
「野崎さーん。そろそろ休憩していいですか?」
約20mほど先のマウンド上からおれの名前を呼ぶのは、今この白球を投じた若手投手、岩出芳雄(いわで・よしお)。
「そうだな、いったん上がるか」とおれが立ち上がると、岩出もマウンドを降りた。
そして二人並んで、このブルペンの壁際に置かれたパイプ椅子へと腰をおろした。
「うーん、今日は球が走ってないんすかね?肩の調子はいいんですけど、全然音がしないんですよね……」
岩出は、自分の球がおれのミットをほとんど鳴らさなかったことを嘆いた。
おれはその答えを知っている。だが、あえて言わない。
岩出は高卒でうちのチームに入団し、今年で四年目を迎える投手。今シーズンは序盤から中継ぎとして起用され、徐々に頭角を現し始めている。おそらく今のうちのチームで一番、輝く未来を見せてくれそうな投手だ、とおれは思っている。
だから、答えは教えない。
かわりにおれは、ここから見て左手、二つほど据えられたピッチャーマウンドの後方で、試合の現況を映していた小さなモニターに視線を向けた。
イニングは六回の表。おれたちのチーム、神戸ドルフィンズの先発投手がピンチを背負っている。
投手がクイックモーションからボールを投げ込む。内角への直球。
安易な配球だ。これでは打者の目線は迷わない。
おれがそう思うと同時に、相手打者のバットが白球を見事にセンター前へと運んだ。ピンチはさらに広がる。
「あー、あんなところに投げさせたらダメに決まってるだろ……そうですよね、野崎さん?」
いつの間にかブルペンマウンドを降りていた斉藤建夫(さいとう・たてお)が、おれの隣に座りながらそう言った。
こちらは経験豊富な、ドルフィンズ一筋十数年のベテラン投手。近年は左打者殺し、つまりワンポイントリリーフとしてチームに貢献している。
斉藤は先ほどの問いの答えをせがむように、おれの顔を見ている。だがおれは、
「ヒットが出たら、打てたバッターが偉いんだ。配球だの作戦だの細かいことを言っても、どうにもならんさ」
「確かに、そうですよね。やっぱり……」
「本音で言ってくださいよ、野崎さん」
おれの答えに感心して何かを言おうとした岩出を、斉藤がさえぎった。
「岩出の今後の糧にもなるかもしれませんし、ちょっとだけ教えてくださいよ。……誰も外から聞いちゃいませんって」
やはりこのチームで一緒に長年戦ってきた男だ。おれを乗せる方法をよく知っている。
おれは諦めて、きちんと答えることにした。
「氷上は確かに、勝負を急ぎすぎた」
氷上とは、いまグラウンドでキャッチャーボックスに座っている選手のことだ。今期も不動の正捕手として、ここまでのすべての試合でマスクをかぶっている。
「カウントは2−1。もっとじっくり勝負してもよかったな……」
こうしておれはしばらく、自分の考えを二人に見せていった。
効果的な決め球、そこに至るまでのプロセス、動き回るランナーへの注意etcetc……
おれの口から自然と、いろいろな「たられば」が滑り出た。
「やっぱりすごいっすね……野崎さんは……」
話を終えると、相槌を打つこともなく黙って耳をそばだてていた岩出がそうつぶやいた。
「俺もこの人とは長いから、何回もこういうことは聞いたけど」と、斉藤も口を開く。「きちっと全体を見てリードを考えてる感じがするもんな。この人は」
「傍目八目(おかめはちもく)、だ。外から見てれば何とでも言えるさ」
おれは再び、モニターに目を向けた。
「氷上だってちゃんと、いろんなことを考えてるはずだ。キャッチャーボックスに座るとみんな、どうしても視界が狭くなってしまうからな」
「でも、それにしても、やっぱ普通はそこまで深く考えられないですよ。これでバッティングさえよければなぁ、日本一のキャッチャーになるんですけどね」
今日の斉藤はやけにおだててくる。おれに何かを期待しているのだろうか。
だが、ほめられて悪い気はしない。
「まあ、日本一かどうかは知らんが、今でも最低限の仕事はできるつもりだ。だてに長い間、『ブルペン捕手』をやってきたわけじゃないからな」
最後の言葉を言ってから、俺は後悔した。
ブルペンの片隅が一気に凍りついた。
岩出は、ひきつった顔を、笑えない冗談に向けている。
比べて斉藤の動揺はまだ少ないが、それでも話の継ぎ穂に困っているのは岩出と同じだ。
おれは、神戸ドルフィンズ支配下選手六十二人の一員だ。
十四年間のプロ野球人生、グラウンドに立つ時間よりもブルペンに座る時間の方がはるかに多いおれ。
打撃や走塁がからきしダメで、ただ「リリーフ投手の信頼」のみをよりどころに、現役生活にしがみつくおれ。
そんなおれに与えられた影の異名、それが『ブルペン捕手』だ。
実力、根性、そして運。
この三つがうまくそろったときに初めて、一つのチームににたった九個、もしくは十個しか用意されていないレギュラーの座を、勝ち取ることができる。
おれには運がない。周りからもよく言われているし、自分でもつくづくそう思う。
運も実力のうち、不断の努力の上に舞い込んでくるものだ、と意気込む活力は、もう失せている。
長い長い選手生活の中で、おれがレギュラーを取るチャンスは二度ほどあった。
一つめのチャンスは六年前。正捕手が大怪我をした。ひざじん帯の損傷。年齢と共に力が衰えていたこともあって、もはや再起不能、と言われていた。
当時のおれは、その知らせに歓喜した。もちろん心の中で。
大卒でプロの世界に飛び込み、三十路にさしかかっていたおれは、さすがに焦りを感じていた。そんなときに飛び込んできた思いがけない好機。
二番手捕手だったおれに、臨時的に正捕手の座が回ってきた。もちろんおれに、代役で終わるつもりはなかった。
スタメンマスクをかぶり始めてから五試合目のことだった。
おれは、ホームベースに突っ込んでくるランナーの体当たりをもろに受けた。
試合は途中で退場。すぐさま病院に運ばれ、検査を受けた。
骨が折れていた。
そしておれは一軍登録を抹消され、その間に高橋、と言う選手に正捕手の座は受け渡された。
高橋はおれより一つ年下で、当時は一軍と二軍を行ったり来たりしていた。だが正捕手に座ると順調に才能を伸ばし、そこから四年間、ドルフィンズのホームを守り続けることになる。
二つ目のチャンスは、その高橋が引退したときにおとずれた。今からだいたい二年前に当たる。彼もまた、シーズン終盤に負った致命的な怪我で、野球人生に幕を下ろした。
ほとんど同い年の、同じポジションの選手と言うことで、もちろん寂しさはあった。だが、昔ほど露骨ではないにしても、やはりおれは好機の到来を意識した。
これからは、おれがドルフィンズの投手陣を引っ張っていかなければならない。そう決意した矢先のことだった。
新聞に、「FA渦中の氷上 ドルフィンズ入り濃厚」という活字が大きく踊った。
氷上といえば、強気のリードと抜群の打撃力で、東京ラインズを何度も優勝に導いた正捕手。
そんなスター選手が、低迷するドルフィンズに移籍、という報道はかなり奇妙に思えた。だが本人は、子供の頃からドルフィンズのファンで、今回のFAを強く希望しているということだった。
ドルフィンズもまた、高橋を失い、Bクラスの泥沼から脱出する道を模索していた。
相思相愛の移籍話。
晴れて氷上はドルフィンズに入団し、あらゆる注目が彼に向けられた。
そして、おれの存在はあっけなく忘れられていった。
三十六歳となった今では、すでに二番手捕手の座もおれには約束されていない。もうすでに、今シーズンは二度、ファーム落ちを宣告された。
かつての球界では、ベンチに二人の捕手を用意するのが常識だった。そしてグラウンドで投手の球を受けるのも、一人には固定しないチームが多かった。
最近は、絶対的な力を持つ正捕手一人と、その予備としての控え捕手が一人、という布陣が基本になった。常にグラウンドに立ち、すべての投手をリードし続ける正捕手と、ベンチでの声出しが主な仕事の控え捕手。
そんな中、ブルペンでリリーフ投手を引っ張る役目を与えられているおれは、まだ幸せなほうなのかもしれない。
たとえ今シーズン、ここまで一度もマスクをかぶる機会がなかったとしても。
いまだに六回の表は終わっていない。点数はこの回、すでに三点を加えられている。それに伴って、ブルペン内もにわかにあわだたしくなって来た。
「野崎さん。さっき言ったようなことを氷上さんに教えたりはしないんですか?」
投げ込みを開始する準備を進めながら、岩出が聞いてきた。
「そうだな……まあ、たまには……」
「この人は無駄に、他人に気を使うから。あんまり教えたりはしてないはずだ」
斉藤が代わりにおれの実状を答えてくれた。
ただし、それは正確ではない。「あんまり」どころか「皆無」だ。
昨年の五月のことだった。
四年間、慎重に投手を導いてきた高橋のリードと、全く対を成している氷上の強気な配球。ドルフィンズの投手陣は皆、この急激な変革に困惑していた。
しかし、移籍して間もないのだから慣れていないのは仕方がない、そのうち効果が出てくるはずだと、氷上はいくら点を取られても自分のスタイルを変えようとしなかった。
おれはある時、ドルフィンズには直球主体の投手が少ないことや、高橋が作り上げてきたドルフィンズの守りの形など、氷上にいくつかのアドバイスをした。
氷上は「わかりました、参考にします」とうなずいて、そそくさとその場を後にした。
次の日の試合。
氷上は、内角の直球をいつもよりも多く使い、さらに強気な配球を展開した。
一つのチームを長年引っ張り、ゴールデングラブにも二度選ばれた、球界を代表する捕手である氷上。
たとえ先輩とはいえ、弱小チームの二番手捕手の一言で自分のスタイルを変えることは、今まで築いてきたプライドが許さなかったのだろう。
おれはそれ以来、氷上に助言らしい言葉を投げかけたことはない。
こういう押しの弱さも、おれがレギュラーの座をつかめない一因だと思う。
投手が一人、ブルペンから出て行った。だが連打で勢いに乗った今の相手打線を止めるのは、かなり難しいだろう。
この回にでも、岩出や斉藤にマウンドが回ってくる可能性はある。
おれは、本格的な調整に入った岩出の球を受けている。
バスッ
岩出の投じる直球は、まだくすぶった音しか上げられない。しきりに首をかしげながら、岩出は球の握りを確認してみたり、足の出し方を調整してみたりしている。
「岩出!もう少し胸を張れ!」
おれの言葉を聞いて、岩出が胸をグイッと前に出し、直球を投げ込む。
パシイッ
今度は、心地よい音が響き渡った。おれはよし、いいぞ、と岩出に返球する。
その光景に、岩出の隣のマウンドから、斉藤がときどき視線を向けてきた。口元には意味ありげな笑みが浮かんでいる。
やつの言いたいことは大体わかる。野崎さん、またやってるんですね、と。
当たり。
やつもこうやって育ててきたのだから、おれの意図がわかるのは当然だ。
試合はドルフィンズの敗戦に終わった。六回表に猛攻を受けたのも痛かったが、何より打線が沈黙していては勝てるはずもない。
最近はずっと、こういう試合が続いている。五位とのゲーム差は、現在9.5。そんな中、四番打者として氷上は孤軍奮闘している。
おれの居場所はますます狭くなってきた。
そう思って球場外へと続く廊下を歩いていたとき、おれは意外な通知を受けた。
「明日、お前をスタメンで使うからな。そのつもりで調整しておけ」
監督が直接、おれにそう伝えた。本当に突然のことだったので、おれは一瞬だけ狼狽した。だがすぐに、「わかりました」と静かに答えた。
監督はおれの目を見ながらよし、と小さくうなずいて、一足先に廊下を進んでいった。
それにしても、なぜ急に、おれにスタメンを務めさせることになったのだろう。連敗が続き、沈みきっているチームの空気を入れ替えようと言うことだろうか。それにしても、あの氷上を引っ込めるとは……
確か氷上がスタメンを外れるのは、昨年のシーズン終盤の消化試合のとき以来だ。氷上は休養のためにベンチへ入った。そういえばあの時も、氷上の代わりにグラウンドに立ったのは若手の捕手だった。
おれは明日、実に二年ぶりのマスクをかぶることになるのか。
ことの奇妙さにいぶかしがる気持ちと、抑えきれない喜びが入り混じった気持ちを抱えながら、おれは球場を後にした。
翌日。おれはいつもより早い時間に球場入りした。緑色の廊下を歩いていると、背の高い男に出くわした。
「よう、岩出」
「あ、野崎さん。今日はよろしくお願いします」
早くもグローブをはめた岩出の表情は、いつもより浮かれている。
「よろしく、って?」
「え、今日は野崎さんがスタメンマスクなんじゃないんですか?」
「ああ、そうだけど……?」
答えになっていない。おれの戸惑いはさらに深まった。
「もしかして野崎さん、聞いてないんですか?」
「……何を?」
「やっぱり聞いてないみたいですね。今日は、僕が先発するんですよ」
岩出の言葉に対する疑問と、昨日から抱いていた疑問が、その一言によって一気に解けた。
そうか、そういうことだったのか。
おれはいつの間にか、声を立てて笑っていた。
「ど、どうしたんですか、野崎さん?」
「いや……なんでもないさ。確かお前は、いままで先発したことなかったよな?」
「ええ、そうなんですよ。だから今、ちょっと緊張してて……」
「そりゃあな。いくら中継ぎで何試合も投げてるって言っても、やっぱり先発となると話が違うもんな」
おれは、改めて岩出に正対して、語気を強めた。
「大丈夫だ。おれはこのチームで一番多く、お前の球を受けてるからな。」
だから監督は、岩出のプロ入り初先発のパートナーに、おれを選んだんだ。
「『ブルペン捕手』に、任せてくれよ」
昨日は何気ない自嘲から、今日は深い自信から、おれは「ブルペン捕手」という言葉を選んだ。その違いは、岩出にも伝わったのだろう。
「はい。なんか、少し気持ちが楽になりました」
と、岩出は笑顔で答えた。
そしておれたちはブルペンへと向かった。誰の足にも荒らされていないグラウンドで、自分たちの力を出しきるために。
バシイッ
岩出の記念すべき先発第一球は、力強い音と共にミットへ飛び込んだ。そして主審の手が上がり、スコアボードに黄色いランプがひとつ点灯。幸先のいいスタートだ。
試合開始前のブルペンでも、岩出の直球はおれのミットを高らかに鳴らしていた。
おれはそれを手伝っていた。いや、正確には、捕りかたを普通に戻した、と言ったほうがいい。
投手のフォームに何か気になるところがあるとき、おれはわざとミットの鳴りを抑えて、つまり球威を殺して捕球する。その後おれは一言二言投手に助言する。それで直れば、おれはミットを鳴らす。直らなければ、抑えたまま捕る。そうして投手は育っていく。
ただしこの方法はベテランに使ってはいけない。無茶をすると体を壊す危険性があるからだ。それに、長年プロの世界で自分を見つめてきた選手の長所や短所を理解できるのは、結局のところその選手自身だけなのだ。
頑丈な体を持っているが、まだ自分の見えていない若手だけが、より良いフォームに挑戦させられて、自らの限界を超えていく。
長いブルペン捕手生活で身に着けた技。そう考えると少し悲しくもなってくるが、チームのためになるなら構わない。
今日はそういった小技は無用。球威が少し劣る球でも音が響くように捕球する。すると投手は自信を強め、打者はおびえる。
岩出にとって一生に一度のこの晴れ舞台を、納得のいくようにまっとうしてもらいたい。
おれはそれだけを考え、岩出をリードしていった。
一回の表、二回の表、三回の表と、岩出は難なく相手打線を抑え、無失点で切り抜けた。しかも、まだ一本のヒットも許していない。
「野崎さん、先発ってやっぱり最高ですね」
ベンチで、興奮した面持ちの岩出がそう話しかけてきた。
「そうか。一応ファームでも、何回かやったことはあるだろ?」
「ええ、そうですけど……やっぱり一軍はお客さんが多いんで、全然違いますね。一人打者を抑えるごとにこう、スタンドから拍手が聞こえて……本当にすごいです」
「まだまだ今日は観客が少ない方だ。チームはもう、優勝争いから外れてるしな。もっと重要な舞台、そうだな、例えば開幕戦とか優勝決定戦とかそういうところだと、一個ストライクを取るだけでスタンドが一気に沸くからな」
おれはいつになく饒舌になっていた。
「投げられたらいいですね……そういうところで……」
岩出はスタンドの上の夜空を見つめた。その右手は、かすかにだが震えている。
おれも実は、いま少し感動している。あまりの久方に体感するグラウンドの広さに、視界いっぱいに広がるスタンドに、そしていくら閑古鳥が泣いているといっても、いつもの場所とは比べ物にならない大きな声援に。
味方がツーアウトを取られた。おれと岩出は立ち上がり、四回の表に備えて内野フェンス前へと向かった。
打者が高めに外れた球を見送り、打者は一塁へと向かう。フォアボールでノーアウト一塁。この試合初めてのランナーが出た。
幸いランナーの足は速くない。おれは内野に中間守備の指示を出し、リードを続けた。
この回二人目の打者への三球目。
打者は、外角のフォークに手を出してくれた。こちらの思惑通りだ。打球は力なくショート方向に転がっていく。
しかし突然、打球はバウンドの軌道を変えた。
イレギュラーだろうか。ショートはそこで焦ってしまい、打球を後ろにそらした。センターが素早く打球を処理したので一塁ランナーは二塁でストップ。
プロ野球選手といえども気を抜くと、こういうつまらないトンネルをしてしまう。人間がプレイしている以上、これは仕方がないことだとも言える。
だがまだ経験の浅い岩出は、そうやってこのエラーを軽く受け止められないかもしれない。おれは念のためにタイムを取り、マウンドへ向かった。
「岩出、球威では十分に勝っている。気にせず落ち着いて投げろ」
「はい」
案外、岩出のショックは薄いようだ。とくに動揺する様子もなく、しっかりとおれの話を聞いている。
「こういうときにこそ、中継ぎの経験が生きてくるんだ」
「どういうことですか?」
「中継ぎをやってたら、こういうピンチの場面でいきなり登板することはいくらでもあるだろ。実際、お前も今シーズン、何回もそういう場面を切り抜けてきてるしな。それに比べればこの場面、ずっと楽に乗り越えられるはずだ」
「なるほど。そうですね」
そうは言ったが、岩出もそれぐらいのことはわかっているに違いない。だが、もう一度念を押しておく。そういう細かい行動が、精神面のコントロールでは非常に重要になってくる。
おれはしっかり投げろよ、と言い残して、再びキャッチャーボックスに帰っていった。
岩出はその期待に十分こたえてくれた。
この回三人目の打者との対戦。ツーストライクワンボールと追い込んだ後、おれは岩出に高めの直球を要求した。もちろん狙いは、空振り三振。
岩出がクイックモーションから第四球目を投じる。
ピシッ、と音が聞こえそうなほどしっかりと指にかかった、イキのいいストレートがホームに向かってくる。
打者は思わずバットを振りに行くが、スピード感あふれるその球に全くついていけない。
バシイッ
と鋭い音がして、岩出は見事に空振り三振を奪った。その瞬間、小さくガッツポーズをする岩出の右手が、おれの目に映った。
速球派の投手が一番快感を覚える瞬間は、高めのストレートで空振りをもぎとった時だと言う。
岩出もその後、勢いに乗った。四回の表のピンチを無事通り抜けると、岩出のピッチングはさらに加速度を増した。
長身から放たれる重いストレートと得意のフォークで、打者を爽快に斬っていく。
五回表、六回表、七回表、とすべて無失点。しかも無安打。岩出の快投は、面白いように続いていった。
その好投に打線も応え、久しぶりに効果的な攻撃を見せる。四回の裏に二点、六回の裏に三点を加え、相手の先発投手をマウンドから引きずりおろした。
そしてさらに得点を重ねようとチームが意気込む七回の裏、おれはベンチで氷上と話した。
「すごいですね、野崎さん。相手の心が手に取るようにわかってる感じでしょう?」
氷上は屈託のない表情でそう言った。いつも口先では丁寧だが、どこか相手を下に見ている感じのするこの男が、こういう顔をすることにおれは少し驚いた。
だが、おれはかぶりを振って答えた。
「違うな。おれは打者の裏をかこうと思ってリードしてるわけじゃない」
「……でも、相手バッターは、全然ボールについていけてないじゃないですか」
「それは、岩出の球に力があるからだ。投手をよく観察して、投手の一番いい部分を引き出す。それがキャッチャーの……いや、おれの仕事だ」
氷上の最近の配球に口出しするのはやめておいた。これだけの選手なら、言わずとも自分で学ぶだろう。そうなってくれれば、おれが今日キャッチャーを務めたことは大きな収穫になるに違いない。
八回の表。相手は不名誉な記録を何としても避けようと、ベンチで、そしてグラウンドであわただしい動きを見せた。
だが、それでも今日の岩出は揺るがない。堂々と打者に向かっていき、落ち着いてアウトを重ねていく。
そのまま九回の表も、あっという間にツーアウトを稼いでしまった。岩出は依然、安打を許していない。
大記録まであと一人。ドルフィンズにとって事実上の消化試合といってもいいこの試合に、最初は姿勢を崩して観戦していたファンたちも、いつしか皆、一人の男の雄姿を真剣に見つめている。
ここでおれは、この試合二回目のマウンドへ向かった。
「野崎さん、あと一人ですよ」と、先に岩出が声をかけてきた。
「どうしましょう……いつの間にか、こんなことに……」
初の先発勝利を目指してがむしゃらに投げていたのが、いつの間にか思わぬ期待を受けている。そんな滅多にない場面で、緊張するなというほうが無理な話だ。
おれは初め、ヒットを打たれても、一点取られても、お前にとっては大記録だ、と無難に岩出を励まそうとした。
だがおれは、こいつをそんな小さな枠に押し込めたくなかった。
「どうしようって、ここまで来たらやってしまえよ。ノーヒットノーラン」
具体的に飛び出した記録名に、岩出ははっきりと驚いた。
「達成したらかっこいいぞ。明日の一面は独占だ。お前ならできるさ」
心から、おれはそれを確信していた。
もしかしたらこの一言によって無駄に力が入ってしまい、せっかくの記録がおあずけになってしまうかもしれない。
だがそうなってしまうのなら所詮、その程度の選手だったということだ。こいつには、その殻を打ち破る力があるはずだ。
おれは最後の一人への初球を慎重に選んだ。
高めのストレート。
岩出の持つ最も素晴らしい球で、そして今日唯一の苦境をなぎたおした武器。
岩出が運命の一球を投じた。最終回になっても、フォームの躍動感は全く衰えていない。
うなりを上げて向かってくる直球に、打者がバットを合わせにいく。
ガキッ
と鈍い音がして、打球がおれの頭上に弱々しく舞い上がった。
この瞬間、球場内のすべての視線がこの球に、そしてそれを待つおれに向けられていた。
おれはその幸せをかみ締めながら、白球をミットに握り締めた。
「あれ、野崎さーん!どこ行くんですか?」
ロッカールームに向かって歩いているおれの後ろから、聞き覚えのある声が聞こえた。
「斉藤か。いや、これからシャワーを浴びに」
「シャワーって……記者団が探してましたよ。それにお立ち台の話も上がってたのに、さっさとどっかに行くもんだから帳消しになっちゃったじゃないですか」
「いいんだ。おれはそんな柄じゃない」
おれはグラウンドの方に目をやった。ここからは全く見えないが、あの場所で、未来のエースが最高の表情を見せながらスポットライトを浴びている光景は、容易に想像できた。
「そんなこと言ってるから、いつまでたっても裏方なんですよ。野崎さんは」
斉藤が冗談めかしてそう言った。確かにその通りだ、こうやってせっかくの機会を逃してしまうから、おれはブルペンから出られないのだ。
おれは静かに答えた。
「でも、そういう人生も、別に悪かないだろ」
本当におれはそう思っている。
だが、あいつにはそういう人生は歩んで欲しくない。
そんなおかしな考えを抱きつつ、おれはいつまでも、グラウンドとここをさえぎる壁を見つめていた。
ざわめくファンの歓声、マイクのエコーがかかった、ぎこちないヒーローの声。
祝福の鐘は、まだまだ鳴り止みそうにない。