彼女がもう生きられないと聞いたのは、桜の花も散る、春の終わりだった。
「…ごめんね」
「出会いがあれば別れはあるもんさ」
彼女には、背中を向けて答えた。
なぜなら、俺の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃに汚れていたからだ。
「また背中向けてるね」
「…るせえ」
「逢った時からからずっとそうだったよね。いっつも私には背中を向けてばっかりだったよ」
「…」
夕日が、目に痛かった。
風は、地面に落ちた桜の花びらをふわっと巻き上げた。
「変わらないね、ここの桜も」
「俺もお前もな」
このまま、時が止まればいい。
このまま、彼女と二人で一年を過ごしたい。
俺は。
俺は…。
「ねぇ…」
不意に、彼女は切り出した。
「…私が死んだらね…。一回だけでいいから大好きなショートケーキを…備えて欲しいなぁ」
「!」
「あっ、あとイチゴも忘れないでほしいな………えっ――。」
俺は彼女を抱きしめていた。
「…」
「ど、どうしたの?」
「馬鹿野郎!縁起でもない事言うんじゃないっ!周りの奴らが言ってる事なんてみんな嘘だ!お前を騙そうとしているんだ、信じるな!」
それは彼女に、というよりも自分に言い聞かしているような気がした。
「…嘘だったら、いいよね」
俺の腕から離れた彼女は笑顔を浮かべる。
目には涙を浮かべていた。
それはとってもとっても悲しい微笑みだった。
まるで彼女がどこか遠い所にいるような、もう手が届かないほど離れてしまった気がした。
「きっとそうだよ…エイプリルフールって奴だ」
顔を上げれない。
まともに彼女の顔を見ていられる気がしなかった。
「うふふ、そんなのもうずいぶん前だよ?」
「来年の分を先取りしたんだ」
「そんなことできるの?」
「できる。…だからもうそんなこと言うなって…」
「…」
二人で散りゆく桜をみていた。
ねえ、と彼女は俺に呼びかけた。
「来年も見れたらいいね」
彼女は精一杯の笑顔で俺にいった。
「ああ、そうだな」
そう答えるのが精一杯だった。
切なくて。
悲しくて。
彼女を離したくなくて。
だから俺はそっと彼女とキスをした。
初めてのキスは、涙の味がした。
「しょっぱいね…」
「…」
「どうして、どうしてかなぁ……」
地面にポタリ、と雫が落ちた。
彼女はあふれる涙をもうこらえようとはしなかった。
「うぐっ、ど、どうして……ひっ…私、なのかなぁ」
ゆっくりと俺は彼女を抱きしめた。
「嫌だ…いやだよ…私死にたくないよぉ…」
腕(かいな)で、嗚咽が洩れた。
「もっと二人で一緒にどこかへ行きたかった、ピクニックにもハイキングにも行きたかった、夏は一緒に海に行きたかった、秋は二人で散歩したかった、冬には大きい雪だるまを作りたかった…」
それはとても切実な、神様への願い。
もし居るのなら、叶えて欲しかった。
「ずっと、ずっと一緒にいたいよ…ずっと、ずっと…」
「…」
俺は彼女の右手をとった。
「え…?」
そしてそのままその手を夕日にかざした。
「あ…」
夕日を受けた彼女の手は赤く光って、そしてまだ暖かかった。
「見えるだろ、お前はまだ生きてるんだ」
そこには彼女がまだしっかりと生きている証拠が残っていた。
「うん…」
「そうだ、明日はデートに行こう!」
「デート…?」
「そうだ、遊園地だ、なんなら水族館、ゲーセン、カラオケ!どこでもいい!お前に行きたい所につれてってやるよ!」
「本当ですか!」
「ああ、本当だ。俺は嘘はつかないって!」
「じゃ、じゃあ…」
二人は笑っていた。
そこにいたのはなんでもない普通の恋人同士だった。
普通の。
今年もまた桜が散った。
今ではあの頃を懐かしく感じる。
ゆっくりとタバコに火をつけると、出た白煙はもうもうと空に昇っていった。
このまま、あいつのところに届くのだろうか。
そんなくだらないことを考えながら俺は傍らのショートケーキを取り出した。
そして今年もまた春が過ぎていく―――』
――ブツン。
…その後のテロップを何気無しに見つめてから、
ドラマの最終回を放送終了したテレビの電源を消した。
てのひらをたいように。
春。
うららかな日差しと共に万物が目覚める季節。
卒業式と入学式があるように、出会いと別れがある季節。
この町の南、大きな川…「桜川」という粋な名前を持つ川のそばにある大きな市民病院。
そこのそばには、毎年春になると多くの人が訪れる。
というのもその病院の前にある遊歩道には大きな桜の並木道がある。
淡いピンク色が風に舞い、歩行者は、ほう、と感嘆の息をもらす。
別段俺は花などに興味は無いが、なぜかそのその桜はお気に入りだった。
心が和むというか…残念ながら俺は詩人ではないのでうまく説明する事が出来ない、残念だ。
高校三年生を卒業したが、勉強など大してやってなかったので大学になどはもちろん受かるはずも無く見事に浪人してしまった。
だが別に俺は構わないと思った。
たまたま親戚に自営業を営む叔父がいるので、卒業したらそこで働かないか?と誘われていたのだ。
だが友達がこぞって進学すると言い出したので形式的にだけでも…という感じで俺も受けたのだが…結果は先ほど述べたとおりだ。
「…」
ゆっくりと道を歩いていく。
冬が過ぎ、桜も見頃となった今の季節、俺以外にもこの道を歩く人は大勢といる。
なかには手前の病院の患者もいる、看護婦に車椅子を押される老人達がちら、と眼に入った。
「…ん?」
そんな中老人達に混じって一人だけ楽しそうに看護婦と会話する人が側にいた。
時間は平日の昼過ぎ。学生達は勉学にいそしんでいる時間帯だ、だからこそ余計それは目立った。
だからというわけではないが、珍しかったのでついついそちらの方へと聞き耳を立てていた。
その時だった。
「うわー綺麗だね、久川さん」
この静かな遊歩道には場違いとも取れる明るい声が響く。
高い声。明らかに女性だった。
「そうね、今の季節が一番綺麗なのよここの桜は」
「へぇ〜…私移ってきたばかりだから知らなかったよ」
その時ふと看護婦が寂しそうな目をしたが、俺は特に気にも留めず目線を前に戻し、まっすぐ歩いていく。
「あ、真弓さん!あまり動いちゃ駄目ですよ」
「平気平気!って…わぁ!」
どん、という音と同時に下半身に衝撃が走った。
「痛たぁ〜…うぅ〜…」
見下ろした足元には一人の少女が目に涙をためていた。
少し茶色の黒いショートに大きい目、一般的には可愛いと言うのだろう、少なくとも俺はそう思った。
「…」
俺は驚いて声もかけることも出来ず、呆然としていた。
しばらくの沈黙の後、さすがにまずいかと思ったので出来るだけ自然に右手を差し出した。
「え?…あ、ありがとうございます」
その子は俺の右手を握ってくる。
その時に少し驚いたが、顔には出さなかった。
なにに驚いたかと言うと、その腕の細さだった。
雪のように白く、やせ細ったその腕からは病弱という印象を受けるのが妥当だ。
「そ、そのごめんなさい」
別に気にしてるわけじゃない、と伝えたかったが、なぜか緊張した俺はなかなか言葉を出す事が出来ない。
儚い美しさ。
そう、まるで覚める直前の夢、散る直前の花…彼女からはそんな印象を受けた。
こちらが黙っていると、その…怒ってますか?と先ほどの明るい声とは違い、静かで透き通るような、耳に心地よい声が聞こえてきた。
別に怒ってるわけではないが、黙っていたので勘違いされたようだ、俺は慌てて答えた。
「い、いや…気にしなくてもいい」
「そうですか、本当にすいませんでした」
彼女はぺこりと頭を下げる。
「真弓さーん」
真弓、それが彼女の声なのだろうか、看護婦がその名前を呼んで急いでこちらに来た。
「だから、言ったでしょう…」
「い、今のはよそ見してただけなんですっ、その、桜が綺麗だったから…」
最後の方は恥ずかしいのか口ごもってしまった。
看護婦が慌てて、すいませんでした大丈夫ですか?と俺のほうを見て言ってきた。
「はぁ、別に」
気の無い返事をする。
「ええと…見たところ学生さんのようなんですけど…」
「高校は卒業して浪人してます」
別に何の感情も無くさらりと言った。
「え、えと…」
新人なのだろうか、ずいぶん若いその看護婦はばつが悪そうに下を向いてしまった。
多分、どう対処すればいいか困っているのだと思った。
「君、じゃあどうしてここにいるの?」
予期せぬ方から声が聞こえた。
車椅子に座りなおした真弓さんからだった。
「浪人生というものは暇でさ、家でごろごろしているのももったいない。せっかくいい天気だからだからこうして外を歩いているんだ」
「じゃあ君も桜を見に来たの?」
「まぁ…そんなものかな」
「へえ、私もそうなの! ここの桜って綺麗だよね! ね!」
「あ、ああ…」
突然乗り出してきた彼女に、俺は少し狼狽しながらも答えた。
「ふふっ、なんだか嬉しいな〜別に悪い意味じゃないんだけど、ここおばあちゃんおじいちゃんばっかりだから」
俺は周りを見渡し、納得した。
確かに彼女くらいの若い人はいない…彼女、と言っても中学生ぐらいか。
「入院してるのか?」
「え?」
「いや、車椅子に乗っているし、看護婦も側についているし」
まぁ、普通は当然なんだが、お約束というかとりあえず律儀に聞いてみた。
「うん…ま、そんなものかな」
俺の心には違和感が残っていた、何か引っかかる言い方だ。
「それにしても大変だな、もうすぐ高校生だろう?」
「なっ、わ、わっ、私は立派な16歳よ!」
…俺の二つ下、ね。
「それは悪かったな」
「ふん、いいもん、どうせ私はお子様ですよ!」
そう言って、顔をぷいとむけてしまった。……確かに子供だ。
しかし、普通、初対面の人にこんな態度をとるだろうか?
…だが、
「君、名前は?」
「?」
「名前よ名前」
「どうして?」
「だって、いつまでも君じゃ呼びにくいんだもの」
俺はもうこの時からすでに惹かれてたのかもしれない。
「…俺は坂下翔太」
「ふうん、ええと、一応年上だから坂下さん、でいいのかな」
「別に…どうでもいいけど」
「あ、検診の時間ですよ、真弓さん」
先ほどの看護婦がそばにあった時計を見て言う。なんとなく俺と彼女は看護婦の方を見た。
「さ、さっきはすいませんでした」
看護婦が俺のほうにぺこりと頭を下げた、多分さっきの浪人のことだろう。
「いえ、気にしなくていいですよ」
無難に言葉を返す。
子供の頃から口下手だった。
おまけに感情を表すのが下手なのでなぜか周りの人にはよく誤解された。
日本語は厄介なものだと度々思う。
しかし、何故か人に嫌われるという事は無かった。
幼い頃からまわりには頼れる友がいた、今でもそれの理由はわからなかった。
「それじゃ」
そういって看護婦は再び車椅子に手をかけた。
「あ、待って…えっと坂下さん、私は真弓穂稀(まゆみほまれ)、穂稀でいいよっ!」
「…わかった『真弓さん』」
からかうように、あえて苗字の方の語気を強めて言った。
「何よ、つれないんだからっ」
彼女は頬を膨らませるが、初対面の、それも女の子を名前で呼び捨てにする度胸は俺には無い。
「えっと…明日も来てくれない?」
え?と、俺はとまどった。
「私、いっつも昼過ぎくらいにはここにいるから」
「真弓さん」
「はーい」
看護婦は半ば無理やりに真弓さんを押していく。
「絶対に来てねー!約束だよっ!」
声は人の少なくなった遊歩道に響いた。
俺はいつの間にか頭の上に乗ってた桜の花びらを払いながら腕時計を見た。
時間は二時をさしている。
ポケットに手を突っ込んで昼飯のことを考えたが、頭に浮かんだのは桜の花びらと、さっきの少女の笑った顔だった。
「真弓穂稀、ね」
ざぁっと心地よい春風が俺の側を過ぎていく。
季節は春、ピンク色の桜の花びらが隣を駆け抜けていった。
俺が律儀にもほぼ昨日と同じ時間帯に桜が舞う遊歩道を歩いていると。
「あっ、坂下君!来てくれたんだ」
「こんにちわ」
むこうから白いナース服の女性ととパジャマにカーディガンを羽織り、車椅子に乗った少女がきた。
「することもないんでな」
俺は軽く片手を上げて挨拶した。
実際の所、暇ではないのだが、なぜかこの少女のことが気になって、いてもたってもいられなくなったのだ。
「そんなに浪人って楽なの?」
しばらく雑談に花を咲かせていると、突然真弓さんが聞いてきた。
発端は俺が来た理由が浪人生で暇だという、つまらない冗談を彼女が本気で受け取った事にあった。
悪気は無いのだろうだが、その質問は今の俺にはぐさりと突き刺さった。
そんな感情もうまく表現できない自分が悲しい。
「ま、真弓さんっ! すいません!」
後ろの看護婦さんがいかにも申し訳なさそうに謝ってくる。
「別にいいですよ…そうだな、楽かもしれない。でもまた来年には受験があるんだ」
「へぇ…いいな、私小さい頃から体弱くて受験とかもした事無くて」
「真弓さん…」
「…」
なんとなくしんみりしてしまった。
「ちょ、ちょっとやめてよ、しんみりしたのは苦手なのっ」
彼女は慌てて場を盛り上げようとした。
そんな彼女がおかしくて俺たちはついつい笑ってしまう。
「ええと…そちらの看護婦さんは…」
「あ、すみませんまだ自己紹介してませんでしたね、私は真弓さんの担当看護婦、久川真理子です」
「なによっ、わたしはおいてけぼり?」
パジャマにカーディガン、白い肌にやせ細った腕。
どこからどう見ても病人にしか見えない。
…だがその明るい声と顔は、彼女が病人であるということを微塵も感じさせなかった。
彼女は心臓を患っているらしく、小学校以来学校に入っていないらしい。
気にはしていると思ったので、俺は深くそのことについては触れはしなかった。
それと今までは別の病院にいたらしかったんだが、静養の為この桜の並木道が近くにある市民病院に来たらしい。
…というのも彼女が桜が好きだという理由だけらしいが。
そのことを聞いた時、俺は苦笑してしまった。
「私ね、桜が好きなの。小さい頃お母さんに連れて行ってもらったお花見の時の記憶がまだ残ってるからだと思う」
彼女のご両親は忙しいらしく海外で働いているらしい。
そうこうしているうちにまた今日も久川さんが検診の時間だと言い、彼女は帰るべき場所に帰っていった。
…去り際に彼女は寂しそうな顔をしたのはなぜだろう。
そんな顔をするなよ、と言いたい衝動に駆られたが、なぜか切り出す事が出来なかった。
だから俺は約束をした。
また、明日も来てやるから、と。
大声では言わなかったが…聞こえたのだろう。彼女は嬉しそうに手を振って帰っていった。
今まで友達らしい友達にはあわなかったのだと思う。もしかしたら恋も経験した事は無いのかもしれない。
かくいう俺もそのような経験は無い。もともと女性と会話するのが苦手なのだ。
…そこまで考えて疑問が頭に浮かんだ。
「…真弓さんには、どうして普通に話せられるのだろうか」
呟いた言葉は桃色を運ぶ風にかき消された。
しばらくの間……といっても一週間ぐらいだが、俺と真弓さん、それに久川さんは毎日のように前の遊歩道で出会い、とりとめの無い会話を交わしていた。
「本当、この道は綺麗だよね」
今日も桜はきれいに咲いている。
彼女と会ってからの六日間、天気はずっと晴れていて、まだまだ桜は散りそうに無い。
「ああ、そうだな」
不思議と口下手なはずだった俺から、すんなりとその言葉が出たのは自分でも疑問に思う。
本当はバイトの時間だったのだが、店長に無理言ってまで来てしまった。
時折見せる彼女の笑顔にどきりとする。
時折見せる彼女の仕草を見つめている。
「どうしたの? 私の顔、ぼーっと見つめちゃって」
「え、いや…」
いつのまにか彼女の顔を見ていたらしい、俺は恥ずかしくなって顔を背けた。
「ええと…」
「…」
「あらあら」
後では久川さんが可笑しそうに笑っていた。
「あ、そうだ私明日はちょっとこれないんだ」
「?」
「明日はちょっと忙しいの、普通の検診じゃなくてね」
「そうか…」
そう呟いたのは良かったが、寂しかった。
一週間前には思えなかったことが、今でははっきりと言葉に出来るほどはっきりと…。
「ああ、わかった」
「うん、ごめんね」
「真弓さん、そろそろ…」
彼女と別れた後、俺はこの見慣れた遊歩道を振り返った。
…見慣れたはずの風景のはずなのに何か物足りない。
それは、桜でも青い空でも流れる雲でもない、今一番俺が見たかったのはあのこの天使のような微笑だ。
鮮やかなはずの桜のピンクが、今ばかりはセピア色に色あせて見えた。
彼女は、今日ここには来ない。
彼女には、今日は会えない。
頭では、そんなことはちゃんとわかっている。
じゃあ、俺は何故今ここにいる。
体が勝手に動いた、とか癖になってるとか…そんなのは言い訳だろう。
彼女に会いたかったのだ。
ただそれだけだ。
会えるわけもないのに……。
「馬鹿か俺は」
いるわけが無い。
今日は休日という事も手伝って、遊歩道もいつもより人が多い、カップルや親子連れの姿も見える。
別にそんな訳は無いのだが、ここに自分がいることがひどく不自然に思える。
だから、恥ずかしくなって俺はそこから走り去ってしまった。
息を切らすほど一生懸命に走る必要はなかったけれども、遊歩道を抜けた時、俺の方は激しく上下していた。
ぼんやりとそれは走っている間に頭に浮かんできた。
(彼女に会いたい)
胸の鼓動が早くなっているのは走ったからだ、そう自分に言い聞かせて、顔を上げる。
振り向けば右隣には大きな病院が見える。
それは桜にかすんで見えた。
消毒液のにおい、白い壁。
独特の雰囲気を持つ、清潔な建物の中を貫くエレベーターに乗って305号室に向かう。
手持ち無沙汰ではなんなので、手にはロビーの販売機で買った花とジュースを持っていた。自販で花と言うのが微妙な心境だ。
しかし、今の俺は……。
「お見舞いだよな、これって」
段々自分のしている事がわからなくなってきた。
女の子、それも一週間前に会ったばかりの子のお見舞いに行こうとしている。
自分はこんなにお人好しだったのだろうか?
それとも……。
「どうでもいいか…」
難しい事を考えるのは苦手だ。首を降ると自然と思考は止まった。
すると眼前には広い廊下が広がる。
「ええと…」
305、305…。
目で番号を追う。
「…305、真弓穂稀様。…ここか」
俺はノックしようとドアに手をかけた…が、いざ入ろうと思ったら少し戸惑った。
(どういえばいいんだ)
仮に彼女の両親が来ていたとしよう。
「…」
…対応の仕方がわからない。
こんな状況に身をおいたのは初めてだ。
俺は道行く人たちの視線を感じながらも、ひたすら悩んでいた。
「あれ?坂下君?」
ふいに後からその聞きなれた声が聞こえた。
「…真弓さん?」
振り返ると、そこに彼女はいた。
「どうしたの一体?こんなところで?」
よく考えると俺の格好は変という他にない。
花を持ち、腕を組んで目の前のドアをひたすら睨みつけているのだ。人々が俺を見ていた理由がわかった。
「いや…」
俺は正直に「ここまで来たは良かったが、その後どうすればいいかわからなかった」と答えた。
すると彼女は何が可笑しいのか急に吹き出した。
「あはははっ、何それ〜変だよ坂下君っ」
大笑いされているはずなのに、なぜか腹は立たなかった。
逆に俺自身も少し喜んでいた、彼女の顔を見れたことに。
彼女の検査はもう終わり、今はちょっと外に出ていたらしい。
部屋に入った俺たちはいつものように何気ない話をしていた。
それは俺の学生時代の話や彼女の趣味の話などどうでもいいことだが、俺にとっては今彼女と接している事そのものが嬉しかった。
ただ、いつもと違うのは。
「そういえば、どうしてこんな所にいたの?」
今、この場所には俺と彼女の二人きりという事だ。
…と、急にその言葉で事実に気づいてしまった
で、意識すればするほどその想いは強くなる。
まるで自分が三流恋愛ドラマの主人公になっているような気がした。
ガラでもない。
「…」
「ねぇってば、どうしてどうして?」
彼女は甘えた声で俺の顔を下から覗き込んでくる。
「いや、その」
はっきり言うと「自分でもなぜかわからない」と、答えるのが妥当だろうが…心の中にはおぼろげながらそれに対するはっきりとした答えが浮かんできている。
「なんだ、私に会いに来てくれたんじゃなかったのかぁ…」
目に見える程がっかりする彼女。
そんな態度にたいして俺は自分でも驚くような大きい声で「そんなことは無い」と答えていた。
「へ?」
「あ…」
二人とも黙ってしまう、ちょっと部屋の中に気まずい雰囲気が漂う。
「あ、あはは…そ、そうなんだ〜」
気のせいか少し赤い顔で彼女は言った。
開いた窓からの春風が俺の頬を優しくなでる。
俺はどうしたらいいかわからなくなり、ただ手を前で組んでいた。
情けないな…自分の方が年上の癖に。
(いや、そういうことに関しては彼女と大して変わらないか)
思わず苦笑してしまった。
「ふふっ、坂下さんまた笑ってるね」
「?」
急に声をかけられたので驚いた、見ると彼女はくすくす笑っている。
「どうした?俺の顔に何かついてるか?」
「ううん、坂下さん最初の頃はその…こんな言い方しちゃ悪いけどロボットみたいだったから…あんまりしゃべらなかったり、笑わなかったり」
そういえば、そうだ。
自分はそういう性格のはずだ。
だが、彼女と出会って一週間がたった今。
――俺は…。
「あ、ごめんっ、その、気にしないで?」
徐々に口元が上がっていき、顔が緩む。
久しぶりに「笑った」気がした。
「いや、気にしてないよ」
「わ、また笑ってる」
「ああ、君のおかげだよ」
「?」
二人きりの病室。
さっきまでは緊張していたはずなのに、今はこの空間がとても心地よかった。
いつのまにか心が和んでいた。
月並みな言い方をすればこれは『恋』なのだろうか?
…なんて、馬鹿か、俺は。
世界が赤く染まる頃、夕焼けを背中に背負い病室を後にした。
帰り際の彼女の笑顔がすぐにでも思い出せる。
「また、明日ね」
柄にも無く心が高揚する。
…だからと言ってスキップすをするほども浮かれていないし、そんな常識はずれでもない。
…この先をまっすぐ行けばエレベータに突き当たる。
どうでもいいが、どうして病院のエレベーターというのは静電気が起きやすいのだろうか?
来る時も手すりに触った瞬間ビリっと来た。
(冬場に静電気とはよく言ったものだが)
そんなくだらないことを考えながら歩いていると、不意に二人の若い看護婦とすれ違う。
「でも可愛そうよねあの子…」
「いい子なのにね〜」
どうしたんだろうか、二人とも顔がすぐれない。
沈んだ表情に興味を引かれ、また聞き耳を立てていた。
「もうあんまり長くない…とか言ってたよね清水先生」
「うん、でも重いんでしょ?とてもそうはみえないんだけどね」
「えーとあの305号室の」
え…?
「真弓ほ…きゃっ!?」
俺は看護婦がその名前を言い終わる前に彼女の手首を掴んでいた。
「本当か?!」
「え、えっ?」
きっと、聞き違いだ。
そうに違いない。
…だが。
心の中に嫌な予感を告げる風が、ざわざわと吹き荒れている。
「ちょっと、何するんですか?」
「なんだって…今誰って言おうとした!」
「!!」
「な、何の事?」
「とぼけるなっ!言ってくれ!305だって?」
気がつけばものすごい剣幕で怒鳴っていた。
そう、これは俺の勘違いのはずなのに。
そのはずなのに、敏感な琴線に触れた為、異常な反応を示していた。
「何事ですか?」
後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
「…?坂下君?どうしたの?」
「ひ、久川さん…」
振り向くとそこには確か真弓さんの看護婦の久川さんがいた。
ただ、いつものようなおっとりした雰囲気とは違い、緊張感に満ちている。
今の状態を見て、表情は真剣だった。
「あなた達、どうしたのか事情を説明してくれない?」
「え…」
一人の看護婦がそわそわしたように隣の看護婦を小突く。
「えーと、あのー…いやそこの男の子がいきなり怒鳴ってきたんでびっくりしちゃってー」
「なっ!ま、待てよ!それは」
「……そう、わかったわ。坂下君、ちょっとこっちに来てくれない?」
反論は、怖いくらい冷静な声にかき消された。
「え…?」
「いいから、ほら、あなた達は早く仕事に戻りなさい」
「「はーい」」
「く、久川さん?」
俺はなされるがままに久川さんに手を引っ張られていった。
通されたのは応接室……だと思う。
必要最低限のものだけで、余計な物は見当たらなかった。
まぁ、座って、と側のソファーに指差した。
だぁら俺はとりあえずそのソファーに体を預けた。
「…どういうつもりですか?」
「いいの、どうせあの二人いつも噂話してるんだから…今度ガツンと言わなくちゃね」
そう言って苦笑いを浮かべた久川さんは、いつものおっとりとした久川さんに戻っていた。
「問題なのは、あなたが何を聞いたかってことよ」
「…!」
ざわり、と髪の毛が逆立ったような気がした。
先ほどの声がまだ脳裏に焼きついている。
「でも可愛そうよねあの子…」
「いい子なのにね〜」
「もうあんまり長くない…とか言ってたよね清水先生」
「うん、でも重いんでしょ?とてもそうはみえないんだけどね」
「えーとあの305号室の」
「真弓ほ…」
「…」
「何を聞いたか教えてくれない?」
『もうあんまり長くない…とか言ってたよね清水先生』
「…」
「坂下君?」
『えーとあの305号室の』
『真弓ほ…』
「違うっ!!!!!」
リフレインする言葉を叫びでかき消した。
「え?!」
「あ…いや、何でも…なんでもないです」
「…何か、聞いたのね」
「い、いや…何も…」
「嘘はつかなくていいわよ」
彼女の瞳は俺をしっかりと捉えている…それはまるで吸い込まれそうで。
今の俺には、とても耐えられないほどの鋭さがあった。
「それに嘘をつくならもっともらしい顔しなさい、そんな鬼気迫る顔で否定されて疑わない人はいないわよ」
そう言われて、初めて気づいた。
決して熱いからじゃない汗を、全身にかいていることに。
春で、微弱ながらもクーラーが効いている、この部屋で。
「あ…」
俺は手を頬に当て、それを確認した。
「…やっぱり、何か聞いたのね」
「…」
「まさか真ゆ―――」
「違う!」
その名前を言い終わる前に、俺は叫んでいた。
「…そうなのね」
「違う、これは俺の聞き違いだ、きっとそうだ、そうに違いない、違うだろ、違うんだ違うんだ……」
腕を前で組んで、頭をたれて。
「…違うんだ」
「…絶対に黙っててね、このことは」
「…本当、なのか」
俺の問いに対して彼女は、口には出さず首を縦に振った。
「でも、100%じゃないわ」
「え…?」
「手術をすれば助かる可能性はあるわ、でも…それにはとてもお金がかかるし、それに…」
―――彼女の体が耐えれるかどうかわからないの。
「…。」
すっかり暗くなった帰り道をとぼとぼと歩いていた。
街頭があたりをほのかに照らし出す、その風景はひどく寂しいものに見えた。
まさかこんな……。
……こんなことが。
「ふぅ…」
これが、運命というものだろうか。
柄にもなくそんな事を信じてしまいそうになる。
出会ってまだ一週間足らず、それなのにいつのまにか俺は彼女に惹かれ始めていた。
そしてそれは今日確信に変わった。
それなのに、告げられたのは逃れようのない現実、のみ。
「楽しい夢の後のように、目覚めて忘れていたらいいんだがな…」
空を見上げると、雲ひとつ無く星空が瞬く。
満月の明るさは今の俺には眩しすぎた。
当たり前のように日々は流れ、彼女と会ってからいつのまにかニ週間が過ぎていた。
その間彼女は本当に嬉しそうに、良く寝てよく食べよく笑った。
ただ…俺はあの日からずっと彼女に嘘をつき続けている、「きっとすぐに良くなるよ」と。
「あれあれ〜?」
彼女はいきなり素っ頓狂な声を上げると地面に駆け寄り、しゃがみこんだ。
最近は体調がいいのか普通に歩いていいらしい。
ここ数日は二人であの「桜道」(命名:真弓さん……といっても、その名前を告げられた時そのままだな、と言ったらすねられた)を歩くのが日課となっていた。
「桜ももう散りごろかな〜」
俺も彼女の言葉につられて地面を見る。
もうずいぶんと花びらは増えていて、地面をピンク色に染めていた。
「花は散るからこそ儚く美しい」
「うわ…やめてよ、それすごく気持ち悪い」
…ちょっと傷ついた。
「軽い冗談だ」
「せめて笑って言ってよ、真顔で言われると怖いじゃない」
「そう言われてもな…」
「もう、坂下君ってば相変わらずなんだからっ」
しばらく経っているが、いまだに呼び名は苗字のままだ。
と言っても俺は特に気にはしていない……。
だが彼女は俺が名前で呼ぶまで俺の名前を言わないつもりだ。意地なんだろう。
言いたそうでうずうずしてると、久川さんが教えてくれているので隠しても無駄なのだが。
「そういえば、もうこんなに経つんだね」
「?」
「ちょうどあの時も、こんないいお天気の日だっけ」
そう言って彼女は桜の木の間から注ぐ日差しに目を細めた。
「初めて坂下君と会った日」
「ああ」
そんな彼女の方が眩しく見えた、なんて気取ったセリフは俺の口からはとても出てこなかった。
「まだ、昨日の事みたいだね」
そういって笑顔を見せた彼女の顔はやっぱり眩しく見えて、つられて俺も顔が緩んだ。
「ふふ、そうだね」
「おりょりょ、珍しいな〜、笑ってる〜」
「そりゃ、俺だって笑うさ」
「あはは、明日は大雨だね」
「何だよ、それじゃまるで俺が笑っちゃいけないみたいじゃないか」
「ううん」
ぽふっ。
「そんなこと…ないよ」
「…そっか」
気がつけば右手は彼女の髪の毛をゆっくりとなでていた。
なでなで。
「ふみゅ…」
そのままなで続けると、猫のように目を細める。
なでなでなで。
…その後、周りの視線が痛いのに気づくまでそれは続いてしまった、は、恥ずかしい…。
しばらくして病室に戻り、俺はベッドの側のいすに腰掛けて彼女にりんごをむいていた。
「うさぎさんだっ」
むき終わったりんごをずらりとお皿の上に並べた。
「わーっ♪すごーいっ♪何々? 意外な才能ってやつ〜?」
彼女は目をきらきらと輝かせて俺の作ったうさぎりんごを見ている。
子供の頃から手先だけは器用だ、自炊だって出来る。
「すっっっっごく意外ぃーっ♪」
…だから嬉しそうな顔でそんな事を言うなよ、傷つくってば。
そんな感じで今日も面会時間が過ぎ帰路に着こうとしたとき。
「あら、坂下君」
「あ…久川さん」
部屋を出たところでばったりと久川さんに出会ってしまった。
「あらあら、今日も来てたのね。聞いたわよ、何でも公園で『らぶらぶ』だったそうねぇ」
ことさら『らぶらぶ』の部分を強調されて、うふふと意地悪く笑う。
「う…やめてください、必死で忘れようとしてるんですから」
あれはずいぶんと恥ずかしかった。
まだ、若い人が少なかったのが救いか…それでも冷やかされたけど。
「…いいわよあの子。体の調子も、心も」
「え?」
「よく『病は気から』って言われてるけど…本当その通りかもね、坂下君と会ってからあの子、日増しに良くなってきてるのよ」
「本当ですか?」
「ええ、この調子ならもしかして手術が成功するかもしれないわ」
「…はは」
「あら〜顔がにやけてるわよ、坂下君らしくない」
…なんだかいつもと雰囲気が違うぞ。
「…む、それじゃ俺が笑っちゃいけないみたいじゃないですか」
「そんなことないわよ、カッコイイ男の子は私の好みよ」
少し大人っぽく見える久川さんは、片目をパチッと閉じた。
う、ウィンク…お、ちょっと魅惑的……。
「…えと」
「どう、今度お姉さんと一緒に…」
「え、遠慮しておきます…」
「あら、残念、うふふ」
そう言って、いつものおっとりとした久川さんに戻った。
…からかわれてただけか、やれやれ。
帰り道。
街頭に照らされた桜を見ながら、ゆっくりと歩いていた。
(よく『病は気から』って言われてるけど…本当その通りかもね、坂下君と会ってからあの子日増しに良くなってきてるのよ)
(ええ、この調子ならもしかして手術が成功するかもしれないわ)
「かも、か」
何度も彼女が重い病気なのは聞いた。
…それでも普段の彼女の仕草を見ているとそうだとはとても思えない。
「『日増しに良くなってきてる』か、…はは」
日増しに元気に、明るくなっているのは確かだ。
俺が見ててわかるのはそれぐらいだった。
翌日。
「えへへ〜似合う〜?」
いつもの桜道に、彼女は麦藁帽子にワンピースというなんとも涼しげな格好で来た。
「どうしたんだい?そんな格好なんてして」
「うんっ、最近調子いいから今日はお出かけしようと思って」
「うん」
「と、言うのは表向きで本当は抜け出してきたの」
「…お、おい、大丈夫なのか?」
「ん〜…夕方までに帰れば大丈夫でしょ」
彼女は可愛らしくあごに人差し指を当て、悩んだ後、にぱっと笑った。
「…」
「どうしたのよ〜」
「駄目だ」
俺はきっぱりと言い放った。
「え〜〜〜〜〜っ!」
「君は病人なんだぞ、忘れたのか?」
「でもでも、か弱い乙女がせっかく危険を冒してまで抜け出してきたのよ〜」
「駄目だ、悪くなったらどうするんだ」
彼女には悪いが、あんまり遠出なんてして悪化したら元も子もない。
静養の為の病院を、抜け出して遠出なんて、本末転倒だ。
「う〜」
「うなっても駄目だ」
「う〜う〜う〜」
「…」
彼女があまりにも哀れで、俺は右手で顔を抑えた。
「大体…お出かけってどこに行くつもりなんだ?」
「いいの?」
「聞いてるだけだ」
「……あのね、坂下君に見せたい場所があるの」
「見せたい場所?」
「うん…駄目かな?」
彼女にしては珍しく沈んだ表情だ。
男と言うのは全般的にそんな顔に弱いのだろう。
「…どこにあるんだ」
「近くだよっ!ほんのすぐそこ!駅から歩いて三分!車で五分スーパーも学校も近くてお得だよっ!」
そんな物件の広告のようなことを言われてもいまいちぱっとしない、ていうか何で歩きより車の方が遠いんだ、オイ。
「思いつきだろ」
「ち、違うよっ、冗談!うん、軽い冗談だよ!」
何故そんなにどもる。
「本当は病院の裏の山」
「山?」
「うん、お願い、一生のお願い」
彼女は顔の前でパチッと両手を合わせ、頭を下げた。
…わざわざ、俺と一緒に行くためにこんな服着てきたんだよな。
病院を抜け出してまで。
そんなに行きたいんだろうか?
俺と、一緒に。
…病院の裏の山、か。
「…ちょっとだ」
「え?」
「ほんの少しだけ、昼までには帰る」
「ほ、本当?」
「…ああ」
だってよ、そんな目されたら断れないじゃないか。
「本当に本当?」
「ああ」
「本当に本当に本当?」
「ああ」
「本当に本当に本当に本当に…」
「早く行こう、日が暮れるぞ」
俺はきりがなさそうな彼女の言葉をそこで切り、歩き始めた。
「あ、待ってよっ」
「ほら、行くよ」
そういって俺は右手を差し出した。
「…」
彼女は少し立ち止まった後。
「うんっ」
嬉しそうな顔で俺の右手を握り返してきた。
意外と険しくない山道を二人で歩いて行く。
階段は何百段とあり、一人で登るのは気が引けたが、隣に彼女がいるならいくらでも登れそうな気がした。
道は塗装されていて、思ったよりは歩きやすい。
山なんていうもんだからもっと獣道みたいなのを通るのかと…。
「ついたよ」
俺の思考は彼女の言葉によってさえぎられた。
「うわ…!」
山の上の展望台のちょうど景色の反対側。
ピンク色の風を受けて空にそびえている。
見上げれば、目の前には桜の木が何本もそびえていた。
「すごいな…」
「うん」
花びらが辺りに散っていて、地面は桜色に染まっていて…なんとも幻想的な風景だった。
しばらく二人してその桜の木を見つめていた。
もちろん人の目も気にせず、手をつないだまま。
「でもね、まだついてない」
「え?」
俺は彼女の言葉に振り向いた。
「こっちこっち」
「お、おいっ」
無理やり手を引っ張っていかれて杭を越えて人気のない場所へ…おいおい、とか思っていたらそのまま上にのぼりだして。
「ど、どこへ行くんだよ」
「秘密ー」
俺に出来ることはついて行くだけだった。
そのまま歩く事数分。
ここは明らかに人の来る場所ではない。
「はふー…ついたよ〜」
彼女は俺よりも先に出て大きく深呼吸していた。
「ここは…」
そこはさっきの桜の木が見える山の中腹。
さっきの風景とは違い、ここからは桜の花と景色が重なって見えた。
「どう、すごいでしょ」
さっきの場所も絶景には違いなかったが、ここはもっとすごかった。
ひらりひらりと、桜の花びらが辺りを舞う。
何千何万と、数え切れないほどのピンク色の粉雪が目の前を埋め尽くす。
まるで何年前の昔からあたりまえのように繰り返されてきたであろうその光景も今はただ自分達の眼前にある。
呆然と立ち尽くし、思う。
ただ、『綺麗』と。
この町一の景色と言っても過言でもないかもしれない。
とにかく、俺はこんな景色を見たことはなかった。
まるで夢の中にいるような気がした。
「しかし、こんな場所よく知っていたな」
「ま、前にも一度抜け出してきたんだーあはは…」
真弓さんの乾いた笑い声が響く。
「おいおい…」
「あ、あのさー、あそこあそこ」
真弓さんはごまかすようにある場所を指差した。
「病院…?」
彼女の人差し指の先にはあの病院があった。
「ずっと見てたんだ、この桜の花。私の部屋から綺麗に見えるんだ、山のてっぺんだから目立つし…」
俺は景色を見たまま口を閉じていた。
「病院の中って暇でさ、私ずーっとあの木のそばに行ってみたかったんだ…」
そう言って彼女はうつむき。
「でも一人で行ってもやっぱりつまんなかった。だから今、坂下君とこれて…良かったよ」
「…真弓さん」
頬にうっすら、と涙が流れた。
「あ、あはは…ごめんね、なんでだろ、涙止まんないや…」
そんな彼女がいとおしいくて、肩に手を回した。
「さ、坂下君?」
「…お、俺でよかったら…いつでも一緒にいってやるから」
「あ…」
そのまま俺の肩に、もたれてきて、彼女はまだ潤ったままの瞳で、満面の笑みをたたえた。
「うん…!」
世界が、止まる。
今、このとき、この場所に存在するのは俺たち二人のみ。
まるで、空中に浮かんでるようで、不思議な感覚で。
桜の花びらがつもった地面が、まるで桃源郷のようで。
それはとてもとても、幸せな夢で。
「――っ!?」
目が覚めれば、残酷な現実に戻される。
「ま、真弓さん!?」
急に彼女は、ガクガクと体が震えて、体中から汗がふき出していく。
「うあぁ…さ、坂下く…」
俺の名前を呼びかけようとして、力尽きて、動かなくなった。
「う、うわあああああーーーーっ!!!」
真夜中、日付が回った頃、赤い点灯ランプはまだその光をたたえていた。
「…坂下君、気を落とさないで」
俺はあの後、必死に彼女を背負って山道を駆け下り、そのまま病院の受付に駆け込んだ。
すぐさま緊急手術となり、現在に至る。
「…」
俺のせいだ、俺の……。
「俺が彼女を縛り付けてまでベッドに寝かしつけてれば…!」
「後悔しても仕方ないわよ、もうこうなった以上は…」
肩を叩いてくれる隣の久川さんがかけてくれる優しい言葉が、痛かった。
「…」
だからそれ以上俺は何も言えなかった、できることと言えば、心の中で自分を責めることと、彼女の安否を願うだけだった。
そして、赤い光は消える。
「終わったみたいね」
ゆっくりと手術室の扉が開いて、一人の手術服を着た医師がコツコツと音を立ててでてくる。
「…お疲れ様でした、清水先生」
久川さんが深々と先生に頭を下げた。
「ああ、なんとか一命はとりとめたが…やはり、このままじゃ厳しいな…あの子の親は?」
「呼んだ方がよろしいでしょうか…?」
「ああ、明日一度ゆっくりと今後についての話をしたい」
無事だったのか…無事、か。
なんども同じ単語を頭の中でかみしめた、安堵感はすぐさま眠気に変わっていく。
「良かったわね坂下君!…あら、寝ちゃったの…」
最後に覚えていたのは、久川さんの変わらない優しい声だった。
春がすぎようとしていた。
桜がかけた魔法はあまりにも幸せすぎて、残酷すぎた。
手術の後、先生と彼女の親の間でどんな話があったのかは俺は知らない。
ただ、俺ができることは、彼女の側にいて笑ってあげることだけだった。
だからベッドに横になった彼女も、俺の腕を掴んで離さない。
まるで、二人の存在を確かめるように。
「ごめんね、心配かけて…」
「そんなことないって。ただこれからは外出は控えるぞ、また俺のせい、なんてことになったら嫌だからな」
「…うん」
ベッドに腰掛けている真弓さんの顔は、心なしかこの前よりも元気…というか生気というものが失せている気がする。
この頃は食欲もしゃべることも少なくなり、彼女の一日の半分は俺の肩に抱きついていることだけだった。
「…私ね、この頃思うんだ」
「何を?」
子供に絵本を読むように、ぽつりと語りかける。
「本当はね、私もうここにはいないんじゃないかって。…これは夢なんじゃないかって」
「真弓さん…」
「坂下君、私本当にここにいるのかな?ここにいるのは、私の夢の欠片なんじゃないのかな…?」
不安をかき消す事ができない今の彼女ができることは、俺の腕を、強く強く抱きしめるだけだった。
「…」
俺は彼女に掴まれている手を、一旦離す。
途端に、捨てられる子猫のような瞳になる彼女。
少し苦笑し、今度は、俺がその腕を取った。
いつか―――。
いつか見たドラマを思い出した。
桜並木でであった少年と、余命一年と宣告された少女の恋物語。
それは、あまりにも酷似していて…その結末はあまりにも悲しすぎるものだった―――。
俺はその手を、病院の窓から見える太陽にかざした。
「あ…」
日差しを受けた彼女の手は赤く光って、そしてまだ暖かかった。
「見えるだろ、お前はまだ生きてるんだ」
そこには彼女がまだしっかりと生きている証拠が残っている。
「…うん」
泣きながら、俺に抱きついてくる。
「坂下君も、あのドラマ見てたんだね」
「…人気あったからな」
「自分がこんなことになるなんて思わなかったよ…」
「俺もだ…」
去年の春に流行ったテレビドラマの、彼女がまだ生きているというのを証明する動作をを繰り返しただけだったが。
俺にはそれ以外、気の利いた事が思いつかなかった。
「私もね、ショートケーキが大好きなんだぁ…」
…。
「あのドラマ、私達の未来を誰かがのぞいて作ったのかもしれないね、それとも、私が坂下君と逢えたのが、誰かが書いた脚本だったのかな」
輝く太陽に目を細めて、まるで今までが遠い昔の事だったかのように答える。
「だからさ、私がね、もし、いなく、なっちゃったら…ショーとケーキ…うぐっ、を、供えて、ひっ…」
でも…これはドラマじゃない、現実なんだ。
こんな状況に追い詰められて普通にセリフを言える人間がどれだけいるだろうか。
少なくとも、俺はその他大勢に入っていた。
「うえ、うぇぇ…坂下、君…っ」
ぽろぽろと両目から涙を流して、しゃっくりが止まらない。
そう、この子は女優でもなんでもない、普通の女の子なんだ。
俺がたまたま、桜道でであった年端のいかない少女だったんだ。
「私っ、死にたくないよぉ…っ!」
「…」
俺も俳優じゃないから、何も言えなかった。
頭の中に脚本はないのだ。
だから、俺にできることは彼女の側にいてやることだけだった。
「…多分、もう会えないと思う」
突然、彼女がそんなことを言い出した。
「私ね、あの桜の花びらにね、恋をしてから死にたい、って願ったんだ。…それが叶っちゃったのかもしれない」
「そんな…バカな、話が、あるか」
「桜の花びらが、なくなっちゃったらもう、願いも消えちゃうよね」
俺も泣いていた。
もう目の奥と喉が熱く、普通にしゃべれそうもない。
「だからね、お別れなんだ」
「なんで、今更になって!そんなこと!」
「だってね、ほら、もう外の桜が全部散っちゃったから」
窓の外の桜の木の花びらは、一枚残らず全て散ってしまっていた。
まるで、それが今まで彼女を支えていたかのように。
――――どさり。
急に力なく肩にもたれてきた彼女は、目をつぶっていた。
「真弓さん…?」
問いかけた返事に、答えは返っては来なかった。
彼女の身体は軽いはずなのに、俺にはとても重く感じられた。
「う、あぁぁぁぁぁ―――――――――!!」
涙が、溢れた。
今年もまた桜が散った。
今ではあの頃を懐かしく感じる。
ゆっくりとタバコに火をつけると、出た白煙はもうもうと空に昇っていった。
このままあいつのところに届くのだろうか。
そんなくだらないことを考えながら俺は傍らのショートケーキを取り出した。
今年もまた春が過ぎていく―――。
「またやってるのか」
再放送のドラマを片目に、買ってきたショートケーキをゆっくりと側に置いた。
俺は『律儀に』ショートケーキを供えに来たのだ。
「今思うと、あの時のあれって凄く恥ずかしかったよな…」
顔が赤くなって、苦笑してしまった。
「まぁ、いいや…ここに来るのも今日で最後、か…」
そう言って、誰もいない病室を見渡した。
「何してるの」
後から声をかけられる。
「久川さん」
「……もう、ここには誰もいないわよ」
「わかってますよ、そんなこと。…ちょっと思い出してただけですよ」
「そう…」
夕暮れ時の風がふわりと、窓のカーテンを持ち上げる。
…その後のテロップを何気無しに見つめてから。
最終回を迎えたドラマを放送終了したテレビの電源を消した。
――――ブツン。
「―――何してるのー?早く行こうよー!」
突然廊下から聞こえてくる場違いな明るい声。
「…坂下君、彼女、呼んでるわよ」
「はい、お世話になりました」
再び、ショートケーキを片手に持ち、俺は廊下に出た。
「あーっ、ショートケーキ!買ってきてくれたの!!」
「…好きだって言ってただろ?」
「うん、まぁね」
…俺は窓の外の、散って地面に落ちた花びらに感謝した。
「穂稀。桜の花びらがなくなったら願いも消える、なんて寝言、言ってたよな」
「あ、あはは…翔太君まだ覚えてたの?」
桜道の風景は、木に咲いている花びらだけではない。
「地面に散っていったのだって、立派な花びらなんだぜ」
傍らで彼女が恥ずかしそうに舌を出して笑った。