雪が雨のように降り注ぐ。
白一色に化粧をかける。
この町は今年もたくさんの雪が降る。
「…」
他所の土地から見れば物珍しいものかもしれないが、地元の人間から見れば雪かきはしなきゃならないし、交通に問題は起こるわで迷惑以外の何者でもない。
でも、俺が雪を嫌いな理由はそれだけじゃなかった。
「はぁ…」
吐いた息は白く、黒い空に混じって消えた。
真っ白な穢れの無い白。
そしていつも自分の心の汚さを見せられるような色の無い色…この町は毎年そんな色に染められる。
街角のショーウィンドに自分の姿が映される。
「ん?」
いつのまにか首に巻いたマフラーに雪がつもっていた。
しかしその雪を払うことなく、鏡に映る自分の姿に積もる雪をただ見ていた。
絶え間なく、と言うのはこのことだろうか、雪は相変わらず黒い空の隙間から際限なく降り続いている。
再び、ほうと吐いた息は白く、灰色の雲にとけるように消えていった。
…いつまでもこうしてるわけには行かない。
これから予備校にいかなくちゃならないんだ。
俺はショーウィンドーから自分の姿を消した。
「…ん?」
不思議な感覚が頭に走った。
「今、誰かと目があった…?」
しかし、振り向いても誰もいない、町の雑踏は相変わらず帰る道を急ぐ人で埋め尽くされている。
「気の、せいか…」
目線を駅前のクリスマスツリーに戻す。
さぁ行こう。
止まっている暇はないんだ。
いつまでも雪に降られては気分が悪くなって…。
悲しくなって、しまう。
SNOW DOWN
あるところに、毎年毎年たくさんの雪が降りつもる町があった。
その町のある少年は雪がとても大好きで、毎年毎年雪を楽しみにしていた。
少年の名前は朝倉雪見。
女の子みたいな名前でしたが、雪見は自分の名前をとっても気に入っていました。
自分の名前に白くて、少し冷たいけど、大好きな雪が入っているからだ。
雪見はこの白い町の住人でした。
・・・地面はすでに白で埋め尽くされていて、今年もまた冬が来て雪が積もる。
冬休みになった学校帰り道、目に入るモノ。
大きな大きなクリスマスツリー。
雪見が生まれた頃から駅の前にあるこの町のシンボル。
もうすぐキリストの誕生日を迎える町はその準備に追われているように見える。
まるで自分の家族の誕生日を迎えるように。
それは町の活性化を上げる目的、もしくは観光客を楽しませるためのオブジェ。
それでもその場所は、幼き少年にとっては大きな大きな大切な場所だった。
さくり、と雪を踏みしめる快感が楽しい。
クリスマスツリーの下は人々の憩いとなる公園になっていて、家族や恋人、老人も皆それぞれの時間を過ごしていた。
さくり。
音を立てて、またその公園の誰も踏んでいない雪を踏んでいく。
くだらないことかもしれないが、朝倉雪見と言う少年にとっては極上の喜びだった。
さくり、さくり。
そして、そびえ立つクリスマスツリーの下に辿り着く。
「…」
ころころと、五個の雪だるま。
同じくらいの年の子供が、フードをかぶって、しゃがみこんでもくもくと雪だるまを作っている。
それでも、違和感があった。
まるで周りの空間から一人はみ出したように、一人で雪だるまを作っていた。
さくり。
「ん?」
雪を踏む音に反応したのか、その子は雪見をゆっくりと見上げた。
「あ…えと…」
白い肌、黒い瞳、どこか人を超越した綺麗さを兼ね備えた、それでも幼い少女。
その子は雪見をじっと見つめた。
驚いたような、信じられないような表情をしながら。
「あ…ご、ごめん」
だから雪見は目をそらした。
「…わたしのこと、見えるの?」
「へ?」
怒っていると思っていた雪見にとっては意外な言葉が返ってきたから、思わず間抜けな返事を返してしまった。
「え、ううん!なんでもない!」
さっきとはうって変わって、年相応の笑顔で優しく微笑んでくる女の子。
「きみ、なんてていうの?」
「ぼく?…ぼくはゆきみだけど…」
「あ…えへへわたしの名前と一緒だね」
そう言って嬉しそうに笑う顔にはつい顔が赤くなる。
「きみは?」
雪見もその子の隣…クリスマスツリーの土台にもたれるようにして座り込んだ。
「わたしはねー雪、ゆ・き」
二度目は呟くように、そして目線をゆきだるまに戻した。
「ほんとだ、ぼくといっしょだね」
雪見も、同じように積もっていた雪を手袋で丸く固めてみる。
「…あ」
しかし、固まらずに雪はぽろぽろと崩れていった。
「うふふ、こうやってするんだよ」
手袋の上から、そっと手を握られると、顔が熱くなっていくのが、自分でもわかった。
そのまま、なすがままに雪を固めていく。
「あ」
「ね♪」
すると、雪玉はまるで魔法をかけたように綺麗に丸く固まってしまった。
「?」
触っても、はらっても雪は隙間無く綺麗に固められていて、崩れ落ちる様子は無い。
「えへへ、すごいでしょ」
正直に凄いと思ったから頷いてしまった。
…悔しくなったので、もう一度雪見は両手に全ての力を込めて握る。
ぼろっ、と指と指の間から雪が逃げていってしまった、どうやら力が強すぎたようだ。
「それじゃ力を入れすぎだよ」
ころころと表情を変える少女。
これは、気のせいか初めて見た気がしなかった、むしろ、毎日見てるような…。
その後も俺の雪だるま作りの苦戦は続き、気がつくとあたりはすっかり暗くなっていた。
「あ、もうこんな時間なんだ、ぼくかえらなくちゃ」
雪見がお母さんが怒った顔を思い浮かべて、背筋に冷たいものが走ったような気がした。
「え…もうかえっちゃうの?」
「うん、ごめんね…」
「あ、明日は?!」
立ち上がると、ズボンのすそを掴まれる。
「明日?べつにぼくは冬休みだから…」
「本当!じゃあ明日も…明日もここにきてくれない!?」
雪見は少し考えた後、少女の方を向いてゆっくりと首を縦に振った。
「ありがとう!絶対だよ!絶対だからね」
念を押すように彼女が確認するの見てから、雪見はゆっくりと家への一歩を踏み出した。
――ふと、空を見上げて、気がついた。
「今日はけっきょくずっと雪がふってたなぁ…」
一度もやむことが無かった…がこの町ではさして珍しいことではない。
そして、思い出した。
「あ、時間は朝から?昼から?」
でも、振り向いた時にはもう少女…雪は姿を消していた。
変な子だな、と思ったが寒さに震え、ストーブの暖かさをもとめて雪見は走り出した。
降りしきる雪は今だやみそうになかった。
寒さで目が覚めた。
「今日も雪が降ってるなぁ」
北国じゃなくてもこの季節、防寒具は必需品。
マフラーを巻いて手袋をはめると、外気温への対策はばっちりだ。
目を向けるとベランダの外は昨日と同じく、雪が降り続いていた。
テレビでは相変わらず天気予報と今日の積雪量のニュースが流れている。
「雪見、外へ遊びにいくの?」
「うん」
別段隠す理由も無いので、雪見は一つ返事を返した。
「ニュースだと、今日も雪が一杯降るって言ってるから気をつけてね」
「はーい」
玄関の時点ですでに足元から冷え込む寒さを感じながら、約束を守るために雪見は凍りつきそうな玄関のノブを回した。
ぼーっとしてれば、肩に雪が積もってくる、ご覧の通り周りの通行人は傘をさしている人もいる。
もっとも雪見は寒いから走ってきたので、雪まみれになったのは顔だけだったが。
「いる、かな…?」
時間がわからないと言う不安こそあったが、クリスマスツリーの下では昨日と同じ場所に満面の笑みの雪がいた。
「来てくれたんだ、雪見君」
手を取り合って二三度、嬉しそうにはねる。
「もう、名前覚えてくれたの?」
「当たり前だよ♪」
嬉しそうに胸の前で手を合わせる。
ねぇ、と彼女が雪見の手を掴んだ。
「今日は行きたいところがあるの、ついてきてくれる?」
雪は雪見の返事も聞かず手を引っ張っていく。
「あ、ちょっと」
小声の反論は雑踏にかき消された。
不思議な事に雪と雪見が通るところは、自然と道が開いていく。
そして、口々に呟いた。
「…あの子は一体何をしてるんだろう」と。
まずは、開いた口がふさがらなかった。
「うわぁ…」
大きな大きな木が、目前にそびえ立つ。
それはあのクリスマスツリーよりも遙かに大きかった。
降りしきる雪が自然のデコレーション。
大木は雪化粧をまとい、時々見える雲の隙間からの日差しによってきらきらと輝いている。
「すごいでしょ、わたしのお気に入りの場所」
「すごい…」
次に喉の奥からは自然にその言葉から出た。
「えへへ、嬉しいな…この場所はわたしのお気に入りの場所なんだ」
「へぇ…」
雪は手のひらを木にあわせる、時折吹く北風が少女の前髪をかきあげた。
そして、しゃがみこんでまた雪だるまを作り出す。
雪見も雪の隣に、腰を下ろした。
「…」
真似をして丸めてみてもやはり、雪見が作ったのはすぐにぼろぼろと崩れていってしまう。
「あはは、昨日教えてあげたのに」
そんなこと言われても、いきなり手を触られたあの時の記憶は全て真っ白になっている。
覚えているのは手袋越しの彼女の冷たい指先だった。
冷たい?
振り向いた雪は素手で雪だるまを作っていた。
「な、なにしてるんだよ!」
「へ?雪だるまを作っているんだよ?」
そんなことじゃない、雪見は少女の手をにぎった。
「わ、わっ」
そして、そのまま息をふきかける。
「うわわわわーっ!」
いきなり飛び跳ねて離れられた。
「な、なにするのっ」
「手袋してなきゃ、寒いよ」
「え…」
もう一度彼女の手に息を吐きかけて、そのままごしごしと手と手をこすり合わせる。
「あったかい…」
少女の冷たくて真っ赤だった手のひらが段々熱を取り戻していく。
雪見は手袋を外して雪につけてあげる…もちろん、手袋の中にカイロを入れて。
「うわ、うわわ!何この手袋」
暖かさに驚いたのか目を丸くして驚く雪。
「魔法の手袋だよ」
カイロと正直に言えばいいのだが、昨日の雪だるまの作り方を教えられたことに妙に意地を張ってしまった。
「でも…」
雪はちらちら、と雪見の手と自分の手…手袋を見比べる、当然だが今度は雪見の手が熱を奪われていく。
「やっぱり、返す――」
いい終わる前に、雪見はジャンバーのポケットに手を突っ込んでいた。
「あ…」
「ぼくはこうしてれば暖かいんだ」
「…ごめんね」
それじゃ次からはちゃんとつけてきてね、何てキザなセリフを思いつくのにはちょっと幼すぎた。
だから。
「謝らなくていいよ」
とそっぽを向いて言い捨てた。
「優しいんだね」
でも、そんな顔でそんなこと言うから。
「そ、そんなことないよ!」
恥ずかしくなって怒ったように、いい捨てた。
感情をどこへ向けたらいいかわからなくなったから、雪見は小さい雪玉を作って地面を転がした。
「?」
「大きいのを作るんだ」
「じゃあわたし頭つくっていい?」
「別にいいけど…」
「よーし!」
ぼくの側で同じように少しづつ大きくなる雪球をころころと地面を転がしていく。
「女の子に負けるもんか」
変なプライドが、やる気になった。
そうすれば、日が暮れる頃には自分の身長ほどもある大きな雪玉を転がしていた。
「はぁはぁ…」
「わ、大きい…」
「す、すごいだろ」
「すごいよー!」
なんだか変なセリフのやり取りだったが素直に驚いてくれたので少し満足した。
「でも、これじゃ頭のせられないね」
雪見が作った胴体の側には、雪が転がした比率的には随分と控えめな頭があった。
「…あ」
そして目線を隣に移すと、大きな胴体のてっぺんを見上げてしまう。
どうがんばっても手が届きそうにない。
「それにもう真っ暗だし、後は明日だね」
「え、あー!」
気がつけば、向こうに見える町並みはぽつぽつと光を灯している。
「お、お母さんに怒られる!」
ごめんね!それじゃ!と叫びながら元来た道をすごい勢いで駆けていく。
振り返れば、大木は雪と夜景で綺麗なイルミネーションのように輝いていた。
クリスマスツリーのように。
「また、今日も雪だ…」
この頃はずっとあの大木の下で毎日雪と遊んでいた。
なんだかあんな子には始めて会った。
じゃんけんすら知らないのだ、昨日は説明に二時間もかかってしまった。
幼い少年にとって何故パー…紙、がグー…石に勝つのを理論的に説明するのは至難の業だった。
結局は勝つから勝つんだ、と無理矢理納得させたのだが…。
それにしても、見ない顔だ。
雪の顔はどこかで見たことがある気がする、とは言っても見覚えが無い。
全員あわしても三十人いるかどうか際どい雪見の学校では、大体全員の顔を見てしまうのに、それでも見覚えが無かった。
山の向こうにはもう一つ学校があるが、もしかしたらそこの女の子かもしれない。
…今日も白い粉が大木には積もっていた。
「あ、雪見くーん!」
いつからか親しく呼ばれている、抵抗がないと言ったら嘘になる、恥ずかしさが顔に出ていた。
「あんまり大きい声で呼ばないでよ、恥ずかしいから…」
「ん、でもきてくれたのが嬉しかったから」
ドキリ、とする。
ここ最近雪見の心はどうかしてしまった。
あの笑顔を見るたびに動悸が激しくなる、心が、苦しい。
「じゃ、じゃあもう来ない!」
顔が熱いのがわかる、不自然にどもってしまった。
「えー、駄目駄目!遊んでよー」
きびすを返すと同時にジャンパーの袖を掴まれる。
目に入った雪の瞳は悲しさと寂しさが入り混じった色をしていた。
…雪見は雪が友達がいないんじゃないか、と思った。
それでなければわざわざ山を越えてまで、最初に会ったときのようにこちらのクリスマスツリーの下で遊んでいないだろう。
「う、うんわかった…」
「ほんと?わーい」
無邪気に喜ぶ雪を見てると、どうにもこうにもドキドキが止まらない。
恥ずかしくなったので、話題を天候にふった。
「また、雪が降ってる」
「そうだね」
「これだけ毎日降るってのも珍しいね」
「うーん、雪見君は雪がきらい?」
「え?」
びっくりした。
普段の雪の顔が消えてまるで、大人のような真剣な、そんな表情だった。
「いや、その…」
少し、子供なりに頭をひねってみる。
「…雪は、きらいじゃない、と思う」
「ほんと!」
「うわぁ!」
下から覗き込まれた少女の顔はいつのまにかいつもの顔に戻っていた。
「雪、きらいじゃないよね!」
「え?うーん…あれ?」
なんだか「雪」と「雪」がまざってしまって、どっちかわからなくなってしまった。
「うふふっ♪」
急に怖いくらいに機嫌がよくなった雪を見て、雪見は幼きながらも男してかならずは一度と行き着く人生の一つの結論に達した。
「女の子って、よくわからないなぁ…」
「わたし、毎日ここに来るからね!一緒に遊ぼう!」
押しの強さには頷くしかない。
「…うん」
段々、おかしいなって思い始めた。
事実、ニュースでも大げさに取り上げられているし、交通にもすごい支障をきたしていた。
『○○町南部一帯に現在豪雪警報。○○高速道路は○○方面が停止、さらに新幹線の方にも影響が出ていて…』
テレビに映る景色はまるで画用紙のように白い。
ときどき車かと思われる黒い影がちらほらと見える。
「…雪見、今日は外へ行くのはやめておいた方が」
部屋に、雪見はいなかった。
「…雪見?…また外に遊びに行っちゃったのかしら…不安だわ」
母親の声は主のいない部屋に小さく響いた。
外は相変わらずすごい雪、むしろ吹雪、といった方が正しいかもしれない。
強い北風が雪を巻き上げながら、雪見にぶつかっていく。
それでも、雪見は駅前を通り過ぎてあの木の下に向かおうとしていた。
もし、この天気で…。
前を向く、いや向く事ができない。
向けば途端に雪と風が顔面を激しく叩きつけるようなひどい天気で。
「もし、雪があの場所にまだ、いたら…」
ありえない考えだった…普通なら絶対に外へと出ようとはしない。
雪見だって、母親の目を忍んで家を抜け出さなければ、絶対に止められていたに違いない。
そうさ、雪だって今頃は家でネコのようにこたつに丸まってみかんでも食べているだろう。
…それでも足は止まらない。
昨日のあの笑顔が忘れられない。
(わたし、毎日ここに来るからね!)
雪見の頭では声がリフレインのように聞こえていた。
まさか、いるはずないだろ、きっと無駄足に終わるんだ。
誰もいなくて、無駄足を踏むだけなんだ、そうだ、きっとそうに違いない。
「…雪見、君?」
――でも、大木の下には、凍える体を温めるように膝を抱えた…。
「えへへ…来てくれるなんて思ってなかったよ」
雪が、いた。
「な、なにやってるんだよ!風邪ひいちゃうよ!」
駆け寄って、マフラーをかけてやった。
フードで隠れなかった前髪があまりの寒さに白く凍り付いている。
「…え、へへ…あったかいなぁ」
かちかち、と歯をならしながらここも凍りついたような顔も無理して笑顔を作る。
今はその笑顔がただただ痛かった。
「わたしは…ここしか、ないから」
「え?!」
「わたしがいられる場所は…君の横しかないから…」
何を言ってるかよくわからない。
ただわかるのはこのままじゃ彼女が危ないという事だけだ、何とかして暖めなければならない。
「とりあえず、どこかに移動しないと!」
いくら大人の胴回りよりも大きい大木の下とはいえ、このままじゃ風の直撃はまぬがれない。
雪見はかぶっていた帽子も、手袋も全て雪に着さしてやった。
「え…?」
「今、ふもとまで連れて行くから!」
雪見は襲い来る寒さに耐えながら雪を背中に背負って来た道を下り始めた。
…しかし。
「あ…れ!?」
道が、ない。
今来たはずの道がない、町へと続く道がない、家へ帰るための道がない。
「え…?え?!」
しばらくうろうろと辺りを詮索してみても、茂りや崖ばかりでどうにも下に降りれるような道はまったくない。
声にならない嗚咽が喉のすぐそこまで来ている、涙も瞳の溝にたまり始めていたが、寒さで凍ってしまったのか、瞬きのたびにぱきり、と軽い音がする。
「ううっ…」
この事態は少年にはあまりにも辛すぎた、感情が爆発するのも無理は無い。
「…や、めて…」
しかし、大声で泣き始める前に背中からひどく小さい声が聞こえた。
「わたしがいたら…帰れないの」
「…ひっ、うっ…え…?」
首にかかる吐息がひどく冷たい。
「わたしは、大丈夫だから、一人で帰って…」
そんなことできるわけない。
その言葉は嗚咽にかき消されてしゃっくりにしかならなかった。
「おねがい…」
ひどく冷たかった背中が急に冷たさをなくす、重みも、一緒に。
「あっ、うあ!」
「わたし、帰るね…今日はもう遊べないみたいだから…」
駄目だ、と差し出した手は彼女の手をにぎることはなく、宙を掴んだ。
「!?」
そのままがくり、と足の感覚がなくなって、顔の半分が冷たくなる。
「ゆ、雪見君!?」
雪見は起き上がれなかった。
長い間極寒の風にさらされていたため、寒さは幼い体の体力を完全に奪っていた。
「…あ」
恐怖が頭をよぎる、死という一文字が流れていく。
「雪見君!!」
目の前の少女も身動きができないようだった。
「雪なんて、大嫌いだ…!」
体に積もっていく白い悪魔を睨むと、意識も雪にうずもれていった。
「ごめんなさい…………!!!」
女の子のつぶやきが聞こえた気がした。
目覚めたら、見慣れた天井が見えた。
部屋のすみの一杯になったおもちゃ箱も、青いカーテンも本棚も全て雪見のものだった。
「あっ!」
飛び起きると、おなかに何かが落ちた。
「…タオル?」
ぬるくなった塗れタオルが額から落ちたようだ。
きょろきょろと周りを見渡してもやはり雪見の部屋で、天国にはどうも見えない。
…急にふらふらとして、上半身は再びベッドに倒してしまった。
頭に軽い痛みが走る、体の節々にも。
「僕…どうなったんだろう」
毛布のぬくもりは恐怖心を吹き飛ばしてくれたようだ、心も温かい。
あの白い冷たさも、すでに体からは無い。
「そうだ…雪…」
言う事を聞かない体にむちをうってカーテンを開ける。
「…!!」
四角い窓の外は雪に支配されていた。
まるで荒れ狂う龍のように、行き場の無い怒りをかかえた吹雪はあらゆるものを白く凍りつかせている。
「雪見、起きたの?」
どうやら、カーテンの音で母親が雪見に気づいたようだ。
「…お母さん」
「もう、心配したんだから…」
「僕どうして家に?」
「どうして?って雪見、勝手に家に帰ってきてベッドに寝てたじゃない」
…?
「それで様子がおかしかったから、熱を測ってみたら、雪見風邪引いてたのよ」
…勝手に家に帰ってきた?
「そ、そう…」
「もう、しばらくは外に行っちゃ駄目よ、大人しく寝てなさい」
そう言ってタオルを変えた母親は出て行った。
「…勝手に家に?」
もう一度疑問を口に出して確かめてみる。
確かに雪見はあの豪雪の中、大木の下で倒れたはずだ。
「…そうだ、雪!」
体を起こすと痛みが体を襲う。
凍傷ではないが筋肉痛のような感じだ。
「…くそっ」
一体あの後、雪はどうなったんだろう…無事なのかな、と雪見は思う。
確かめたい。が、悔しいが今の雪見には外出する体力はなかった。
閉じたくないのに、まぶたの力が抜けていく。
視界が少しずつ消えていって、目を閉じてしまう。
枕に頭がうずまってしまうと、眠気で何も考えられなくなった…。
次の日、豪雪警報まで出ていたのに。
まるで今までの雪が幻だったように。
跡形もなく雪は消えてしまった。
そして、雪の姿も…まるで雪が溶けるように消えてしまった。
冬休みも終わりの日。
あれ以来、なんのニュースもきかないので、雪は無事らしいが…。
しかし、雪が二度と姿を現すことは無かった。
それ以前に、あの大木は…。
「…」
積もっていたのが嘘のように、溶けて水溜りになってしまった雪を飛び越えて歩いていく。
風邪も治り、復活といえば大げさとなるが、雪見は外出を許された。
すぐさま、あの雪と遊んだ大木の下へとむかった。
今日で冬休みも終わる、今日を逃してしまえばもう二度と雪にあえない、そんな気がする。
不安を表すように足は前へ前へとせかされて、心はすでにあの場所についていた。
「雪…」
来てるのだろうか。
例え風邪で倒れていたとはしても、雪見はあれ以来ずっとあそこには行っていない。
雪も無事だとしても風邪を引いたかもしれない、あの大木の下にはいないのかもしれない。
それでも、あの場所に行けば雪に会える。
会えるんだ。
そう信じるしかない。
なんで、雪に会いたいんだ。
歩きから走りに変わった少年の心が震えていたのは、決して疲れのせいだけだからではない。
――僕は雪のことが……だ。
まだ言葉が足りない少年の心にその言葉は浮かばなかったが、強い気持ちには変わらない。
ココロは人の気持ちを動かしていく。
見えてくるのは山の頂、自然と足が速くなる。
もうすぐ、あの大木のてっぺんが見えてくるはずだ。
手を振って、あの場所へと駆け出した。
そして、雪見は目的地に到着した。
「雪!」
そこにあったのは、半分から上を切り取られた…。
――無残な大木だけだった。
「な…………」
口からは絶望の言葉しか出ない。
自分とあの少女を結ぶ唯一の接点だった、シンボルが変わり果てた姿になっていた。
「嘘だ!」
『大木だった物』に手を当てて、感触を確かめてみる。
「…嘘だ」
ざらついた感触が、ただココロを痛めるだけだった。
恐れるように後ずさりして、大木の全景を眺める。
ちょうど、真ん中の辺りからすっぱりと綺麗になくなっていた。
「…?」
大木だった物の頂上、大木だった物の切り取られた場所。
もしかしたら、もしかしたら。
「…お母さん!」
雪見は家に帰るために走り出した。
「お母さん!」
チャイムを押しもせずにドアを開く。
「あら、雪見もう帰ってきたの?」
「聞きたいんだ!」
尋常じゃない様子の雪見に驚いたのか、母親は真面目な顔になった。
「どうしたの?」
「あの、向こうに山があるよね」
北の方を指差し、答えを詰め寄る。
「うん」
「あそこって、商店街のクリスマスツリーより大きな木があるよね!!」
「え…?」
首を縦に振って欲しかった。
「そうよ」と優しい声で言って欲しかった。
しかし、無情にも返ってきた言葉は否定のものだった。
「そんな木ないわよ…?」
「…え?!」
しかし、母親は少し思案した後、言った。
「あ、待って」
希望の光の一筋が見えた。
その先に続く言葉を必死に待った。
「確か…あったわよね」
雪見はその言葉を聴いた瞬間に走り出した。
さっきの木は間違いだったのだ、そう、違う木だったのだ。
「ま、待ちなさい雪見!」
「何?!」
「でも…あの木は何年も前に切られたはずよね」
振り向かなかった。
振り向かずに走り出した。
「あ、雪見!どこ行くの!?」
自分とあの少女を結ぶ唯一の接点へ。
「はぁ、はぁ…」
息も荒く、肩も上下していた。
そのまま、根元に腰を下ろす。
目をつぶると、雪との思い出が蘇ってくる。
…わずか数日だったのに、思い出しきれないほどの思い出ができていた。
何なんだろう、この不思議な気持ちは。
不安じゃない焦燥、あの子、考えるだけで鼓動、早くなる。
消えない、笑顔、声、ぬくもり、思い出す、反芻する。
そして、あの子とすごした全ての時間、回りをつつんでいたもの。
「…何してるの?」
銀色の粉雪が、舞い踊った。
「…雪」
『雪』が、『雪』が、そこにあった。
「大嫌いなんだよね、雪」
悲しそうに、うつむいた。
「倒れちゃったもんね…大丈夫?」
何もいえなかった。
「ごめんね…わたしのせいだよね…」
「違うよ」
「いつも、降ってるよね雪…」
雪見の否定を無視して、雪は粉雪の中を踊り子のようにくるり、と回った。
「なんで、こうなっちゃうんだろうね」
「わたしがこっちで遊ぶと、いつもこうなっちゃうんだ」
「すごい迷惑かけてるよね、わたしは遊びたいだけなのに」
「雪…?」
「わたしも雪見君と同じ、雪なんて嫌いなんだ、大嫌い」
地面に積もり始めた雪を、集めて放り投げた。
「でも…駄目なんだ」
そう言って、笑顔で笑った。
悲しいくらい、泣き笑いだった。
全てを諦めて、自嘲するように、呟いて。
「わたしがいるといつも雪が降るんだもん」
そんな、当たり前の答え、待ってたわけじゃない。
「降るんだもん…………」
ぱたっ、と水滴が彼女の瞳から落ちた。
「でもね…」
「え?」
「ちょっとね、寂しかったんだ。それで、降りてきたら君に見つかっちゃった」
「…」
「びっくりしたよ、誰にも見えないはずなのに、どうして見えたのかわからなかったもん」
ゆっくりと、降雪量がましてくる。
「浮かれちゃって、調子に乗って、君と一緒にいたいなって思っちゃったんだ」
「もういられないの…ごめんね」
「ゆっ、雪ちゃ―――!!」
…雪が、やんだ。
胸の痛みは病まない。
初めて気づいたんだ。
『好き』という気持ちに。
「…そうか」
俺が雪を嫌いな理由を思い返すのはこれで何年目だろう。
なんてくだらないことなんだろう、いつまで悩んでるんだ。
一体何年たってるんだ、子供時代のふとした思い出じゃないか。
見上げれば、あのクリスマスツリーがそびえ立っている。
この木はあの頃と何も変わりはしない。
人の流れからはみだしたように俺はクリスマスツリーに近寄っていく。
…何も変わらない、と言ったが、少しあの頃よりは小さくなった気がした。
「一つ、聞いていいか?」
「うん」
「このクリスマスツリー、あの木なんだろ」
「うん」
「俺が生まれた日に、この町のシンボルにするために切られて、ここに植えられたんだ」
「…わたし戸惑ってたんだ、不思議な気持ちだった」
「そうだよな、引っ越してきたようなもんだもんな」
「気持ちが揺れたから、色々と狂わしちゃったんだ」
「知ってるか、この木がここに来たの今日なんだってよ」
俺はクリスマスツリーから目線を根元に向かわせた。
「いるんだろ…ハッピーバースデイだな」
「…わたしね、本当は雪が大好きなの」
「知ってるよ」
「雪見君も、大好きだった…」
姿形はみえないが泣いているのだろう、声でわかる。
「わたしはね、この木に宿った人の思いなんだ…すごくすごく昔からあの木は神木として人々にあがめられてきた」
「そして何年もの間わたしは生き物の夢や希望、願いを願われて生きてきた…いつからか思いだけが意識を持ち、わたしはこの木になっていた」
「…でも、木が切られた時、切り口からわたし…気持ちだけが飛び出してしまった」
「飛び出した気持ちは、形を成して一人の男の子に出会った…気持ちは恋をした、気持ちは男の子と毎日遊んだ、楽しかった、このまま時間が永遠に続けばいいと思った…」
「でも…それは叶わない願い、世界はわたしを受け入れられるわけがなく、この町は『わたしという存在』を拒み始めた」
いつのまにか、頭上の雲は厚みを増し、かすかだった月の光さえも届かなくなった。
そして、しんしんと雪が降り注ぐ。
「…ね、やっぱり雪が降ってきたよ…」
クリスマスツリーの裏から、あの日と変わらない、フードをかぶった雪が姿を現した。
「この雪、本当にお前のせいだったんだ」
「…この町の天気が変わるのはわたしが『考えてる』からなんだよ」
嬉しそうに笑ってみせる、随分と小さくなった彼女は俺を下から見上げていた。
「えへへ…雪見君かっこよくなったね」
「お前が変わらないだけだろ」
しゃがみこんで、目線をあわしてやる。
「そうだね…」
「そうだよ…」
そのまま二人目線を交わす。
「…やっぱり、初恋って叶わないんだね…」
寂しそうにうつむいて、その姿が愛しくて抱きしめていた。
「…」
「雪見君…!!いやだよ!どうして!どうして駄目なの!?わたし、誰かを好きになってもどうしようもないんだよ!」
「雪…!」
「…おかしいよそんなの!なんで!?どうして!?心なんかいらない!気持ちなんて生まれなければこんなに苦しむ事も無かった!」
「雪!!」
「…」
「人間だって同じさ、叶わない恋もある。それでもそいつが好きだってことや、忘れられない事もある」
「雪見君…」
流した涙は頬をぬらしていた。
「でも、それでも、気持ちは恋をするんだ、仕方ない」
「…残酷すぎるよ、そんなの!」
「…そうだな」
雪は勢いを増し、風が吹雪となり、二人を襲う。
「…やっぱり、駄目だね。わたしがこうやって雪見君のことを思えば思うほど雪は降ってくるんだ」
「いいじゃないか、思えよ」
「…雪見君一回死にかけたんだよ」
「関係ないだろ…!」
強く、強く抱きしめる程に、白さは激しさを増していく。
「駄目だよ!」
ついに、視界で捉えられるのは雪と雪だけになった。
「駄目だよ雪見君!離して!雪見君死んじゃうよ!」
「いいさ、別に、お前を抱きしめて死ねるなら本望だ」
耳鳴りがしてきた、風の音はノイズを越えてミュートになっていく。
ほとんど、雪の声も聞こえなくなってきた。
「離…て!離してゆ…く…!」
「雪は…大嫌いだけど…雪は大好きだった」
「…駄目―――っ………!!」
…視界が『雪』だけになった。
「あ…」
「…!」
雪が、まるで雪のような結晶となっていく。
「…わたし、もう駄目みたい」
「え…?」
「もう、これ以上雪見君を苦しめたくないから」
「な、何言ってるんだよ」
「二回目だけど、ごめんね」
「雪?」
「さよなら…」
「おい雪!雪!」
「恋をしたのに、叶わないの。普通の女の子なら良かったの」
「どうして私、普通の女の子に生まれてこなかったのかな?」
落ちた雫は地面に落ちることなく…雪の結晶となって消えた。
「おい!雪!?雪――っ!!」
結晶は地面に降り積もった雪と同化してわからなくなった。
その日以来、その町が豪雪に見舞われる回数は極端に少なくなった。
季節は巡る。
うららかな春の午後にどんよりとした気分。
「大学落ちちゃったよ…」
掲示板に俺の番号は無かった…せっかくの予備校通いも無駄となったということだ。
「…はぁーあ」
でも、明日からはまた惰眠をむさぼれるというものだ。
早速、ベッドに上になる。
「……」
帰りに見たクリスマスツリーを思い出した。
皮肉な事に、春になって木は山に戻される事となってしまった。
できるなら、あいつにこの光景を見せてやりたかった。
「ふわぁ…」
感傷に浸る暇もなくあくびが喉から飛び出した。
ピンポーン。
…と、うとうとしていた時に耳を甲高い音が抜けていった。
「はい、はーい、今行きます」
ガチャリ、とノブを回す。
「お届けものです」
そう言って、お届けられた謎の箱。
「差出人が市役所?…なんだろう」
親のかと思ったが、受け取り先が俺の名前になっている。
ガムテープを破いて、中身を取り出すと小さな手紙が入っていた。
「ええ…この度は商店街のクリスマスツリー撤去により…ってなんだこりゃ?」
下に入っていたのは、ふるぼけた手袋だった。
「…あ!」
見覚えがある。
『うわ、うわわ!何この手袋』
『魔法の手袋だよ』
そう、土で汚れきった小さな小さな、あの時の『魔法の手袋』だった。
「どうして…」
とさり、と手袋から何か出てきた。
「カイロ?」
古ぼけて、暖かくもなんともないカイロ…『魔法のタネ』がフローリングの床に転がる。
手にとって、裏返すと何か書いてある。
『雪見君へ…これ返します。もうわたし十分暖かいから…。直接渡すのが恥ずかしいから埋めておきました、ごめんねっ。』
「…聞いてないしさ」
目の奥が熱い、鼻の奥も痛い。
「もう、暖かいから、いらないよ、こんなの」
泣きそうだった。
「畜生!あの馬鹿、こんなこと思い出させやがって!」
俺は走り出した、あの山へと。
そこには、あのクリスマスツリーがそのまま植えられていた。
「…戻ったか、良かったなぁ」
もう、あいつの声が聞こえるわけじゃないのに、独り言のように呟いていた。
「お前、俺に手袋渡すの忘れてるよ」
静寂だけが周りをつつんでいる。
「いらないから、返しに来た」
俺の声だけが、山中に響いた。
「また、冬になったらつけるといい」
捨て忘れた、冬の忘れ物を手袋の中に入れる。
「魔法はちゃんと、かけておいたからさ」
…。
大木の根元に手袋を埋めた。
「…それじゃ、帰るからな」
苦笑してしまう、木に話しかけてるなんて周りから見ればただの変人だ。
「いーんだよ、ただの木じゃなかったからな」
勝手に心に決着をつけて、歩き出す。
「やっぱ、初恋って叶わないんだよな」
街の向こうには青い空が広がっている。
春らしい陽気に小鳥のさえずり、はらはらと手に落ちてきた一粒の雪。
「…雪!?」
手のひらに舞い落ちたたった一粒の白い欠片。
それはまるで雪が残した初恋の気持ちの形だったのかもしれない。
振り返っても、大木は風に揺れているだけだった。
「まさか、な」
雪は春の陽気ですぐに溶けてしまった。
それが『雪』だったのか、『雪の気持ち』だったのかを確かめるすべは、俺にはなかった。
そんな、雪の降る頃の話。