ある降順という男が、国の文官に採用された時、こんな話をしたと言う。




時は昔。

唐という国があった頃。

場所は中国の河東郡。

自然豊かな緑色は山間に阻まれた小さな村に、ある男がいた。

名前を魯進と言う。

魯進は決して裕福な者ではない、家はそれはもう風が吹けば倒れ、雨が降れば流れてしまうほど小さく、みすぼらしい家だった。

その上魯進はしかも親はもう二年前になくしていた。

だが魯進はそんな不遇も気にせず立派に生活している、村の人たちに助けられながら、晴耕雨読の日々を過ごしていた。

その名の通り晴れれば畑を耕し、雨が降れば読書にふける…あまりにも男にしては大志を抱かない者だと馬鹿にされる事もあった。

だが、魯進は決してそれを気に病む事は無かった、それどころか人々を助けたりする優しい人物だった、魯進は寛大だった。

村の人々は魯進を体は貧しくとも、心は豊かだ、と褒め称えた。




ある日、魯進が都市へ耕作物を売りに行った帰り、村に続く道で男が倒れていた。

それは雨が強い日だった、この辺りは川の増水が激しい、このままこの男をここにおいていってしまえば、男はおそらく増水で流されてしまうだろう。

魯進は男を放っておくわけにはいかない、と男を肩に担ぎ、全身を雨に濡らされながらも、なんとか自分の家に連れ込んだ。

大きな男だったので予想以上に運ぶのに苦労した、魯進は肩で息をしていた。

とりあえず呼吸を整えた後、男の身なりを確認する。

そして自分とは随分服装が違う事に気づいた。

立派な靴と服、頭につけた帽子は身分の高いことを示す。

勅使(地方公務員)か、県尉(警察)の人だろうか、少なくとも裸足に衣を着ただけの農民の自分とは違う世界で生きている人だ、そう魯進は思った。

とりあえず、目覚めるのを待つしかない。

魯進は蝋燭の光を灯して詩経を読み始めた。

詩経と言うのは、中国古代の詩集。

以前村の村長が写し取ったものを写させてもらったものだ、もう何度も何度も読み返している、内容は頭に入っている。

温故知新とはいうもの、昔の人は素晴らしい言葉を書いたものだ。




夜も更け、雨も病み、東の空が黄昏た頃に男は目を覚ました。

小さく呻いた後、声を上げて飛び上がった。

しばらくの沈黙の後自分の衣服をまさぐる、そうしてようやく安堵の表情を浮かべた。

そして次は自分の状況に疑問を抱いた。

魯進は男に、大丈夫ですか、と声をかけた。

男は言った「ここはどこだ、そして貴方は誰ですか」と。

魯進は相手を安心させる為ににっこりと笑うと、場所を説明した。

「仲秋村…?そんな名前聞いたことも無い」

思ったより男は若かった、まだ髭も立派には生えておらず魯進と同じ、二十から二十五くらいの歳だろうか。

目の下の大きなほくろが印象的な男だ。

男は憮然とした表情で眉をしかめる、魯進は大きな場所でのこの村の場所を詳しく教えた。

「…河東郡の西側だと?平陽ではないのか?」

平陽はここからさらに北にある土地、おそらくこの男は道に迷ったのだろう。

ただでさえここらは山間に囲まれている、目標や標しとなるようなものは少ない。

しかも昨夜は雨が激しく白い霧も出ていたぐらいだ。

男が迷うのも、無理ないだろう。

「くっ」

男は急に立ち上がって、出口は出て行った。

魯進は声をかけて男の足を止める。

男は振り返って、なんだ、と聞き返した。

魯進は言う。

「まだ朝日が完全に昇っていません。今外に出ると、朝霧がすごく視界が不明瞭です」

迷いますよ、と魯進は忠告をした。

男は昨夜の雨で出来た方の霧を思い出したのか、体を震わして入り口の所に腰をおろした。

「…とんだ災難だ」

「まぁ、そう言わずに旅の方、喉でも潤していけばどうですか?」

魯進は甕に入った山から組んできた水を竹を割ったものに入れて男に渡した。

「…む…悪いな」

少し考えていたが、喉が渇いていたのか男はすぐにそれを飲み干した。

その後で顔を青くする。

「ま、まさか毒などは入っていないだろうな」

腰に携えていた剣に手をかけて魯進を睨む。

「いえいえ、大丈夫です。それは山から組んできた天然の水ですよ」

「…」

なんともないでしょう、と言って魯進は微笑を浮かべた。

とんだ優男だな、と男は剣にかけていた手をゆっくりおろした。

「いずれ山賊に騙されるぞ」

山賊?随分と久しぶりに聞いた言葉だった。

「なんだ、この辺りでは出ていないのか?」

男は怪訝そうな顔をしながら言う。

この村は別段裕福な人もいないし、大体入ってくるまでが辛い。

山で迷いもしなければ、普通は入ろうとも思わないような辺境の地だ。

それでも魯進たちが住んでいるのは、この土地が潤っているからだった。

「確かに、食料以外な何もなさそうだ」

嫌味そうに男は言った、高圧的な態度から見てもやはり位の高い人物なのだろう。

山賊はどこに出るのですか、と魯進は聞いた。

「都だよ。今、都は荒れてるんだ」

男によると、政治の汚職や信仰一揆、度重なる日照りや水不足による不作が続いているそうだ。

「今の官僚に逆らっている奴らは言っている事は立派だが、やってることは盗賊と変わりない。お前も気をつけることだな」

魯進は先ほど男に渡した水を自分も飲み干した。

と。

また外にしとしと雨が降り出し、霧が出だした。

先ほどまで晴れていた太陽もすでに姿をくらましつつある。

「また降ってきましたね」

魯進がそうもらすと、男は大いに驚いた。

「私にはしなければならないことがあるのだ!」

「しなければならないこと、ですか?」

「そうだ」

そう言って男は綺麗な玉を取り出した。

「なんですかそれは」

「かつては国宝と歌われた皇玉だ。もっとも今はこのように汚らしいものだがな」

話によれば、玉は以前の中国の王者「漢」の時代のもので、当時は帝の部屋に飾られていたほどの宝物であるらしい。

自分の先祖は帝に使えていた宦官(大臣のようなもの)であり、功績の高さゆえその玉を授けられ、この玉はそれ以来家宝であったという。

男は将来を約束された身だったらしかったが、もっと上の身分に憧れ、こうして玉を綺麗に磨き上げる事を決意したと言う。

「今は汚れて誰も信用しないが、この玉は磨けば…高値で売れる」

売る?

その単語に魯進は疑問を覚えた。

「家宝を売るのですか?」

男は驚いたように頷いた。

「当然だ」

「何故ですか?」

「金に換えるのさ。そして兵を雇う。…そうすれば再び我が一族が政治に関わる政職へ復帰する事が出来る」

「祖先の人々が大切にしてきた家宝を、そう簡単に売り飛ばすのですか?」

「それで一族が再興すれば祖父たちも喜ぶだろう」

男は高々に笑った。

気づけば外はすでに霧が晴れていた。

「…私はもう行くぞ」

男は言葉少なに、魯進の家を出て行った。






それから随分の時がたった。

魯進は相変わらず晴耕雨読の日々を続けていた。

周囲の人はまだ魯進のことを馬鹿にしていたが、その内その声も消えた。

なぜなら魯進はなにがあろうと、晴耕雨読を続けた事だ。

どれだけ晴れの日が続こうが、雨の日が続こうが、体調が悪かろうが、理由があろうが魯進は自分の生活を変えることは無かった。

人々の魯進を見る目が徐々に変わっていっていた。





魯進はいつものように、できた農作物を都に持っていって売ろうと籠を背中に背負い、都に向けて歩き出した。




都は随分と廃れていて、人々の流れも驚くほど少なかった。

そういえば以前都が荒れている、と言っていた旅の男がいたな、と思い出した。

だが魯進は人がいようがいまいが、変わることなく農作物を広げ、商売を続けていた。

しかし、結果は芳しくなく日は暮れる、今日はもう帰ろうとしたときだった。

黒い風のような獣のような物体が青に代わり闇に溶け込みつつある空とともに魯進の前に現れた。

魯進は思わず、獰猛な虎、と思い込み身構え、怖さから目を閉じた。

だが獣は魯進の農作物をとっただけで魯進は危害を加えようとはしなかった。

何も無い、と魯進が疑問に思いおそるおそる目を開けると。

目の前にはみすぼらしい一人の男がいた。

「…貴方は」

見覚えがあった。

そう、魯進の村に行き倒れていた男だ。

服装もぼろぼろで、顔も無精髭だらけで判別はつかなかったが、特徴のある目の下のほくろが確かに彼であることを示していた。

「以前お会いしましたよね」

魯進は自ら作った農作物にかぶりつく男に話しかけた。

男は魯進の顔を見上げて、腰を抜かした。

「お、お前は」

「お久しぶりです、以前霧の日にあった男です、覚えていますか」

男は黙って目を伏せた。

「玉を磨きに、とおっしゃってましたが、その後どうなりました?」

「…」

男は冷めた目で魯進に一瞥をくれると、そのままゆっくりと口を開いた。

「偽者だったんだよ。とんだ笑い話だ」

「…偽者?」

男の話によると、あの宝物は偽者であったらしい、ということだ。

山を越え谷を越え、たどり着いた研磨仕のもとでそれを磨くと、いとも簡単に傷がつき、それがガラス球に色を塗ったものだと判明したそうだ。

そして男は家から勝手にその玉を持ち出したので、家にも申し訳なくて帰れない。

それを知った瞬間、男は絶望した、と言う。

「…今じゃ俺が山賊だ。俺はあの宝物に全てをかけていた、今更家にも帰ることは出来ない」

とんだ無駄骨だった、と男は泣き始めた。

「そんなことはありません」

魯進はゆっくりと諭すように喋り出した。

「私がずっと読んでいる詩経にこんな話があります」

切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如く。

つまり、もう完成した細工品をさらに磨き、質をあげていくことにより、自らを高めると言う。

「玉は、玉ではありませんでしたが、玉は貴方をきっと磨いてくれたはずです」

「…玉が俺を?」

「ええ、貴方のそのぼろぼろの姿。長い間苦労したのでしょう?」

「ああ…普段は縁の無い下賎の民どもともたくさん話した、盗賊とも手を組んだ」

魯進は頷いた。

「貴方がもし玉を持ち出し、磨こうと旅に出なければ、それを知る事もなかったでしょう」

「どういうことだ?」

「上に立つものは下のものを知って始めて正しい政治をうちたてることができるのです。もし貴方が今の状態にならずに政治家になっていたならば、あなたはきっと良くない政治しかしなかったでしょう」

男は押し黙った。

「もう一度やり直しなさい、下のものの苦労がわかった貴方はきっといい政治家になれますよ」

「…」

「玉が、貴方を磨いて、切磋琢磨してくれたのです」

「…なんなんだ、お前は。ただの農民じゃないのか」

「はい、ただの農民、魯進です」

男はその後、家に帰り勉強をやり直して、国家試験を受け、見事に合格。

見事、中央官制の大臣三省のうちの一つ、門下省という職業につけるようになった。

後に、その男は自分を育ててくれた、切磋琢磨してくれた存在が二つあると歴史書に残している。

それが、あの偽者の宝物と、魯進という存在だと言う話である。








降順は言う。

「私は実際に魯進の子孫に会い、その話を聞きました。そして貴殿が政治家を目指すならば下の民の気持ちを考えろと言われました。私は下の人の生活を勉強してきました、私に任せれば、国は安泰するでしょう」

降順は見事、国の文官に採用されたと言う。



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