※この作品はフィクションです。実際の人物・団体・事件などには、一切関係ありません。

























まだ、負けたくない。

もう出ない大声を無理矢理出す。

両手を三角に作って、それを拡声器の代わりに使う。

狭い狭いベンチという空間から、広いグラウンドに目を向ける。

もう夜の帳が落ちた阪神甲子園球場を、外野スタンドの照明灯が白く明るく照らす。

大きな声が鼓膜を鳴らす、揺らす、響かす。

アルプススタンドからは命が尽きんばかりにノイズを張り上がる。

夏の高校野球全国大会、大会三日目の第四試合、九回裏、二死、満塁。

二点差で、リードされていた。

背番号15を背負った俺は、控えとして必死にのどを枯らす。

まだ、負けたくない。

皆で頑張ってここまで来た、比喩ではなく本当に血ヘドを吐くほどに練習してきた。

私立校でも、スポーツが強いわけでもない。

ただ頑張って、頑張って、県大会を地道に勝ち進んでここまで来たんだ。

俺は決してグラウンドで一緒に戦ってはいないけど、気持ちは皆と一緒だ。

まだ、負けたくない。

ベースについている走者も、バッターボックスにいる打者も控えもスタンドも、気持ちは一つだった。

『マウンド上、帝王実業高校のエース山口、カウント2-2と、追い込んで、第六球』

マウンドの投手がゆっくりと足をあげて、右腕を振り下ろす。

その瞬間はひどく、スローモーションに見えた。

俺は目をつぶって下を向いた。

なんでもいいからバットに当たれば、願う。

打った音が聞こえるように、願う。






―――だけど、待ち続けた軽快な金属音は、いくら待っても聞こえることはなかった。




ここで、俺達の物語は終わりを告げた。

これは、それからの話。





大きな歓声。

目を開けると相手の投手と捕手が、整列に向かっていた。

自分も呆然としたままベンチを出て仲間に加わる、全員が揃うと両校が頭を下げた。

球場全体に、校歌が響き渡る。

その歌が、自分の高校のものじゃなかったことに気づいて、始めて負けた実感がほんの少しだけ、都会の空に光る星くらいわずかに、わいた。

ああ、負けた。

すごくそれは簡単な三文字だったけど、ちゃんと捉えるには曖昧な感情だった。

校歌が終わって、俺達はアルプススタンドに向けて走り出す。

ここまで、九回まで、最後まで応援してくれた人たちに、最大の感謝を込めて頭を下げた。

「ありがとうございましたっ」

誠心誠意だった。

見上げると、前列の野球部員も真ん中の列の生徒も、後列のOB達も拍手をしてくれた。

それが嬉しくて情けなくて、俺はうつむいてしまった。

重い足取りでベンチへ戻る、仲間は皆さばさばした表情。

しゃがみこんで、甲子園の土を自分が持ってきた袋につめていく。

誰も泣いてなかった。

何か、夢でも見てるようなそんな表情で荷物をまとめていた。







それから後はそんなに覚えてない。

皆無言のままベンチを出て、インタビューに答える監督を廊下で待つ。

その間が、やけに長く、長く、まるで時が止まったように長く感じられた。

そして何故か微笑みながら監督が帰ってくると、皆軽く頭を下げた。

監督は頷くと、やっぱり何も言わないでバスへ乗り込んだ。

その間、誰かが何かを話してたかもしれないけど、俺は覚えてなかった。

こらえた涙が体の内側にしみこんで、頭まで冷やして、冷やしすぎて凍らせたような。

とにかく、皆と一緒に俺も呆然とバスを降りて宿舎の民宿に向かったんだ。

バスを降りると、店の人全員が帰宅を待ってくれていた。

女将さんの、お疲れ様でした、という言葉がなんだか暖かくて、優しくて、そこでまたこらえていた涙が目の奥にたまって、鼻が痛くなった。

すぐに荷物を置いて、大部屋でユニフォームのままミーティングを始めた。

ようやくものを考えれるくらいまで落ち着いた俺は、周りを見渡した。

良く見れば、皆目が赤かった、さばさばした表情に見えたのは錯覚だったのか。

今、優しい言葉をかけられると一斉に洪水が堤防から溢れそうな雰囲気があった。

「皆、お疲れだった、崩していい」

監督にいつもの厳しい表情はなかった。

軽く右手を上げて、皆をリラックスさせる動作をする。

「…」

部員で声を発する者はいなかった。

皆が下をむいてうつむいている。

「顔を上げろ、お前ら」

その言葉でようやく仲間が顔を上げた、一部は目の端に涙をためていた。

「…うん、お前らはよくやったよ、負けたからって恥じる事は無い」

…。

「物事には勝負がつきものだ、だが俺はそんなことよりも、お前らがここまで来れた。ということの方が大事な気がする」

軽く、誰かのしゃっくりの音が聞こえた。

「お前らは普通の生徒だ。別に推薦でもなんでもない、普通の高校生が、普通の高校に集まって、頑張って全国大会まで来たんだ、すごいことだ。…なぁ、俺は、お前らとこうやってな、甲子園の土を踏めた事がすごく嬉しい。…嬉しいんだ、すごくな」

監督の声もふるえていた。

ぶれて聞こえるのは、きっと泣くのを我慢しているかもしれない。

監督はいつも言っていた、男は人のいない所で泣け、と。

だから皆どれだけ練習が厳しくても、決して練習中に弱音を上げることはなかった。

「…お前らはすごい。胸を張れ…胸を張って、帰れ。以上だ」

最後の方を早口できりあげると、監督は足早に大部屋を去っていった。

監督も最後まで涙を見せることはなかった。

だから俺達も誰も泣かなかった。

皿に入った水をこぼさないように、歯を食いしばって上を向いた、それでも歯はがちがちと鳴る度に、欠片が服に薄い薄いしみを作った。

…口の端が、何故かずっと震えていた。





夜。

皆それからは明るかった。

大騒ぎしながら夕食をとって、テレビを見て、風呂に入って。

枕を投げ合った。

貸切だったから誰も文句は言わなかったけど、監督には怒られた。

でもいつもみたいに厳しくなかった。

監督も含めて全員わかってたんだ。

こうやってこのメンバーで馬鹿みたいに騒げるのがこれが最後で。

楽しく笑ってないと、泣いてしまうことが。





つかれきった体に逆らえず、一人、一人と眠りに落ちていく。

だけど、俺はただ目が冴えて起きていた。

試合に出ていないこともあるのだろうが、あのスタンドの地鳴りと低音が耳に残っていて興奮が収まらなかった。

皆を起こさないように、布団と布団の隙間をぬってゆっくりと部屋を出た。

…外に出ると、夏なのにやけにひんやりとした風が体をなでる。

興奮した体を冷ますには、ちょうどいい、と思った。

浴衣を引きずらないように歩いて、駐車場の奥まで歩く。

六甲の山の傾斜にあるこの民宿は高度が結構ある、だから駐車場端の手すりからは兵庫県を一度に眺めることができた。

「…」

ゆっくりと息をついた。

住宅街の明かりは消え、高層マンションの廊下の蛍光灯や、繁華街のネオンだけが眠らない町を示すように光る。

阪神甲子園球場を探すも、もう光が消えているのか、はたまた方向が違うのか見つけることはできなかった。

もう、見つけることもできないんだな、って…。

「お、皆口か」

暗闇の向こうから、自分の名前が呼ばれる。

ぺたぺた、とスリッパのマヌケな音をたてながら坊主頭の男が近づいてきた。

「阿畑」

こちらが向こうの名前を予想して呼ぶと、早足でかけよってきた。

男、阿畑はうちの三年生エース、もちろんあの試合にも投げていた。

「わいもなんや眠れなくてな」

そっか、と俺は軽く答えて視線を景色に戻した。

西条も気にすることなく、俺の隣に並ぶ。

「あのさ」

「ん」

「…悪かったな、その、お前を試合に出してやれへんくて」

「何言ってんだよ、そりゃ仕方ないことだろ」

「まぁ、そうやねんけど」

さみしそうにうつむく阿畑が申し訳なさそうな声で呟いた。

「俺さ、試合に出れなくても、良かったよ」

「へ」

「今までさ皆と一緒に頑張って練習して、甲子園まで勝ち進んで、あんな大舞台に立ててさ。そりゃ俺はベンチだったけど、その、なんていうか、奇麗事じゃないけど、皆と同じ気持ちになれて良かったかな、って」

「皆口…」

少し暖かくなった夏の空気が隣を駆け抜けていった。

「なんか、一体感あったよ、あの負け…」

そこまで、言って、言葉につまった。

「…ま…ま、負ける前の頑張ってた、瞬間、さぁ…」

負ける、という言葉を口にした瞬間、眠っていた涙がまた襲う。

必死にそれを押し殺す、だけど声も体も震えて、顔が熱くなる。

「皆、みっ、皆口ぃ」

隣の阿畑はおさえきれなかったのか、潤んで目から涙をこぼしていた。

駐車場の街灯で顔が光る、それで始めてそうだとわかった。

「ば、馬鹿野郎!人前で泣くな、っていわっ、言われてただろ」

「す、すまん、」

しゃっくりまみれの俺の声に説得力はなかった。

「ぐ、うぐ、す、すまん、わい、わいなぁ」

鼻をすする。

「泣く、な、泣くなって、阿、畑。負けたけどさ!監督もさ、言ってただろ、胸、む、胸張れよ、って」

「…ちくしょぉっ、悪い、わい、わいよぉっ」

泣く。

高校生にもなって、どうしてこれだけ情けなく泣いてしまうのだろう。

まるで子供のように、ぐすり、としゃっくりが止まらなかった。

俺は、手すりに手をついてうつむく阿畑の肩を叩く。

「胸張れよ、下向いてちゃ、ダメだろ」

返事はなかった、ただ首を二回縦に振ったのはなんとなくわかった。

「悪い、マジ悪い」

消え入りそうな声で呟いた声は、闇に解けていった。

しばらく二人の間は沈黙が支配する。

だけど沈黙の方に俺たちが飽きられたのか、場違いなひぐらしの声が聞こえてきた。

かなかなかな、と物悲しい音だったが俺達はもう泣いていなかった。

目は腫れていたが、すっきりとした顔で二人景色を眺めていた。

「これで隣がマネージャーだったら良かったんやけどなぁ」

ぼそり、と阿畑は呟いた。

「茜さんがいるんじゃないのか」

「まぁ、現実は厳しいって話や」

どちらともなく笑いがもれた。

品のある笑いじゃなかったけど、今の俺らにはぴったりだった。

「明日には、帰るんやんな」

「そうそう、観光の一つでもしてきたい所なのにな」

「近いやん、ここまで」

「そりゃそうだが」

たわいもない話を続ける、一体いつまで続くんだ。

「さ、俺は寝るやな。これ以上お前といたら勘違いされかねん」

「お前とは絶対に、無い」

無い、の部分を強調する。

げはは、と笑うと阿畑は駐車場を後にしていた。

後ろを見送ると、俺も帰ろうと、上を向いた。

昔の歌に、上を向いて歩こう、涙がこぼれないように、とあったことを思い出す。

もう、涙は出ないけど。

とりあえず、上を向いて歩いた。



普段あまり語られることの無い、一つの物語のそれからの話。

期待や不安や緊張や弛緩や喜怒哀楽全てを今年の夏において、俺達は帰りのバスにのる。

そして、それから、俺達は―――。








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