球界、99年のそのシーズンは権藤監督率いる横浜が38年ぶりに優勝した事が紙面をにぎわせていた。




そんな中、パ・リーグの極亜久やんきーズは七位と低迷、中心打者の番堂もわずか二厘差で首位打者を逃し、投手陣はリーグ防御率最下位と明るい話題は少なかった。

しかし、その年の秋に『誰も知らない』一つの明るいニュースが舞い込んで来る。


それはドラフト六順目で指名された、無名の投手。


そして誰もその選手が、わずか二年後にやんきーズを優勝へと導く救世主になる事を予期していなかった。


名前は日寺孝則、四国は高知、吉河原高校の背番号一番。


しかし、その高知には冥督義塾という、甲子園の常連校が存在するためにどうしても他の学校が全国の話題に乗ることは少なかった。

その99年の秋、極亜久が日寺を指名した年のドラフトの目玉も、冥督の四番梅田久だった、しかし梅田は巨人に入団するが、この後三年間は二軍で苦汁をなめる事になる、日寺とは対照的である。




前置きはこれぐらいにして、それでは日寺の活躍と歴史を語りたい所だが、今回の主役は日寺ではない。


その主役は98年の同じ秋に、兵庫県のあるホテルで休息を取っていた、今もベッド横の机で膨大な量のファックスで送られた資料に目を通していた。


夜の八時を回った頃に、その男のホテルにある電話がかかってきた。

男は電話を取るなり、流暢な関西弁で受話器の向こう側の相手に対して大声を発した。

「はい、向日坂でっせ。あっ!吉河原の監督ハンでっか?…はい、はい。んで、見に行ってええんですね?…はい、わかりました!ほんなら早速明日見に行きますわ、もう秋の予選も近くて、調子も上がってるんでっしゃろ?…え、いけますいけます!わいを誰やと思ってるんでっか?…はい、ほなら!また明日!」


ガチャン、と勢い良く電話を切った、その男…男といっても若くはない、もう人生の半分を経験したようなしわの深い顔に、小柄な体格をスーツで包んだ、中年男性と形容すれば妥当だろうか。

その中年男はにんまりと、笑みをこぼした後、急いでファックスとペンケース、メモ帳を自分のバッグを押し込んでフロントに電話した。


「ああ、508号室の向日坂ですわ。今日の宿泊はキャンセルしますわ。…え?理由、そんなん決まってますやん」

一呼吸おいた後、男は言った。


「宝が見つかったんですわ!」
























『全国を旅して”宝”を探す』























この男、名前は向日坂輝義という、年齢は51歳、現在は極亜久のスカウトマンとして全国を渡り歩いている。

元々は極亜久やんきーズでプレイしていたれっきとした元プロ野球選手だったが、五年間二軍でプレイした後、戦力外通告を受けてしまう。


しかし、職が無いと懇願した向日坂に対して、球団側は情けとしてスコアラーとして向日坂を雇うことにした、これが大当たりする。


向日坂がスコアラーとして活躍した’86〜’89の間、極亜久は三年連続でAクラスを維持した。

データとして野球を見てみると、その年前半苦戦していた相手でも、後半で挽回しているケースが多い。

それは、きっちりと前半の弱点を後半で克服しているということだ。

他の理由もあるだろうが、私は向日坂の能力だと思う。


それほど向日坂という人物は、選手を見透かす力が高いと予測できる。

そしてそれを見込まれた向日坂はめでたくスカウトマンとして昇格し、二十年目を迎える。(2004年9月20日現在)







先ほどのべた日寺は、実は向日坂がどうしてもとフロントに懇願して入団させた選手でもある。

しかし、日寺はコレと言って素晴らしい特徴があるわけでもない、低めにコントロールできるカーブがあるだけで、球速も130そこそこである、スカウトが目くじらたててフロントに頼むほどの選手でもない。

だから最初は球団関係者はこぞって反対の姿勢を示した。

だが、向日坂は今でこそ首位打者を争うほどの大打者に成長した番堂を九州の田舎から見つけ出してきた実力を持っている。



最終的に極亜久やんきーズの八木監督はこれを認める意を示した。



このように向日坂はスカウトマンとして、確かな能力と眼力を持っている。



そして、足を使うことをいとまない。

96年のやんきーズは捕手不足だった、正捕手の正井もすでに36歳、年齢的にも体力的にも限界を迎えていた。

そんな年のドラフト4順目の捕手、木戸克夫。

この選手は社会人を経てやんきーズに入ってきたのだが、その会社はグルフールという小さな企業、しかも場所は北は岩手の山間の中。

そんな辺境に才能は眠っている、どこでそれを聞きつけたかは知らないが、向日坂はすぐにその場所に行き、木戸のプレイを見るやいなやすぐに球団に連絡したのだ。

その年から木戸はいきなりレギュラー、盗塁阻止率.897という強肩は世間をにぎわせた。

その他にも向日坂は北は北海道から南は沖縄まで、噂を聞きつけるやいなやすぐさまその場所に向かい宝を探し、選手を見てきた、それが徒労に終わっても気になどはしない。



本人曰く、


「わては選手を見てるのが楽しいんや。それが例えプロでは通用しない選手でも、恐ろしい力を秘めた選手でも、その選手達がさらに上を目指して、わいみたいなスカウトの前で惜しみなく全力投球してくれる、それがわいは嬉しいし、一人一人違う、能力を見るんが楽しいんやな」



いつも向日坂がかぶっているベレー帽はすでにお馴染のトレードマークとなり、彼の名前はアマチュア選手の間では伝説となりつつあった。



「向日坂に認められれば、プロになれる」と。











だが、彼は完成された選手にはまるで見向きもしなかった。


他のスカウトマンが発掘する、150kmを超える速球を持つ投手だとか、高校通産本塁打46本の強打者だとかいう選手は決して見に行かない。

確かに、そんな選手が長い間成績を出していく場合もある、しかしそれは限られている、歴史に残る選手というのは決して最初は無名だった場合が多い。

だからというわけではないが、向日坂は最初から力を持っている選手よりも、入団してから力がついてくるだろうという選手に目を向けた。

それが木戸であり、日寺である。

向日坂が日寺に目をつけた理由は、そのフォームの綺麗さにあった。

フォームが綺麗、というのは基本である、それはコントロールの良さにもつながり、肩や肘の故障も減る、さらに言うと、投球の疲労もへってくる。

日寺はそのフォームが理想に近かった、だから決して大崩れしないのだ、その夏の冥督戦でも3-0と圧倒的な強さに対しては食い下がったほうだった。

だからこそ、向日坂はこの選手を百年に一度の逸材として騒ぎ立てたのである。

綺麗なフォームを高校という若い時から習得している選手などはそうはいない、それも一種の才能である、向日坂の目にはワンバウンドするフォークよりも150kmを越えるストレートよりもそれのほうがはるかに輝いて見えた。

実際に2001年に優勝した時の日寺は20勝8敗と成績は上げたものの、決して素晴らしい決め球があったわけでない。


安定して勝てた理由は崩れない、故障しない、そしてコントロールのよさである、制球が良くなれば自然と打者はその投手を畏怖するようになる。


結局、試合を通じて日寺を攻略する鍵をつかめなかったのであったのだ。













向日坂は、そんな逸材の選手達を”宝"と呼ぶ。

「スカウトなんてのは、宝探しみたいなもんですわ。ほんまかどうかもわからん噂を信じて全国を旅するんや」

向日坂は今日も日本のどこかの地方球場で遠い目をしている。

その目が見える限りは、彼は”宝”を探し続けるだろう。












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