※この作品はフィクションです。実際の人物・団体・事件などには、一切関係ありません。














『猫球団の改革』


その日の静岡はやけに盛り上がっていた。

町中の人間がラジオやテレビにかじりつき、店頭や街頭もその話題で一色であった。

そしてその瞬間は、昭和六十年八月二十八日、夜の九時五十八分に訪れた。

『マウンド上は影倉の守護神ランドマン、九回裏二死一塁でキャットハンズが西武に三点のリード。埼玉所沢球場にはアウェイだというのに影倉のファンたちが大勢かけつけその瞬間を待っています…マジック1で迎えたキャットハンズ、もう優勝は目前です!』

場内に後一球コールが飛び交い、キャットハンズの応援団は喉がつぶれるほど大声を出していた、太鼓の音に逢わせてオレンジ色の応援団が一斉に揺れる。

キャットハンズのチームカラーはオレンジ色。

可愛いくらいの派手さで当時は話題を呼んだものだが、いまやすっかりと定着し、プロ野球ファンにとっては御馴染とあんっていた。

『カウント2エンド1からランドマン、セットポジションから第五球…落とした!空振り三振!この瞬間キャットハンズが、初めてのリーグ優勝を決めました!!』

選手は次々とベンチから飛び出していく。

ファンは歓喜し、その日は深夜までお祭り騒ぎが続いたそうだ。



そう、昭和六十年、当時影倉重工(現三菱影倉重工)がオーナー会社を勤めていた静岡影倉キャットハンズがパ・リーグを制覇し、当時の安藤博監督が合わせて合計八回宙を舞ったのである。

しかし、今でこそお馴染になったこのユニフォームの色、この球団のチームカラーのオレンジが、元はオレンジ色でなかった事を知っている方は一体どれくらいいるだろうか。

それはいつのまにか人々の記憶の裏舞台へと消えていったものである。





パ・リーグ制ができて、幾度と無くいくつかのチームは姿を消し、また新たに合併していった中で、新しく誕生した影倉キャットハンズは、当時低迷していた近鉄と並んで下位を争うパの「お荷物球団」であった。

原因の一つが首脳陣がある…その頃のキャットハンズは、一生をチームに捧げた、いわゆる生え抜きの選手達が首脳陣となっていた。

つまり何よりもチーム内の選手達を重要視していたので、トレードは失敗し、言い方は悪いが、見る目の無い素人を外国人助っ人のスカウトとして登用していたのだ。







しかし、そんなチーム事情がガラリと変わる事件が起こる。

昭和五十一年、フロント側のトップが斉藤勝氏(平成五年、急性心臓疾患の為死去、享年七十四歳)に変わる。

その斉藤氏はまず球団マネージメントとして、チームカラーを変えようとしていた。

今までの白と黒の地味なユニフォームを、今のキャットハンズの原型となるオレンジという奇抜なカラーに変更、さらにチームスタッフも次々と変えていった。

そう、元はキャットハンズのユニフォームは白黒の縦縞、阪神タイガースと一緒のカラーだったのだ。

キャットハンズのオレンジが誕生したのはこの時なのである。






話を戻すと、斉藤氏の改革で誰もが驚いたのが、監督をトーマス・ウィリアムズという外国人監督に据えたことである。

外国人監督は、広島が一九七五年に迎えたジョー・ルーツ氏が日本のプロ野球界初の外国人監督である、ルーツ氏はこのトーマスを含め、後の阪神のブレーザー、ロッテのバレンタイン監督などの外国人監督の先駆者である。

このウィリアムズ監督は、斉藤氏の思想にはまるパズルのピーズのようにぴったりと合う改革を実行していった。




まず、今まで生え抜きで大事にされていていたが、年齢的に力がかげりが見え始めていた、呉俊夫、政兼真二、芳川宗樹と言った主軸選手達をトレードに出した。

そして南海ブレーブス(現YAHOOオリックス)から金堂正臣、そして巨人から内藤寛之を獲得。

さらに選手を放出したウィリアムズ氏は合計で七人の選手をチーム内から出した事になる。

これにより、チーム内には今まで生え抜きと言うだけで飯を食っていた選手達が一切いなくなり、キャットハンズはいい加減なプレーは即交代、二軍につながると言う実力主義の戦闘集団に変化していったのだ。

何もウィリアムズ監督は選手だけではない、スタッフ陣にも改革を断行するようにした。

全てチームの人間に『勝利』と言う二文字の味を覚えさせるためであり、障害になるようなぬるい考えは一切捨てていく。

それはあまりにも厳しいことだったがプロ野球は遊びではない、プレーがそのまま自分の人生につながっていく、勝つか負けるかの世界なのである。

それに耐え抜いたものが栄光の旗を掴む。



ウィリアムズ監督は就任した昭和五十一年の春キャンプで初めて選手に顔を出した。

「You are best player that I choosed(諸君らは私に選ばれたベストの選手達だ)」

現役時代のウィリアムズ監督は大リーグレッドソックスの投手であったが、メジャーではわずか二年目で肩を壊し3Aに落ちてしまったため二勝しかあげていなかった。

それも関係しているのだろうか、当時の写真を見てもウィリアムズ監督の目は、勝利に餓えているように見える。

そして、その年のペナントが幕を開けることになったのである。














『再び行われる改革』


結果だけを言うと、実はウィリアムズ氏の改革は失敗に終わっている。

六月の前半までで最下位、主力選手が次々と故障、全てが悪い方、悪い方へと傾いていった。

今までのチームカラーから急激に変わったことによって、選手達はとまどっていたのだ。

昭和五十一年、キャットハンズ変革の初年、チームは下から二つ目、順位は七位でペナントを終了し、ウィリアムズ監督はその年に退団している。

勝てない苛立たしさなども重なったのだろうか、審判に幾度と無く暴言を吐き、退場の回数も二桁を越えていた。

この事が球団内での確執となっていったのが原因と言われているが、こうしてウィリアムズ氏はキャットハンズから姿を消したのである。

とにかく、ウィリアムズ氏が退団したことによって、後を引き継いだのが、ヘッドコーチであった一条元也(現TBS解説者)である、一条もキャットハンズで八年働いた生え抜きの選手であった。

これでは今までの繰り返しだと不安を感じ取った斉藤氏は急遽一条を呼び、チームの方向性について論議したといわれている。

翌年、一条は微動だにせず、ペナントを見守り続けた。

「昨年と同じ戦力で、戦えるわけが無い」

専門家達の意見は全て一致した、その年のペナント開始時のパワベースを含む野球雑誌、テレビ、ラジオなどのメディアでのペナント順位予想ではキャットハンズは全て、パ・リーグの最下位であった。

それに関して一条は終始「選手達を信じるだけです」と一言を貫いた。





春が過ぎ梅雨を耐え抜き、夏の炎天下の元、八月。

誰がこんな展開を予想しただろうか、なんとキャットハンズは首位戦線に残っていたのである。

八月終了時で、首位は予想通り安定した力を見せる西武、2.0ゲーム差で二位は南海、そして1.0ゲーム開けて三位にキャットハンズがついていたのである。

九月二日、大阪の藤井寺での影倉-近鉄戦で実況が解説の工藤収(元近鉄)氏に、何が今年のキャットハンズをここまで変えたのでしょうか?と質問し、それに対し工藤氏はこう答えた。

「そうですね、やはり一条監督が何かしたんでしょうか」

その問いに対する回答は間違いである、この時点で一条はまだ何も行動を起こしてはいなかった。

しっかりとスターティングメンバーを決定し、ミスを咎め、打てば褒め、監督としての最低限やらなければいけないことをやっていたにすぎない。

しかし、選手達はそれに答えていた、昨年ウィリアムス監督就任時には「実力主義」という言葉にとまどっていた選手達も、徐々に目つきが変わっていった。

その年、キャットハンズは予想を裏切り、三位というAクラスでシーズンを終える。



そして一条は再び改革を行った、スタッフをがらりと変えたのだ。

ピッチングスタッフには広島から南聡史、バッテリーコーチに阪神から安芸野一矢を新たに迎え、ここにキャットハンズがチームとして、方向制を180度転換する事に成功したのである。

だがその後キャットハンズに優勝の経験はない。

シーズン初盤こそ連勝連勝で首位に立つのだが、夏になるとずるずると落ちていってしまうのだ。

この現象に付けられたニックネームが、ネコの夏バテ。

冬はこたつで丸くなるネコだが夏にも弱いと、当時ファンは馬鹿にし、スポーツ新聞にはその文字が躍るのであった。





一条監督は任期の六年目、昭和五十七年を最後にユニフォームを脱ぐのだが、その後を引き継いだのが、かつてオリオンズ(現千葉ロッテ)のエースだった早川俊一監督である。

早川監督が指揮を握り、最初にするべき事ははローテーションの強化とともにピッチング陣の底力をあげることであった。

その方針は早川が投手出身なのでまず目に付いた事もあったが、なんと言ってもその頃のキャットハンズは投手力が弱すぎた。

当時の影倉の先発ローテーションであった森、高野、宮城、村上の四人が先発完投する以外に頼れる投手がいないのだ。

だからこの四人が夏場にへばると、チームはずるずると落ちていく。




昔の野球での投手での役割は先発完投が第一であった、とくにエースと呼ばれた投手は登板過多で体が壊れるまで投げさせられたものである。

この頃にはもうストッパーという役割も、「火消し」と呼ばれたいわゆるワンポイント中継ぎも存在していたのだが、キャットハンズは未だに古臭い先発完投にこだわっていたのだ。

もちろん頼れる投手がほかにいない、という理由からだが。

しかし、早川監督はこの使い方をスパっとあきらめた、そして選手の香川光昭と阪神の久保実をトレードしたのである。


このトレード、香川はこれからが期待される若手の大型の三塁手、対して久保は三十を越え先発する体力もなくなってきたベテラン投手である。

誰がどう見てもこれはキャットハンズが不利だったので、阪神側は一つ返事で了承し、記者や解説者は首をひねった。

しかしこのトレードには大きな意味がある、またこのトレードをは早川監督ではない、進言した人間がいたのである。

その男も、また記憶や歴史の裏舞台へと消えていった男であった。












『裏の男達』



若い読者は先に書いたウィリアムズ監督や一条監督を知っているだろうか。

また岸辺投手コーチや久保投手、後藤捕手という選手がいたのを知っているだろうか。

多くの人はキャットハンズのユニフォームがオレンジ色というのは知っていても、彼らのように使命を果たし消えていった裏の男たちは知らないかと思われる。

そんな裏の男を、キャットハンズの歴史と照らし合わせて紹介していこう。






人知れず消えていった野球選手というのは星の数ほどいる。



それはチームに入団してもついに二軍で終わる者、故障で野球人生を絶たれた者、そして理由があり退団する者。

岸辺忠征投手は一番後者である、彼は現役時代に不祥事を起こし退団するという極めて異例な人物である。

東京の夜の闇は深い、その都心の国道を高速で飛ばす車が一台。

岸辺が退団した理由は交通事故である、酒が入っていたのだ。



その後退団した彼の消息は掴めないが、驚く事にその二十年後にふらっと野球界に復活するのである。

噂によると出家したとか、実家で大人しく暮らしていただの、いろいろと噂はあるが真相は闇の中である。

その岸辺は早川監督就任後いきなりキャットハンズの投手コーチに指名され球界に復帰する、これは誰もが疑問に思ったのだが、岸辺は早川監督が「どうしても」スタッフに欲しかった人物でもあった。

実はこの岸辺、現役時代早川監督と同じロッテオリオンズの選手だったのだ、ちなみに年は岸辺が三つ若い、とにかくその岸辺がヘッドについてからはキャットハンズがまた一つ姿を変えた。

特に弱点と化していた投手陣は格段に力を付けていった、一つ例をお見せしよう。

その年のキャットハンズのオールスターまでの前半戦の防御率は4.13、これはパ・リーグトップである、これを前年度最下位であった防御率6.35と比べてみると投手力が上がっているのが事がよく分かる。





岸辺が投手コーチに就任した年の春キャンプ、岸辺はキャットハンズのデータに目を通してみて誰もが頭を悩ましていた問題に目をつけた。

”七・八・九の試合終盤の失点が多すぎる”

特にスタミナが尽きてくる終盤で先発が崩れる、変わった中継ぎも抑えられずに失点を許す、この展開が終盤に来ての大量失点の原因である。

ここで先ほどのトレードに話を戻してみよう、何を隠そう早川に久保を獲得するように言ったのは誰でもない岸辺である。





トレードでキャットハンズに来た久保は各球団を渡り歩いたベテラン渡り鳥である、裏を返せば同じ球団に長くいないということだ、別に久保は世渡りが下手な訳でもない、その理由は使いどころが難しいからである。

久保は広陵、明治、日本生命を経てプロに飛び込んだ社会人卒人間である、最初に入団したのはヤクルトであったが、先発として成績を残す事ができず打者に転向するも三年目で自由契約にされる。

その後投手としてテスト入団で西武に入団、日本ハムとのトレード、さらに阪神との金銭トレードを経験してキャットハンズに流れ着いたのである。

まさにプロ野球の厳しさも嬉しさも汚さも夢も酸いも甘いも知っている重鎮である。

マスコミ、メディア、そして人々にはあまり知られてはいないが、セ、パ通じて当時の選手達にとっては大きな存在でああった久保もまた裏の男であると言えよう。

予断だが、各球団を渡り歩き、いろんなチームカラーのユニフォームの袖を通してきた久保だったが、キャットハンズのオレンジ色のユニフォームを着て最初に言った言葉はやはり「派手なユニフォームですね」だったそうだ。






さて、岸辺が考えた久保の起用法は今でこそ当たり前の戦術になりつつあるセットアッパーである。

つまりストッパーが出てくる前の八回、キャットハンズのもっとも失点数が多い八回を任せるということだ。

ストッパーは前年獲得したがケガに悩み出場回数が少なかったランドマンが完全復活し、これで後はきっちりと固められた。

さあ早川監督の就任一年目の昭和五十八年のシーズン、出だしは好調だった、先発陣は森が開幕六連勝、久保も八回と試合後半のピンチを得意のパームボールでことごとく抑えていく。

元々定評のあった打撃陣も三番金堂、四番カーチスのKK砲を軸に予想通りの力を発揮、六番岩淵の離脱は痛かったが、ルーキーの雨宮がその穴を埋める活躍を見せる。



キャットハンズは七月に西武を抜き、前半戦を首位でターン、しかし後半戦に入ってその状況は一変する。

キャットハンズが天王山で二位の西武に三連敗を喰らい三位に後退、極悪ヤンキーズが破竹の十連勝で一気に二位まで浮上してきたのである、これによりペナントは混乱の様相を見せていく。

西武、影倉、極悪の三つ巴になったパ・リーグでまず抜け出したのはヤンキーズであった、八月終了時で首位西武と二位極悪。

九月の最初から当たった天王山で極悪は二勝一敗と西武に勝ち越し首位に浮上、極悪にマジックが点灯した。

結局その年はそのままヤンキーズがパを制しキャットハンズは四位に終わる。




しかし早川監督は最終戦でファンの前に立ち、後に語り継がれる”早川予言”を残したのである。

「来年は八月までに優勝を決めます」












『そして表舞台から姿を消していった』



早川監督はシーズンオフに岸辺と静岡のある居酒屋で酒を酌み交わして論議していた、といっても別に重い話ではない彼らの話の論点は『パンチ力のある左の打者が欲しい』だった。

昭和五十八年、四位に終わった時のキャットハンズのスタメンを見てみよう。

一番レフト斉藤、右打者
二番ショート青柳、右打者
三番ライト金堂、右打者
四番ファーストカーチス、右打者
五番DH峰、右打者
六番センター雨宮、左打者
七番サード中井、右打者
八番セカンド有働、左打者
九番キャッチャー後藤、右打者

一目でわかるとおり、左打者は雨宮と有働の二人だけである、さらに雨宮は岩淵の代わりに出てきた選手であり、岩淵もまた右打者である。

この左の少なさを解消するために早川はまたも驚く事をやって見せた、五番の峰を両打ちにしたのである。

もともと打撃のセンスがあった峰は苦ともせずに左打ちをマスターした、さらに早川監督は左打者をカイザーズから新井幸男、広島から斉藤武士を獲得。

そして運命の昭和五十九年のシーズンがスタートするのだが…。




その前にもう一人、読者に紹介しておきたい男がいる。

キャットハンズの背番号16、後藤憲一正捕手、この時三十四歳。

そう、あの生え抜き時代からの唯一の生き残りである。

良くも悪くも後藤はキャットハンズの進化を自らの目で見て、そして時代のなかで過ごしてきた、外国人監督を経験し、生え抜きの選手陣が解体され、外様選手達がしのぎを削る中にいたのだ。

しかし選手的にはまったくの無名である、これといった成績も残していないし卓越した能力があったわけじゃない、だが後藤は外に出されること無く長い間このチームに残ってきた人間である。

生え抜き選手として唯一残った後藤は上の文章を見てもわかるように当然地味な選手である、巨人や阪神の表に立つスター選手達と比べると彼もまた裏舞台に生きた選手であった。

しかし、華々しい名選手たちや、二百勝を達成した名監督は誰も知っているが、今のプロ野球界を作り上げたのはこのような裏に消えていった選手なのである。





そして、キャットハンズは早川監督の予告通り八月にマジック46を点灯させ優勝するが、惜しくも日本シリーズは敗れ、久保と後藤もこの年を最後にユニフォームを脱ぎ、表舞台から姿を消した。

それ以来キャットハンズはまた下位に低迷し、経営不振により昭和六十二年に影倉重工も球団を身売りする、その後、親会社はまるでコマ送りのように代わりっていき、影倉重工の名前も表舞台から姿を消した。


こうして、人々の記憶から、時代から、彼らは忘れられ、裏舞台へ向かっていったのだ。

しかし、一度きりのキャットハンズリーグ優勝と、その奇抜なオレンジ色のユニフォームは今でも人々の心に刻まれている。

それは記憶から、時代から忘れられた裏舞台へと姿を消していった彼らたちの功績ではなかったのか。





最後に、岸辺のその後を伝えておこう。

優勝の翌年の昭和六十一年、岸辺はシーズン中に膀胱ガンであまりにも早くなくなってしまった(享年四十二歳)。

こんな逸話がある。

選手の一人がトイレに入っていると、隣で岸辺が用を足しだした、選手が軽く挨拶すると岸辺も軽く返事をしてトイレを出て行った、しかしそこで選手が見たのはトイレが流しきれなかった真っ赤な血尿の後であったそうだ。

岸辺は誰にも自分の体が悪い事を知らさなかった、というか知らせる事ができなかったらしい。

岸辺はすでに親をなくしており妻子も無く天涯孤独であった、だから当時の彼のことを知ろうとしても、ほんの少ししかない記録とちっぽけなデータを参照するしかない。

何故彼が現役時代事故を起こしたのか、何故病気のことをだれにも言わなかったのか、すべては裏舞台へと姿を消した。

そんな彼も時代にのまれて裏舞台へと消えていった人間の一人だったのだ。







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