※この作品はフィクションです。実際の人物・団体・事件などには、一切関係ありません。またこの作品は「パワプロ10」の設定をもとにしております。














『お前は球をとめてみせろ』


この言葉は元頑張パワフルズ監督、川澄猛人氏が残したセリフである。

かの元巨人の「打撃の神様」川上哲治氏は「ボールが止まって見えた」と言った。

科学的に説明すればまずありえない話であるが実際に川上はこういうあまりにも有名な語録を残したのだ。

また特訓、岐阜、正眼寺、座禅で有名な川上は徹底した精神主義者の一面を持つ。


ところで精神主義者といえば日本の軍人であるが、とにかく軍人は不条理なセリフを吐きたがる。

「死ぬ気で突撃しろ」「言い訳は根性が無いからだ」

ここまでひどくはないが「ボールが止まって見えた」という川上氏の言葉もまた精神主義的なものであったであろう、してみろといわれても無理な話である。


さて話を元に戻すと、平成元年からの三年間、当時パワフルズは、投手陣といえばエース神下を中心に右の沢崎、左の本居。

打撃陣は四番橋森を軸に脇を固める奥田、美山を中心としたバズーカ打線と投打のバランスの取れた布陣で平成元、二年と連続優勝を果たす、黄金時代を築いていた。

その時の監督が川澄猛人である。

彼もまた軍人のように精神主義者であり、頑固で一本気である、それに加えて怒鳴り散らす、また竹刀・正座といった体罰を選手に実際にしたことでも有名である。

誰からともなく川澄は「鬼軍曹」と呼ばれるようになった。

しかし彼の人間像としてのイメージは決して厳しいだけではない。


こんなエピソードがある。


川澄がパワフルズが就任して八年目、昭和六十二年、当時プロ二年生だった橋森重矢内野手(現・頑張監督)はルーキーイヤーの一年目こそ打率二割八分九厘、三十二本塁打、八十三打点とかっとばし、セ・リーグを震撼させた(ちなみにその年の新人王は、十六勝七敗防御率3.68だった広島の川戸清吉投手が獲得している)

しかし『二年目は活躍できない』という有名なジンクスの通り、翌年の六十三年は六月までの成績は打率一割六分二厘、本塁打一、打点十と不振にあえぐ。

四月二十日から連続三十二打席ノーヒットという不名誉な記録も作っていた、彼にとっては初めての挫折だったであろう。

橋森は鹿児島実業から明治大学に入り、二年生から四番を打ち大学リーグ通算三十二ホーマーでドラフト一位、鳴り物入りでパワフルズに入団している。

話は前後するが、もちろん鹿児島実業時代にも甲子園に出場、三年生の春に優勝を経験している。

つまりここまで野球エリート街道を突っ走ってきて、プロに入ってきても新人王を獲得するなど栄光につつまれたままの橋森の初の挫折である。



その橋森はその年の六月十一日、対広島戦で相手北別府学投手から顔面に死球を喰らっている。

判定は死球ではない、なぜなら橋森は打ちに行ってあたったわけである、これも焦りから来たものだったのであろうか。

痛みでうずくまる橋森に対し、真っ先に駆けつけたのはほかならぬ川澄であった、一番驚いたのは頑張の選手達だ。

「いつもなら、選手そっちのけで”審判に抗議”しに行くはずなのに――」

鬼軍曹は少々、いやかなり選手使いが荒いかった。

少しくらいの怪我なら根性で治せ、とひじの痛みがあった当時エースの神下投手を完封させたという話からでも、川澄は正に”鬼”であろう。

しかしその”鬼”が倒れている橋森をまるで自分の息子のように心配している。

橋森は川澄を鬼と思っていただろう、川澄は入団直後から目の敵のように橋森をしごき続けた、甘い言葉は一切けなかった。

その川澄はすぐに病院に運ばれ入院した橋森に「心配せんでもええ、お前を怪我をしっかりと治してから頑張ればええ、それまでは俺が面倒見たる」そう言って、マスコミの取材やその日の試合の結果の報告、そして川澄は献身的に橋森の身の回りの世話をした。

感謝のあまり橋森は親子で涙を流したといわれている。

その後、橋森が復帰したのは七月の半ば、恐ろしい回復力であった。

そこから橋森は人が変わったように打ち始め、最終的には打率二割六分二厘、二十二本、六十三打点を残したのである。

もしの話であるが、ほぼ後半だけでこの成績である、前半も同じ調子で打っていたなら軽く三冠王をもとっていたであろう。

そして平成二年、橋森は三冠王をとりパワフルズは球団史上初リーグ優勝、橋森は見事、恩師川澄に恩返しをした結果になる。

後に橋森は、川澄監督の事を振り返って「(前略)川澄監督は親父のような人であり、人生最大の恩師でした(後略)」と語っている。

鬼軍曹も人の子だ、本当は選手一人一人を我が子の様に思っているのであろう。

だから選手達も全力で指揮官のために働いた、いわば人望というものであろうか。

これがパワフルズ黄金時代の背景である。


ちなみに川澄は平成五年を最後にユニフォームを脱ぎ、頑張パワフルズ球団、京栄南オーナーの命によりゼネラルマネージャーとなったが、相変わらず監督時代のように選手には鬼のように接している。

















『不動明王』

先に書いたように平成二年、パワフルズはセ・リーグ優勝、そして日本シリーズも王者西武を4-2でくだし日本一に輝いている。

確かに神下、橋森ら中心選手たちの力もあったかもしれないが、名脇役たちもワキを固めていた。


特に代打の切り札、菱久利義彰選手(現ダイエー二軍監督)はほとんど中心選手といっていい成績を残している。

優勝した平成二年当時四十歳にして、代打で出た六十試合で本塁打十本を含む安打四十本、打率六割六分七厘は脅威としかいいようがない。

試合終盤に出てくるこの男に、他のチームの中継ぎ投手陣は肩を震え上がらせた。

そんな彼についたニックネームがある、その名も”不動明王”。


まるで拝んでしまいそうな神々しいニックネームだが、理由は彼のバッティングフォームにあった。

彼のバッティングフォームはバットを垂直に立て、クリップを胸の前に持っていき、その後は全くと言っていいほど動かない、顔面近くのインコースのストレートでもよけようともしないのだ。

その威圧感はまさに”不動明王神”そのものであろう、今の選手で言えば現ヤンキースの松井秀喜外野手のバッティングフォームが一番近いだろうか。

しかし本当に止まっているのだ、当時の映像を持ち出して見てみると、まるで静止画のようにぴたりと1mmも動かない。

そして甘い球が来た時だけまるで獲物を狙うライオンが襲い掛かるように一瞬スイングする、すると打球はすーっと消えていくようにスタンドに消えていく。

そこに派手さはないが、熟練されたプロの集中力、中年の男が憧れた時代劇役者の殺陣シーンのようなものを感じ取れるのだ。

余談になるが、彼は風貌もまたサムライのようである、ぼさぼさに伸ばした髪を後でくくり、ひげは無精ひげ、それは宮本武蔵を彷彿とさせるあれである。


そして川澄監督が「球を止めてみせろ」と言ったのは誰でもないこの菱久利に対してである。

繰り返すがこの言葉は精神主義的なものである、本当に球が止まるはずがない、では何故川澄監督は菱久利に対しこういったのであろうか。



昭和五十八年、菱久利はチーム内の若返りという理由で大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)からトレードで頑張パワフルズにやってきた。

しかしパワフルズとしては実に難しい選択を迫られる事になる。

菱久利の守備位置は遊撃手であった、しかしこの時点でパワフルズの遊撃手には名手立松郁夫(現頑張ヘッドコーチ)がいたのである。

しかし菱久利は大洋時代に六番で三割を打っていた経験もある。

スタメンは守備の立松か打撃の菱久利か、このトレードは途方もない難題をパワフルズ首脳陣にたたきつけられたのである。


結果だけを言えば結局遊撃手のスタメンは立松が勝ち取る事になる、いかんせん菱久利は遊撃手にしては守備がお粗末過ぎたし、やはりこのとき年齢三十二だった菱久利よりは将来のある二十六歳だった立松を起用したのだ。

菱久利をコンバートする意見も出たが、三塁手は奥山、一塁手には後に中心打者として活躍する橋森が入団してきて、いよいよ菱久利の居場所はなくなってきた。

橋森入団時、昭和六十二年、菱久利三十六歳、この年彼は野球選手として最大の転機を迎えることになる。


















『代打の男としての意地』


平成十四年、セ・リーグ優勝を決めた阪神タイガースには代打の切り札と呼ばれ有名な選手が二人いる。

浪速の春男児こと川藤幸三選手とご存知、今も現役で活躍している神様八木裕選手である。

プロ野球の歴史をひもとくと、今昔さまざまな代打男がいたが、またパワフルズの菱久利も野球ファンの間では代打男として名を馳せている。



橋森が入団してきてパワフルズは完璧な体制となった。

野手の守備位置全てが三十歳以下の若手選手で構成され、完全な若返りとなったのである。

菱久利にとってはがけっぷちに立たされたことになる、自分ももう若くない、何か居場所をつからなくてはいつまでも首の皮がつながったままではいられない、焦りは募るばかりだった。


菱久利は昭和六十二年キャンプ、最初からバッティング中心に練習を行っている。

自分の事は自分が一番良く分かっていた、菱久利が一番自信を持っていたのはここぞという場面の集中力である。

しかし、人生はそう簡単に成功するものではない、彼もまた最初から順調な代打人生ではなかった。

四月当初こそ菱久利は代打で出場していたが、左飛、右飛、二併、三振、三ゴロ。

五試合ノーヒットで菱久利は二軍に落とされてしまった、そのまま五月六月と過ぎて再び菱久利が一軍の頑張スタジアムに帰ってきたのは七月の終盤である。



ウェスタンで鍛え抜いてきた菱久利の肌は真っ黒に焼けていた。

ベテランで若い二軍選手達と混じって必死に調整を続ける事はプライドの高いプロ野球選手にとって誰でも悔しさと腹立たしさで一杯になる、それを乗り越えて菱久利は帰ってきたのである。



七月十七日、甲子園球場での対阪神戦、阪神仲田、頑張右田で始まったその試合は荒れに荒れた、六回までで七対七の大混戦、打ち合い合戦となる。


しかし試合終盤、九回表パワフルズに好機が訪れる。

ツーアウトながらも二塁に八番捕手の田中、ここで九番投手のところで川澄監督は代打に菱久利を送る。

川澄はネクストバッターサークルに立つ菱久利を一度呼び戻した。

実はこの試合、パワフルズにとって負けるのと勝つのとでは天と地ほどの差がある、勝てば勝率五割、負ければ借金二で五位に落ちてしまう。

川澄監督はここで菱久利に驚くべきアドバイスを告げた。

「あの打撃の神様川上選手はボールが止まって見えたらしい、それならお前は球を止めてみせろ」

実はこのセリフはここで使われたのである、あまりにも飛び越した話に菱久利は目を丸くした、茫然とする菱久利に川澄は後は打席で考えろ、と半ば無理矢理バッターボックスに送り出した。

一体「球を止める」とはどういうことか、菱久利はツーストライクに追い込まれるまでそのことを考えていたという。

勝負の三球目の前、菱久利は考えるのを止めた、自分の集中力を信じたのである。


元来プロ野球選手というのはプライドが高い人間の集団である、口には出さなくても心の底では最後に自分を信じている、そうでなければとてもレギュラー争いに勝ち抜き、スタメン出場などできはしない。

プロ野球とはそういう戦闘集団の集まりなのだ。


球はストレートだったらしい、菱久利は目を疑った、事実は誰にもわからないが本当に球が止まって見えたと本人は今でも人に語る。

三球目を振りぬくと打球はライトスタンドに消えた、勝ち越しのツーランである。

この日菱久利は生まれて初めてヒーローインタビューに答えた、もちろん残したセリフは、球を止めろって言われました、だった。

本当にに川澄が「球を止めろ」と思っていたのかどうかは定かではないが、菱久利の集中力を見抜いていたのも川澄だ、不安だった代打策として真っ先に菱久利の名前をあげたのもまた川澄である。

菱久利はその年、代打のみで本塁打六本、翌年はレギュラーとしても十三試合出場し本塁打十三本でカムバック賞をもらっている。


代打として打席に立ち続けた菱久利は何を思っていたのか、ある意味いつも真剣勝負そしてギャンブルをやっているようなものである、勝てば官軍、負ければ逆賊の厳しい世界である。

何百打席で首位打者を争うのも凄いが、わずか一打席に自分の人生をかける男もすごい。


菱久利は優勝した平成二年を最後に現役引退、実働十八年、不動明王の名を残した菱久利は一線を退いた。

最後に、菱久利の引退試合の言葉を伝えたい、この日は代打で出場、試合を決める勝ち越しタイムリーを決めた。


「自分は、本当にこのパワフルズという球団に来れて光栄でした、パワフルズで代打での初ホームランのとき、監督が「球を止めてみろ」と自分に言ってくれました。
あの一言が無ければ今の自分は無かったと思います、監督、本当にありがとうございました、感謝しています(一部抜粋)」


こういう一言をしっかりと覚えていて、最後まで監督に感謝の二文字だったとしめた律儀な男、菱久利はそういう男なのである。













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