※この作品はフィクションです。実際の人物・団体・事件などには、一切関係ありません。
『三年後のその経験者』
五月、初夏の香りが日本の中心をつつむ込む頃、都内の某所にて会社勤務を終えた一人の男がいた。
男、仕事帰りのサラリーマンがたまたま寄ったその試合は、後攻チームがリードしているようだ。
光が夜空を照らし、夜景にその文字が浮かび上がる――[BIGEGG]――俗に東京ドームと呼ばれるそのスタジアムでは巨人対ヤクルトの第十回戦が行われていた。
オレンジ色のタオルが飛び交うライトスタンド、どうやら巨人がタイムリーで逆転したようだ、総立ちで大声をあげてウェーブを作っていく。
その光景に満足したのか、そのサラリーマンはにんまりと笑うと、売り子にビールを頼み、内野席の一角に身を沈めた。
その裏のヤクルトの攻撃、巨人はここまでヤクルトを一失点に抑える好投を見せる先発の猪狩守が九回目のマウンドに上がる。
ここまで開幕から、五月二十日中日の川上と並ぶ七勝一敗という好成績で四月の月間MVPにも選ばれていた猪狩はいまや投手陣が崩壊しかけた巨人の上原と並ぶ欠かせない存在となっていた。
また今この大舞台に立っている彼は、高校時代は名門あかつき高校のエースとして何度も甲子園を沸かせた存在でもある。
果たして皆さんは覚えているであろうか、彼が高校三年生のとき最後の夏、球史に残る名勝負を演じた事を。
まだ野球ファンにも記憶に新しい、その試合。
「オオオーー!!」
ファンから歓声が飛ぶ、猪狩がヤクルト先頭打者、六番古田をツーストライクに追い込んだのだ。
彼はもう一度、ワインドアップモーションから振りかぶって、投げた。
『あかつきの猪狩』
「ストライク、バッターアウト!」
キャッチャーミットの乾いた音が甲子園に響く。その瞬間内野スタンド、アルプススタンド共に大歓声が上がった。
『あかつき高校の猪狩投手、一回戦三陸工業戦でなんとノーヒットノーランを達成しました!』
NHKラジオの実況がそのニュースを伝えるや否や、にやりと笑みを浮かべた人物がいた。
その人物とは月刊パワベースの編集長、児島孝之(こじま たかゆき)である。
今回のパワベースの表紙は猪狩守投手なのだ、前々からなにかと騒がれていた彼を熱く評価したのもまた児島編集長である。
他の雑誌がこぞって二連覇を目指す帝王実業のエース、『都心のサイボーグ』の異名をとる山口に注目したので、シーソー式に猪狩への記者の集中度が少なくなった。
そこで児島編集長はこれチャンスと猪狩投手を徹底的に取材したのである。
猪狩は二年生であった去年から早くも話題を集めていた。
また猪狩は兄弟でバッテリーを組んでおり、なかなか甘いマスクでもある、これも話題を呼んだ一つなのであろう。
おかげでその月のパワベースの部数は先月よりかなり跳ね上がる結果となったのだが。
しかしその後、他のチームも名勝負を演じたので、普通では騒ぐはずの猪狩守の大記録でさえも少し価値が落ちてしまった。
21世紀出場枠、山形の日池高校の九回一挙六点のサヨナラ劇。
そして一回戦でいきなり当たった強豪、高知明徳と広島広陵の乱打戦。
今年の夏は暑くなりそうである、近頃の高校野球人気の低迷に嘆いていた解説者たちは口々にそんなことを言っていた。
そして、名古屋の愛知学園、ここのエースが後に猪狩と名勝負を演じる人物であった。
『聖地甲子園』
そんな素晴らしい試合が演じられているのが、高校野球球児にとって聖地である「甲子園球場」である。
何年もの間球児たちの汗と涙がしみこんだグラウンド、歓喜と悲鳴が飛んだスタンド、そして思いを抱いて入ったであろうベンチはいつまでも変わらずにそこに鎮座していた。
私は個人的に甲子園に行った時、独特の雰囲気、というものを感じるのである、それはもちろんグラウンドでも、選手達が行き来する廊下でも、あまりにもお瑣末な緑色の外野ベンチでさえもそれは漂わせている。
この独特の雰囲気は、過去敗北により去っていった選手達の怨念ではなかろうか、そう私は考えている。
こういう話がある。
平成元年、称号が変わったその年に行われた夏の甲子園大会二回戦、六回裏、栃木県代表蔓山西実業(現蔓山高校)の鳥山直久二塁手は正面から顔面に死球を受けて、地面に倒れこんだ。
言っては悪いがそこまでは珍しくない。甲子園の長い歴史を紐解けば話としてはままある。
恐ろしいのはその後だ、ほとんど意識が無かったと思われた鳥山はマウンドに向かって一歩、二歩と足を踏み出していったのである。
何事か、と選手一同が彼を止めにかかったが、当の鳥山はマウンドまでの半分あたりまで行くと、膝をつき、倒れた。
後にも前にも、甲子園大会でバッターが投手に向かっていったのはこの鳥山選手のみである。
普通、顔面に死球を喰らうと即病院送りである、意識などあるはずがない。
しかし彼はまるで鬼のような形相でマウンドに向かっていったのである、プロだったらほぼ間違いなく乱闘試合であろう。
後に鳥山選手は記者にこう答えている。
「あの時別に怒りはなかった、それよりもマウンドを一塁ベースと勘違いしていたと思います。なんとかしてランナーに出ようと思ったんです」
その試合、蔓山西は二点ビハインドで鳥山を迎えていたのである、これぞ勝つための執念というものであろうか。
話を元に戻すと、とにかく甲子園というのはそういう選手達の勝負にかけた執念や怨念が地下水のように浸透しているのである。
時にその怨念が、甲子園をよりドラマティックに、そして名試合を生み出すのではないだろうか。
『番狂わせ』
例年よりも猛暑だったその夏だが、気温もなんのその、聖地甲子園球場には毎日四万を越える観客が入っていた。
額にタオルをのせて暑さにうんざりしている人もいたが、アルプススタンドはかつてない盛り上がりを見せていた。
あかつき高校のアルプススタンドに、ブラスバンドの演奏「ルパン三世」がかかる、あかつき高校五番三塁手・三枝博選手のテーマである。
「かっとばせー、ひ・ろ・し!!」
カキーン!
「ウオオオオオーーー!!」
女性生徒の悲鳴、男性生徒、野球部の歓声がまた甲子園の浜風に乗って響き渡る。
三枝の当たりは三遊間を破る逆転タイムリーとなった。
塁上で気持ちをあらわにして喜ぶ三枝選手を見ていると、高校球児の爽やかさというものを実感する事ができる。
とにかく万事全力でプレーしているその動きは見るものに共感を与える。
大会八日目、二回戦となるあかつき高校の相手は、古豪大阪の北陽高校。
先発猪狩がいきなり初回に四失点を許すものの、打撃陣が終盤六、七、八回と一点ずつ返しついに九回、同点においついたのである、しかもいまだ二死だがランナー一、二塁。
勝ち越すにはここしかなかった、ここであかつき高校、名匠『千石忠』監督が動く。
あかつき高校の千石監督、現役時代は南海ホークス(現ダイエーホークス)のエースピッチャーとして実働22年、通算成績127勝114敗、防御率3.56、最多勝二回最優秀防御率一回という堂々たる成績である。
千石監督は六番の安藤に変えて代打、背番号12左の吉本選手を打席に立たす。
結果これが成功して、九回に二点を入れてあかつき高校は二回戦を突破、逆転勝利としてまた話題を呼ぶ。
そして三回戦もあかつき高校は突破、ベスト16に名を残すことになった。
あかつき高校は昨年こそ現ヤクルトの二宮捕手、早稲田大学の七井、八嶋選手を要し、史上最強といわていたが、決勝で帝王実業に惜しくも敗れてしまい、準優勝に終わていた。
当時、中心だった二宮、七井選手らを欠いたあかつきがどこまでいけるかは千石監督にとっても不安材料だったであろうが、春は猪狩の孤軍奮闘により、なんとか甲子園に出場する事はできた。
しかし、やはり力不足は否めず、二回戦を姿を消す事になったのだ。
その時の猪狩が甲子園を去る間際、記者に対してのセリフがこれだ。
「夏は、勝ちます。それだけです」
そして、大会九日目、高知の明徳義塾が無名の愛知学園に敗れるという番狂わせもあった。
出揃ったベスト8、その内六校が初ベスト8、おまけに四校が初出場という、近年類を見ない波乱含みの終盤戦となった。
『甲子園の魔物』
愛知県代表愛知学園、エース虎野投手。
背番号1はここに来てようやく注目を集め始めていた。制球の悪さを補っておつりが帰ってくるほどの武器、彼は140km後半という高校生離れした速球を持っていた。
一回戦、二回戦、三回戦あわせて12失点、決していいといえる数字ではない、防御率は4.00台、しかしこの準決勝にきて彼は本気を出したのだろうか。
明徳を破って勢いづく愛知と最優勝候補、南東京代表帝王実業。
前情報だけでは明らかに帝王実業有利の声が多かった、エース山口、二年生スラッガーの大武を含むクリーンナップの斉藤、黒山、この三人だけで実に本塁打10本、打点32をあげているのだ。
おまけにエース山口はここまで三試合を一人で完投、27イニング失点ゼロ、ほぼパーフェクトな試合を演じている。
私を含め観客やファン、そして記者も、「勝負が時の運」と熟知しているはずの帝王の選手達でさえも彼ら帝王実業の勝利を信じて疑わなかったであろう。
だが、それは見事に裏切られる事になる。
五回終了時点で終わって、観客は大歓声、帝王実業のアルプススタンドも、ベンチもテレビ解説者でさえも目を疑っていた、帝王実業のスコアボードのHの欄は今だゼロのままだったのだ。
『また三振だ!虎野六回までで10奪三振!!ノーヒット!』
いつもより声高になる実況の声だったが仕方ない。
この異様な興奮につつまれた甲子園は何か魔物のようなものであった。
「甲子園には、魔物がすんでいる」
誰かがそう呼んだ。
それはいつのまにか伝わって一種の伝説のようになってきている、今も有名な話だ。
そして魔物は、絶対的な力を持っていた山口をも飲み込んだ、それは甲子園の歴史へと溶け込んだ鳥山選手らの怨念だったのかもしれない。
先頭打者にヒットを許すと、フォアボールが続き、ノーアウト一二塁という最大のピンチを迎える。
そして山口もまた、犠牲者なのだ。そして帝王実業のエースといえど、しがない一人の高校生にすぎなかった。
『抜けた!抜けた!ピッチャーの股の間を抜く、勝ち越しタイムリーは愛知の小野寺!ついに均衡を破りました、愛知一点先取!』
また一人、魔物にやられた。
優勝確実といわれた帝王実業は準決勝で姿を消した。
山口は甲子園の砂を詰め終わっても、しばらくその場を動く事ができなかった、キャッチャーに肩を叩かれてからようやく思い出したようにその場を後にしたのである。
その後記者会見にすらも答えることができなかった山口だが、涙で震える唇で「あの瞬間、手が震えたんです」といった。
何人もの観客が、これで今年の甲子園の番狂わせは終わったと思ったのかもしれない、しかしこの年の甲子園は簡単に終わらなかった。
魔物はまだ、選手たちの血に餓えていた。
夜の甲子園球場に魔物の遠吠えが響いた。
『289』
この数字、一体何の意味を持つのだろうか。
正解は決勝で投げ合った両投手の投じた球数の総数である。
この数字、二人で割ったとしても144と1球、プロ野球でもそうそうお目にかかれない球数だったが、この数字を高校生二人が投げきったのである。
そう、決勝戦は愛知学園とあかつき高校の一騎打ちとなったのである。お互いチームカラーは良く似ていて、投手を中心として打線をつなぐバッティングで点を取って勝ち進んできたチームだ。
しかもお互い、運が悪いのか、ここまで全て強豪と呼ばれるチームに当たってきたので常に力を振り絞ってきた。そのため両チーム共に試合前から既に満身創痍と言っていい状態であった。
虎野、猪狩共に失点を許しピンチも乗り切って、全ての試合をひとりで投げ抜いてきたのだ。さすがに疲弊の色は隠せそうに無い。
大会決勝戦、全国の高校球児が最後に立つ場所にその二校だけが残った。
しかし頂点に立てるチームはただ一つのみである。
両軍の練習が終わると恒例のサイレンが青い空へと響き渡る。飛行機雲だけがその青画用紙に白い線を残していき、グラウンドに残された白い線、疲労困憊であるはずの虎野が投げる一球目は、またもや人々の度肝を抜いたのである。
『ひ、150km!150kmが出ました!球速計は150kmを示しました!』
魔物が再び牙を研ぎ始め、観客、ファンは興奮の渦にのまれていく。
虎野は全てストレートで三者三振にきってとる快投、そしてその裏の猪狩も同じく三者三振、この日甲子園に動員された五万を越える観客は大声援を二人に送った。
しかし中盤五回、あかつき打線が猛攻を見せる。これまで好投を続けていた虎野だったが、ここでチームに痛恨のエラーが出る、これで動揺したのか虎野は続くバッターにもヒットを許すと、ピッチャー猪狩に大会三号となる3ランをレフトに叩き込まれる。
あかつきのエース猪狩のこの本塁打で試合が決まりかけていたが、傾きかけていた流れを再び引き寄せたのが愛知のエース虎野だった。
次の回先頭打者だった虎野はなんでもない内野ゴロをヘッドスライディングでセーフにしてしまう。
このエースの気迫あふれる行為にチームの闘志に火がついた、畳み掛けるような攻撃で再び三点を取り戻し、ゲームを振り出しに戻した愛知学園。
そして後に「289球の名試合」とも謳われる夏期甲子園決勝戦は七回に突入した。
そこで、ついに魔物が牙をむく。
『9の文字』
七回裏、あかつき高校のスコアボードには9の文字が刻まれた、九得点、打者一巡のビッグイニング。
虎野はこの回だけで60球を投げていた、しかし代える訳にはいかなかった。
あの場面で変わっていたとしても結果は同じだっただろう、それはチームも虎野も良く分かっていた。
12対3、これでこの試合は決まっただろう、多分この試合を見ていた人は全員そう思ったのかもしれない。
しかし、三十分後の3時18分、さっきまで沈んでいたのが嘘のように愛知のアルプススタンドは揺れていた。
猪狩のフォアボール三つ、バッターのつまった当たりが合計四本、なんと運だけで愛知は三点を返したのだ。
そうなると、いやでもあの今大会一回戦、山形日池高校の九回一挙六点のサヨナラ劇が頭をよぎる。
まさかまさか、球場全体がそのムードにつつまれると、あかつきの名匠千石監督も、半分腰を浮かしていた。
そして、魔物はその思いを力に、猪狩の左腕にキバをつきたてた。
ワアアアアーーッ!!
『あーーっと!猪狩、一番吉本に対して押し出しのデッドボール!これで愛知この回四点目のランナーがホームに帰りました!!』
四方八方を歓声に囲まれてたまらずマウンドにかけよる猪狩弟、そして内野陣、この中断実に三分にも及ぶ。
次の二番浜田は二番だが大会打率.360の高打率を残している。誰もが期待を抱いていた。
しかし、魔物というのは予測できないものである。
カウント2-1から浜田が打った球はセカンド真正面、これでゲッツーでチェンジである、愛知のアルプスはため息、あかつきは安堵の息をもらした。
しかし、繰り返し言うが魔物というのは予測できないものであったのだ。
次のイニング信じられない事が起きた。
なんとセカンドがなんでもない送球をショートに大暴投、それを見たサードランナーは一気にホームイン、セカンドランナーもホームに帰ってきた。
そしてここで外野がまさかのお手玉、もたついてる間にファーストランナーが一気にホームイン。
なんでもない内野ゴロが三塁打、しかも三点タイムリーとなったのだ。これで六点目、猪狩は帽子を脱ぎ汗をぬぐった、だがまだ魔物は息を休めない。
続くバッターこそ三振にきってとった猪狩だったが、四番の水草には外野の頭を越す特大タイムリー二塁打を打たれる。
しかし次の小野寺はフルカウントからの、平凡なレフトフライ。
『あーっ!!レフト、落とした!フェアだ!フェアだ!2アウトでスタートを切っていたセカンドランナー水草ホームイン!これで八点目!』
流石の猪狩も呆然とした、今までの練習はなんだったのだ、彼の中では釈然としない思いが怒号として胸を駆け巡り、そして外野を振り返った時、その答えが彼の目に入った。
夕焼け空に混じる外野のまばゆいほどの光、魔物の瞳孔、いや照明灯が入っていたのだ。
これが目に入り外野手は落球。そして、うろたえる猪狩はまた一点を許し、またもや愛知が同点に追いついたのだ。
ところで両チームのスコアボードに9が刻まれた試合は史上初である。
かつて昭和52年の春のセンバツに伊豆の怪童「芦原」要する古山工業と奇跡の左腕「小笠原」の桐生院高校の試合でお互い七点を刻みあった乱打戦が今までの最高記録である。
ここでまた甲子園に伝説を刻み込んだ試合は延長戦へと突入する。
甲子園には知らないうちに雨が降り始めていたが、帰ろうとするものは誰もいなかった。
この時、降りしきる雨を、涙雨と評するのは果たして、どちらであったのを知るのは誰もいない。
ただ選手達だけが、己の力と決して諦めない執念で、勝利を我らがものにと歯を食い縛っていたのだ。
『最後の攻防、行方』
当時の愛知学園を率いていた篠山元監督と、現在もあかつきで采配を振る千石監督はあの試合のことを訊ねると、両者口をそろえてこう答える。
「甲子園の魔物が久々に暴れたんだ」
延長十回、球数が120球を越えていたが愛知学園はマウンドを虎野に託した。
球速もすでに130台前半まで落ちてきていたが、まるで命を削るような気迫で投げる虎野を代えられるわけが無かった。
それは猪狩も同じだった。こちらも110球に達していたが控えの投手が練習する様子すらもない。
「もう、最後なんだからお前に任せる。そう言って反対する人はいませんでしたね、限界を超えるなんて言葉が本当にあるなら、あの時の猪狩は限界を超えていたでしょう」
千石監督は試合後にこう答えた、が両投手は冗談などではなく本当に限界を超えていた。
その後フォアボールやエラーなどでランナーをためるもホームへの生還を許さない愛知学園。
実に虎野の投球数は延長十一回表で145球に達する。
神がかりというよりも、彼の背中には確実に魔物がとりついていた、いや張り付いていたのだろう、ツーアウト満塁のピンチをしのぎきった虎野は崩れるようにしてベンチに倒れこんだ。
そして十一回裏の猪狩もまた、ホームベースだけは絶対に踏ませなかった。
連打で作られたチャンスもゲッツーでしのぐと、三振にとって抑えきった。
これで猪狩の投球数も124球を越える、そして勝負は泣いても笑っても最後の十二回を迎える。
甲子園の雨はますます激しさを増し、時刻は異例の九時に突入していた。
虎野は雨で塗れ、滴る雫をぬぐった、ロージンバッグもまるで水溜りに落としたようになっている。
そして、突然だった。
あかつきの七番、伏兵の宮本が振りぬいたその球はライトスタンドのポールを捲くようにして入った。
あかつき高校のスコアボードに、13点目が刻み込まれた。
そして今までの粘りが嘘のように愛知学園はわずか三球でツーアウトを取られる。
そうして、猪狩が投じた289球目。
『その夏、289球が残したもの』
「ストライクバッターアウト、ゲームセット!」
ドーム内が歓声に沸いた、最後のバッター六番稲葉を三振に取って完投勝利、これで猪狩はハーラートップの八勝目をあげたのである。
喜びの声を巨人ファンが叫ぶ中、試合を見終わった客は足早に球場を後にしていく。
『今日のヒーローインタビューは完投勝利、ハーラートップの八勝目をあげた猪狩選手です』
彼はあの試合の後、左腕に違和感を覚えた、無理もない。
オリンピック代表を辞退し、巨人のドラフト一位を蹴り、一時は再起不能とまで言われた猪狩だったが、その後あかつき大学を経て、巨人に逆指名入団した。
彼はあの289球を振り返ってこう語る。
「あの試合がなければ今の自分はありません、あの試合がなければ巨人に入っても活躍できなかったでしょう。あの試合は、今まで自分に足りなかった気迫と限界というものを教えてくれました」
その夏、289球が残したものは人々の記憶だけではく、今の猪狩選手の元になるものを残していった。
そしてまた、この試合以後名勝負といわれるものが少なかった甲子園。
今年は、魔物は姿を現すのだろうか。
今はただ、センターフラッグが浜風になびくだけである。