『sample01・hot』



 たたずむのはただ二人。一人は私こと七角 春臣。部屋は広いにも関わらず、私は妙な圧迫感を感じていた。いや、それは圧迫感というには程遠いかもしれない。恐らくそれは威圧感。もう一人の存在により発せられている威圧感だ。
 私が立つ前にあるのは、机。大きな机である。その机の向こうにその男はいた。
 永口 善義(ながくち よしぎ)特殊生物研究統括長。往々にして異脳種についての研究を進める研究者達をまとめ上げる政府組織である。
 こん、と机を叩く音が響いた。それと同時に私の持ってきた報告書を彼はぱさりと落とした。
 彼の眼が私を向く。その眼孔は怖い。強く刺し抜かれるようで、心の臓すら貫かれてしまいそうである。
 ぶるりと体が震えたのが分かった。
 私はこの人物に強く恐怖しているのだ。
 「七角博士」
 「はい」
 名前を呼ばれ、しゃんと背筋が伸びた。
 「この報告書を、貴方は完璧と呼ぶのか?」
 「は……。いえ、完璧とは言いません。しかし私としては出来得る限りを尽くしたつもりですが……」
 彼の口元が薄く歪んだ。笑っているのだ。彼は、私を笑っている。
 心せずに背筋を走った悪寒は、冷や汗となり額から浮き出て頬をつたった。
 「足りない。この報告書ではまだまだ足りない。もっと実験をしなくてはならない。そうは思わないか?」
 「しかし、書いての通り彼は視力を失っておりますので、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、全てを十分に……」
 「私の考えと貴方のそれとは若干変わっているようだ。私の考え方ではもう一つ人間には感覚がある。……ああ、言い方が間違っているな。その五感の内一つを二つと考えている。つまり、触覚を、それ自体ともう一つ、痛覚と、な」
 「痛覚……!?」
 しばし、数瞬にも満たない時間、私の思考は停止していた。その言葉の意味が分からず、呆気に取られていたのだ。
 そして、その次の数瞬の間、私は考えた。その言葉の意味を考えていた。そして、一秒近くの間を要し、その意味に達した。
 また数瞬を私はその意味に対し呆然とした。恐怖した。
 彼は、つまり。
 「拷問をしろと言うことですか。それから何を予想するかのデータを取れと……!」
 「何もそこまでは言わない。いや、それ以上に私は何か言ったのかな? 何も指示していないだろう?」
 「あなたは…あなたは一体!」
 私がついと叫んだ時だ。二人しかいない部屋には私たちの会話のみが静かにかかっていたが、私の声が部屋に響いた瞬間だった。
 彼が変わった。いや、むしろ本性を現したと言うべきか。仮にかぶった皮を脱ぎ捨てた。先程から破けた所から漏れていた本性が一気にあふれ出した。
 「一つ聞かせてもらうが、博士。貴方は自分の立場を分かってるのか?」
 冷たい声は、どこまでも強い。私に覆い被さり、そのまま潰してしまうかと錯覚するほどだ。重く、押しつぶしてくる圧迫感を感じる。
 「君の首はこの私が持っている。分かるか? 二つの意味があるのが。仕事と言う意味でも、君の命という意味でも、だ」
 彼は冷たい。けれど妙に生きている事は分かる。彼の生に対する執着がその口調から感じ取れた。
 「それは、脅しですか?」
 静かに問うてみた。いや、静かにと言うのは違っている。恐怖が声を絞り出すようにしか、声を出すことを許さなかったのだ。
 もう一度、彼は言った。
 「分かっているな」
 私は無言でそれに応えた。否、応えさせられた。



 自らを、『人』でないと考えたことは今までに何度かあった。
 非人…人に非ず(あらず)と自らを責めたことがあった。
 それは自分が他人を研究しているときに、何度となく頭をよぎった考えによる。ふと気付くと、自分が今何を考えていたか―というよりも今私は無意識の内にどう感じていただろうかと考えるのだ。そしてその考えに呆然とする。
 ―今私は、この被験者を『人』だと考えていたか? 否……『モノ』と考えていたのではないか?―
 そんな私をかろうじて『人』として引き止めていたのは、何だったのだろうか。多分、それが自分の勝手な考えに過ぎず、他の『人』がどう思っているか、どう見たって『人』じゃないか、と考えているだろう、そんな風に考えることで、私はかろうじて自分を保っていた。
 だが、あの男が。
 私の根底を覆した。

 あるのっぴきならない現実がある。私たちに……すなわち、異脳種を研究する私たちに対する世間の考え方だ。
 結局の所異脳種と言っても『人』である。はっきり言ってその力は他人を傷つけるような力ではないのが幸いしているのだろうが、世間はそんな異脳種を『仲間』と認め、それに納得している。
 動物の本能として、『仲間』を傷つけるモノに対して、はっきりと敵対する。追い払う。
 私たちの研究の一部が流出したことが一度二度とあった。その研究の一部に拷問まがいのことがあったのは事実である。私はそこまで手を出そうとしたことは……無かったことはない。だが実際にそこまで行ったことはなかった。
 しかしそんな事実があることは確かで、それが私たちへの風当たりを強くした。
 そんな流れから、私たちを世間はこう呼ぶ。
 『cold man』
 冷たい人。

 私は、そんな冷たい人間なのだろうか。そう自らに問うた。
 だがその時の私には、応えが返ってこなかった。





 ぎいい、と重い扉が開く。その向こうには視界を大きなバイザーに、いや、むしろヘルメットに隠された小柄な少年が机に向かい椅子に座っている。ヘルメットは視神経を刺激し、微かながら彼の視力を助けている。それというのも彼はほとんど目が見えないためである。
 恐らく彼の世界は白黒で出来ているのだろう。その機械の大げささに比べ、性能は弱かった。
 彼はこっちを見ない。しかし私が入ってきたことに反応はしているようだ。
 「博士? この何日かいなかったね。どこか行ってたの?」
 彼は振り返らずに入ってきた人物が私であることを当てた。
 「今度は何故分かったんだい?」
 私はさっきまでとはうって変わり、優しい声で答えた。今度は―というのはもちろんいつもの事があるから、である。そう、それが彼の力である。

 彼は少ない情報から、常識を越えた情報処理能力でその全貌を捉えるのだ。それはしばしば未来を読む。だから彼の力は『未来予測』と呼ばれる。
 そして海咲 光。それが彼の名前だ。

 「今度は僕の『力』は使ってないよ」
 と、光は不機嫌に答える。
 「博士の足音はもう覚えているんだ、その間隔までね。他の人たちに比べると博士の歩調は少し遅いかな? 多分博士が優しいからだね」
 私を優しいと言ってくれた少年に、私は言ってやりたかった。
 違う、違うんだ。私は優しくない。冷たい人間なんだ。
 だけど、そんな彼の言葉が私の心を微力ながら支えてくれていた。
 「そうか。さすがだね、光。今日は何を読んでいるんだい?」
 机の上には白いページが続く本が乗っている。よく見れば分かるだろうがぶつぶつと飛び出ていることが分かるだろう。点字で書かれた本で、一般には売られていない、光の特注である。不自由な生活を強いられる異脳種は、大概の要求は聞かれるようになっている。それが『規則』の範囲内である限り、であるが。
 「うん、今読んでいるのはね、『さよならの代わりに』っていう本だよ。新しい本みたい。タイムパラドックスの理論が少し難しいけど、面白いよ」
 「そうか、面白そうだね。読み終わったら貸してくれないかい……と、私は点字を読めないんだった、ごめんね」
 「うん、大丈夫。気にしないで……」
 ページをなぞる指が、ふと止まった。何か思案するように天井を仰いだ。

 部屋は基本的にはコンクリートの箱を想像してもらえればいいと思う。その中である。基本的に異脳種指定された以上は、この中に入ってもらうのが規則となっている。彼は、四歳の時からこの世界しか知らない。他に知っているのは、白衣を着た研究者に取り囲まれる研究室くらいなものだ。
 家具といえば机とベッドくらいなものだ。あとは、そうだ、MDコンポがあったりもする。彼は視覚がないためなのか、音楽を聴くのが好きだ。今は専らクラシックやジャズをよく聞いている。今流れているのは確かサッチモという愛称で呼ばれていたジャズの有名なトランペット吹きが演奏しているジャズだ。心地よく、柔らかい音が部屋に満ちる。この部屋の冷たく、硬い雰囲気とは全く違うものが、妙に相対してよく合っている様な気すらした。

 「ねえ、博士。一つ聞きたいことがあるんだけどいい?」
 「ん? 何だい、光。言ってごらん」
 「うん……あのね、僕温かいって言葉の意味が分からないんだ」
 彼は椅子を回し、こちらを向いた。いや、私を向いてはいない。顔は俯いているままだ。
 見える顔の下半分にはかげりが落ちている。暗い表情だ。いつもはこんな環境にいても、よく笑っていられる、というほどの明るさを持っている光だが、この時ばかりは見るに忍びない程暗い表情だった。
 顔の上半分はバイザーに隠れて見えないが、きっとその中には弱々しい光を灯しただけの眼があるのだろう。
 ふと、もし彼の視力が普通通りで、こんなバイザーを付けずに自由に世界を動けたら、普通に学校に行けたら、どうなるのだろうか、と考えた。本来ならば小学校の三年生であるはずの彼は、きっと幼いながらに、人気のある子供になれるのではないか。そう一瞬思え、憂えた。
 そして、それが有り得ない事であることを再認識し、ぶるりと頭を振ってその考えを遠ざけた。
 「熱いって言葉の意味は分かる。ストーブに近づきすぎると熱いっていう感覚になるからね。寒いって言葉の意味も分かるんだ。……あんまり言いたくはないけどこの部屋はちょっと寒いからね」
 コンクリートが四方上下を囲んでいるのだからそれは熱を奪っていくだろう。よく分かる。
 「でもね、温かいって感覚がよく分からない。寒いときにストーブに当たると、っていうけど僕にはそれは温かいじゃなくて熱いなんじゃないかと思う。布団に潜ったときのも温かい、じゃないと思うんだ。なんでだろうね。」
 「光……」
 私は、気付いた。光にとって世界というのは、四歳の時以来この研究所が全てだ。その中にしかいないのだ。
 そんな彼に、温かいという言葉の意味を教えるには、どうすればいいのだろう……?
 温かいものとは、何だろうか。
 冷たい人間である私を、温かくしてくれる存在……とは。

 一つ、浮かんだものがあった。
 「そうか……光。着いてきなさい、温かいという言葉の意味を教えてあげよう。私の手を離さないんだぞ」
 「え……? 博士、でも……」
 「いいから来なさい、さあ」
 私は半ば強引に光を引っ張り、部屋を出た。
 温かいという言葉の意味、そんなのは簡単な事じゃないか。すぐに教えてやれる。
 ……冷たい私を、温かくしてくれる存在。



 裏口から、私は光を連れて外に出た。研究所の影から出ると、眩しい陽差しが差した。……とはいえ視覚のない光はあまり感じないだろうが。
 だが……この温かさは、分かるはずだ。
 「わぁ……」
 光は、私の手を離し、一歩前に出た。大きく、口を開け、光の指す方を向いた。
 「これが、温かいって事なの? 博士」
 私は頷きつつ言った。……いや、彼には見えないだろう。そう思い直し私は彼の肩に手を置いた。
 「そうだ。これが、温かいって事だよ」
 彼は見えないといえ光を少しばかり感じることは出来る。その方向を向いている。そこにあるのは、その天の上にあるのは、太陽という名の温かさ。
 私はこの太陽に温められて生きている。何を感じても、この陽の元にいることで、今も気持ちが安らぐ。
 だから、温かいという言葉は、私にとってこの陽なのだ。
 「温かいって、そうなんだ。柔らかくて優しい……そんな腕で抱きしめてくれているみたい。体の奥の方から、ほわっ…てしてくる……」
 光は大きく口を開けて光を飲み込もうかとするようにしている。
 これが、温かいということだよ、光。それ以外の温かいという言葉は、どこか間違っているのかもしれない。けれど、この温かさだけは決して裏切らない。
 「ねえ、博士」
 「なんだい?」
 唐突に光が振り返った。
 「今僕の肩にあるのは、博士の手だよね?」
 「そうだよ」
 私は少しいぶかしげに答えた。彼はそれから何を『予想』したのだろうか。
 「博士の手も、温かい。人間って、温かいんだね」
 息を、呑んだ。
 冷たいと言われた私は、光に温かいと言われた。
 温かいと言われた私は、世間に冷たいと言われる。
 私は、一体、冷たいのだろうか。温かいのだろうか。
 「博士、僕は博士のことが好きだよ。温かいっていうのは、とても気持ち好いんだね。博士の手も、気持ち好い……」
 肩に置いている私の手を、光は掴んだ。
 私の目からこぼれ落ちた水が、その手に落ちた。
 私の体が、震えていた。
 「博士? 泣いているの? どうしたの? 手が震えているよ。どうしたの?」
 十歳に満たない彼は私の様子が変わった事に疑問を抱いた。
 私は崩れ落ち、一すじ、二すじと流れた涙を、必死でせき止めた。
 「光、ごめんな。私は、私は温かくなんかない。私は……!」
 切なさが、胸を締め付ける。
 かろうじて私は、自分を取り留めることが出来た。
 私を『人』の側に引き止めたのは、『人』から最も遠い存在であるはずの、光だった。





 「博士、この報告書は何を意図しているのかな?」
 永口 善義。彼の前に私は再び立った。
 今度は、恐怖を感じない。私は自分が正しいのだと胸を張った。
 「読んでもらって分かる通りです。No.0113…いえ、海咲 光の研究はこれまでの研究をもって終わります。その研究の次第については先回の報告書で報告したとおりです」
 「私は君に警告したはずだが? 『cold man』の一人である貴方が、まさか非人に情をかけるつもりか?」
 「……」
 私の応えは、無言でしかない。
 彼が何と言おうと、光は。
 「非人は非人同士情を掛け合うというのか?」
 「お言葉ですが、光は、海咲 光は、人間です。そして私も、人間です。それ以外の何者でもありません。この体に血の通った、温かい『人』です」
 彼はしばらくその鋭い眼光をこちらへ向け、静寂の空間を保った。
 静寂を裂いたのは、深いため息だった。
 「仕方ない。貴様をどうこうする力は無い事が口惜しい。せいぜいが貴様から職を奪う程度だ。出て行け、もう二度と顔も見たくない」
 私は何も言わず、部屋を出るためドアへ向かった。ドアの前でくるりと振り向き、一礼をした。
 「失礼します」
 ドアは、重く閉まった。



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 その後の事だが、まず私は研究所を追い出された。そして、よく許してもらえたと思っているが、光も一緒に、外に出た。
 そして、光を両親の元に帰してやろうかと思ったが、その両親がそれを拒んだ。理由は、言わずとも分かるであろう。
 彼は、一つの温かさに逃げられたかもしれないが、それでも光はいいと言った。
 私は、光の成長を見守ろうと思う。せめてもの償い。光から、一つの温かさを奪った私は光に一つの温かさを与えようと思う。



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 ぱたん、とノートパソコンを閉じた。ふと振り向けば二つのベッドの内片方に光が寝ている。ちいさく、すやすやと寝息をたてている。
 先程まで打っていたかたかたというキーボードの音はうるさくはなかっただろうか?
 脇に行き、光の寝顔を見た。光の寝顔は、安らかだった。優しく、何の悪意も見えない。ただ純粋な気持ち。
 一応勘違いをしてほしくないが、私には変態的な趣味はない。だから光をどうこうしようという気はない。……勘違いをしないでほしい。
 ホテルの一室から外を見て思う。これからどうしようか。
 ひとまずは研究所で働いていた間に溜めた金はある。それで食いぶちはしばらく持つだろう。道の途中で何か稼げないこともないだろう。
 旅をしてみようかと思った。
 光に、色んなものを見せて……いや、五感で感じてもらいたい。きっとその内に光も自分がどうすればいいか、分かるだろう。
 だが、今はまだ、私にもそれは分からない。
 もしかすると、私は光を連れていばらの道に来てしまったのかもしれない。光にとっては、迷惑なことに過ぎないのかもしれない。
 だけど、それでも。
 光、君のことを、不幸にはさせない。
 君は、この私に「温かい」ということを教えてくれたのだから。






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