「おら、散歩行くぞタロー」
 朝、目が覚めてすぐにウチで飼っているタローの犬小屋に向かう。毎朝の習慣である犬の散歩だ。ついでにランニングも兼ねている。
 ウガ、とまだ寝ぼけたような返事をして、鎖をジャラジャラ言わせながらタローが犬小屋から出てくる。鎖を外してやり、散歩用のリードに繋げる。
 しばらくとぼけた表情でこちらを見上げていたタローだが、数秒もすると一息に覚醒して急に走り出す。それに引っ張られるように俺も走る。
 数分もすると、額に汗がにじんでくる。いつもなら一時間でも走り続けられる体力はあるが、自分のペースではなくタローのペースに合わせて走らなくてはいけないので、なかなかにハードだ。下手にロードワークをするよりか、よっぽどスタミナもつく。なんせタローは加減を知らないのだから。
 タローのペースに合わせて走っていくと、七分ほどで公園につく。ちょっと広めの公園で、野球のグラウンドが対角に二面広がっている。端っこには遊具も少しあって、昼間は子供たちで賑わっているし、朝方や夕方は、今の俺のように犬を連れてくる人も多い。ついでに近所の奥様方の井戸端会議の会場にもなってるらしい。 「タロー、止まれ」
 不満そうに唸り声を上げて、タローは立ち止まって振り返る。
 ほんの十分にも満たない時間なのに、もう汗だくだ。
「ったく……俺も鍛え方が足りないな」
 タローを繋ぐリードの持ち手をベンチの枠に引っかけて、俺は軽くストレッチをする。
「あれ? 神崎くん?」
 不意に名前を呼ばれ、俺は何か変な声で反応してしまう。振り返ると、野球帽をかぶった黒いミディアムロングの髪をした女の子がいた。手に握られたリードにはコーギーが繋がれている。見覚えがある、顔。
「えーっと……綾原?」
「そーだよー。気付かなかった?」
 クラスメイトの、綾原恵夢、のようだ。
 気付かなかった。も何も。
 いつもは、髪は三つ網でメガネをかけてて、制服は一分足りも崩さずに着ていて。こんな風にキャップをかぶってジャージなんて、こんな活動的な恰好をするなんて夢にも思ってなかった。しかもピンク色のお洒落なジャージが妙に似合っている。
 綾原のコーギーが、キャンキャン鳴きながら必死でリードを引っ張っている。
「こーら、リリー。よそ様のワンちゃんに構わないの」
「いや、いいよ。タローもまんざらじゃなさそうだ」
 と、視線を送ってやると、タローは目を見開いて、ぶんぶんと首を振る。そんなもん、無視。
 それじゃあ、と綾原はリードを伸ばし、綾原のコーギー、リリーが自由になる。自由になるやいなやタローにじゃれつく。ふぎゃーやら何やら、タローが悲鳴を上げた気もするが、当然気にしない。
「この公園、綾原もよく来るのか?」
「割とね。でも、神崎くんと会うのは、初めてだね」
「時間が違ったのかもな。ランニングの休憩場所にしているだけだから」
「ランニング……そっか。神崎くんは野球部だったっけ」
「まあな。三年いなくなってもベンチにも入れてないけど」
 ワウンッと、タローが悲痛そうな声を上げながらリリーを追い払っている。
 「いつまで鼻の下伸ばしてやがんだこのくそ主人。さっさと帰るぞ」とでも言ってそうな。
 タロー、お前、朝飯抜きな。
 キュウンッ!?
 人語に訳したら、「何で!?」みたいな声。
「神崎くん、えっと……」
 タローを見ながら、綾原は考え込む様子を見せる。どうやらタローの名前を思い出せないらしい。俺も話の流れで一度言ったきりだから当然だ。
「こいつ、タロー。平凡な名前だろ?」
「ああ、そうそう。タローくん。神崎くん、タローくんと仲いいんだね」
「もうこれ以上ないってくらいにな」
 と、俺はしゃがみこんでタローの首に腕を回してやる。タローは嫌そうな顔をしながら、クワンと一つ吠える。
 さっきからタローにちょっかいを出していたリリーは、タローがツンと突き放すもので、つまらなそうにしている。俺がタローを構っているのを見ると、今度は何を思ったのか俺の足元に絡んできた。
「あーこらっ、神崎くん迷惑してるでしょ、リリー」
「いいよ、綾原。タローより可愛いし」
 そう言うとタローを放してリリーの背中を撫でてやる。タローはといえば、なんとなく理不尽そうな顔をしている。
「でももう帰らなきゃ。学校に間に合わない」
「え?まだ結構時間あるぜ?」
「女の子は支度に時間がかかるのだよ、神崎クン」
 ふふっと小馬鹿にするように、綾原が笑う。
 不覚にも。
 本当に、不覚にも。
 ドキリとしてしまった。
 いつも見慣れた綾原の、思いもよらぬ意外な恰好を見ただけでも内心ドキドキしていたのに、こんなにも可愛いとこを見せつけられたら、変な勘違いを、してしまう。
「それじゃ、また学校でね、神崎くん。行くよ、リリー」
「ああ、じゃあな」
 綾原は背を向けて帰っていく。俺の脚に絡んでいたリリーも連れられていく。
 と。
 唐突に。
――あなたが、好き――
 頭の中に、そんな声が、響く。いや、声、というよりは情報としての言葉。
 久しい感覚だが、俺はその感覚に覚えがある。
 驚いて見開いた眼で真正面を見ると、リリーが帰るのを嫌がるように抵抗しながらこちらを振り返っている。そして、俺が見ているのに気付いた綾原が、ニコリと笑って、手を振った。
 俺は手を振り返しながら、口の中でぼやく。
(まさか……な)
 ドクン、ドクン、と心臓が打つのが自分でも分かる。
 顔を真っ赤にしている俺を、タローが呆れた顔で見上げていた。



 俺には厄介な能力がある。
 テレパシーが使えるのだ。いや、微妙に語弊がある。こう言うと自由に人の心を覗けるみたいな意味に取られてしまうかもしれないが、そんな便利なものじゃない。
 発動タイミングはランダム。さっきみたいに、唐突に、人の心が伝わってくるのだ。
 そして何より面倒なのは、相手が何を考えているか、じゃなくて、相手が自分をどう思っているか、が分かるのだ。
 そのせいで、随分と苦労をしたものだ。たまに、「お前って、いつも斜に構えてるよな」といったことを言われることがあるのは、そのせいだ。
 しかし、この法則を当てはめれば、あの時の、「あなたが、好き」というテレパスは、間違いなく、綾原の俺への気持ちなのだ。
 だけど。
 まさか。
 そんな。
 都合のいいことがあるわけがない。
 自分に言い聞かせながら、俺は普段どおりに彼女と接することにした。



「おはよ、神崎くん」
 いつもなら声をかけてくることなんてそうそうない綾原が、今日は登校してくるなり、離れた席に座る俺のところまできて、声をかけていった。ほとんど素通りだったけど、いつもとは、明らかに違う。
 トクン、と脈が早くなる。
 別に彼女は気にしてもいないのだけど、それが、逆に、俺には重い。
 その後、放課後までずっと、特に関わりはなかったのだけど。
 どうしても、気になってしまう。
 一度気になってしまうと、それは、何をしたって消えやしない。
 おかげさまで部活の練習も全然集中できず、元々下手くそなのが、さらにボロボロになってしまう。
 監督には怒られ、先輩にも怒鳴られ、クタクタになるまで居残りノックをさせられて。
 ようやく学校を出たのは、もう8時を回っていて、外は真っ暗で、帰宅の途では自転車のライトだけが頼りなく正面を照らしていた。
 その弱々しい灯りが、暗闇に誰か生徒の影を浮かび上がらせる。見覚えあるその影に、はて、と俺は首を傾げる。ペダルを漕ぐ足を離して、惰性でその生徒に近づく。
 女子生徒。
 はっと、気づく。
「綾原?」
 声をかけると、彼女は振り向く。三つ網で、メガネで、いつもの綾原。今朝見た活動的なあの格好とは、全然違う。
 綾原の隣に自転車を止め、カバンを前のカゴに突っ込む。入りきらないので、置く、という表現の方が正しいのだけど。
「あ、神崎くん。こんな時間まで練習? 偉いねー」
「そんなこと言う綾原だって、こんな時間まで残ってんじゃん」
「私は、ほら、生徒会のお仕事」
 そういえば綾原は生徒会に入っていて、文化祭はあと二週間に迫っていた。文化祭なんて、秋季大会の最中に催されるせいで、俺には関わりもないためにすっかり失念していた。
 どことなく、疲れている様子も見受けられる。
「後ろ乗るか?」
「え?いいよ、だって、神崎くんに悪いよ」
「いーよ。気にすんなって。家、あの公園の近くなんだろ?」
 乗れよ、とぶっきらぼうに後ろを叩く。
 それでもしばらく迷っていたが、「それじゃ、お願い」と綾原は後ろに跨った。
 綾原は、比較的軽い方だとは思うけど、やっぱり、二人乗りはペダルが重い。地面を足で蹴りながら、少しスピードに乗ったところでペダルを漕ぎ始める。少しふらつきながら、スピードに乗る。
「神崎くん、体力あるんだねー」
「そりゃ、毎日先輩たちにしごかれてきたからなあ」
「野球部の練習、厳しいもんねえ」
「もー信じられねーくらいな。よく半年ももったよ。むっかつく先輩もいるしな」
「あー、そういうこと言ってるの、先輩に聞かれたらどうなるのかなー」
「多分、ノックで殺される」
 あははー、と綾原が笑う。
 何ていうか、多分、俺は、綾原を好きになりかけている。
 けど。
 彼女の声が聞こえない。
 やっぱり、あれは俺の気のせいだったんじゃないだろうか。
 そう思い始めたところで、綾原が俺の袖を引っ張って、ブレーキを促す。
「あ、ありがと。そこで降ろしてもらっていい?」
 そう言われて、俺は急ブレーキをかける。ちょっと前のめりになってしまう。綾原はといえば、何ともない様子でトン、と自転車を飛び降りて、道路に着地する。スカートが、ひらりとめくれたような気もするが、暗くて分からない。悔しいような、悔しいような。
 ぼんやりと、綾原の背後を見る。
 ゲ、と喉を潰したような声を出してしまう。
「なあ、これ、綾原の家?」
「うん。大げさなのが好きなんだ、うちのお父さん」
 そう言って、綾原が見上げる、彼女の家は、周りの家々よりも一回りは大きくて、敷地自体は二倍もあるかもしれない、そんなお屋敷だった。
「もしかして、綾原って、とんでもないお嬢様?」
「そんなことないよー。いたってフツーの女子高生だよ」
 はて、こんな家に住んでる人の言うことを、信じろという方が、無理じゃないか。
「送ってくれてありがと。それじゃ、また明日ね」
 変なことを考え込んでいた俺を、綾原が現実に引き戻す。
 適当に返事をして、綾原が手を振るのに、笑顔で返す。彼女は何も気にせず、家の中に入っていく。
 今日、二度目のさよなら。
 でも、やっぱり、彼女の声は聞こえない。
 あれは、やっぱり気のせいか。
 だけど。
 そう思った時。
――あなたが、好き――
 今朝と同じ、まったく同じ、あの声が、頭の中を駆けた。
 ああ。
 と俺は切なく息を吐く。
 たぶん、俺は、綾原を好きになりかけている。
 けど。
 何ていうか、こーいうのって、違う。
 だって、俺は。
 彼女が俺のことを好きだと思っているから、好きになろうとしているのだから。
 それって、ずるいと思う。
 はぁ、と俺はもう一度ため息をついた。



 ブンっ、ブンっと、バットを振り回す。
 人気の全くない公園で、心もとない街頭の下で幾十幾百も素振りを繰り返す。時間も分からない。額からは汗が染み出てきて、頬を伝って、顎から滴るほどに。腕は疲労で震え、息は切れる。
 家にいても、無駄に考えるばっかりだから。
 それくらいなら、体を動かしていた方がいい。
 結局のところ、俺は、馬鹿だから。
「あれ、神崎」
 不意に声をかけられ、反射的に、振り返る。思わず、綾原なんじゃないかと思った俺の目の前にいたのは、チームメイトの春市だった。同じ中学の出身だが、元々上手いやつだから、三年がいなくなってすぐにレギュラーになった。
 中学時代からの付き合いなおかげで、よく話す相手だ。
「素振りか。努力家だなー、神崎は」
「そーいうお前は、こんな時間に、何してんだよ」
 ジャージ姿の俺に対し、もう10時を回った遅い時間にもかかわらず春市の恰好は、ダメージジーンズにジャケットを羽織り、大きく開いた胸には銀のネックレスをして、これから遊びに行くような、私服。
「ちーっと彼女から呼び出しくらってさー。クラブにいるから一緒に飲もうよって」
 ヘヘ、と笑う春市を、俺はどうしようもなく、ムカついた気持ちで見る。
 なんでこんな奴が、レギュラーになれるほど実力があって、俺には、才能がないのか。
 畜生。
 春市に視線を向けているだけで、イライラした気分が溢れてきそうで、軽く無視する感じで、素振りを再開する。
 ふぅ、と春市は息を吐いて、携帯を開き、時間を確認する。
「んじゃ、俺行くわ。ま、早く一緒に試合出ようぜ」
 ポン、と肩を叩いて、春市は公園を出ていく。
 なんていうか、無視して、悪いことしたな、と思いながら、春市の背中を見る。
――下手くそがいくら練習したって無駄なんだよ。目障りなんだよなー。あーいう奴がいるから、監督も練習増やすし、ったく、やってらんねえ――
 激しい、嫌悪の入り混じった、彼の声。
 思わず、俺はバットを落とす。カラン、コロン、と地面を転がり、円を描く。
 その音に振り返る様子も見せず、春市は公園を去ってゆく。
 俺は俯き、久々のそれに、唇を強く噛んだ。
「畜生」
 さっき心の中で言い捨てた言葉を、今度は口に出して呟いた。
「畜生、畜生畜生畜生畜生」
 繰り返し、繰り返し繰り返し繰り返し繰り返す。
 そうしないと、溢れる涙を堪えることができそうにないから。
 ヒトが醜いのは、とうの昔に分かっていたはずなのに。
 悔しくて、悔しくて、俺は地団駄を踏んだ。誰も、見ている者はいない。



 疲れ切って、でもすぐに家に帰る気にもなれなくて、とぼとぼと真っ暗な住宅街を歩きまわる。バットを担ぐ気力もなく、ガラン、ガロンと地面に引きずる。
 行くあてもなく、ぶらぶらと。
 ふと気づくと、見覚えのある場所にいた。
 綾原の家の前だ。
 でっかい屋敷も、もう窓に明りはなく、しんと静まり返っている。
 わん、と、静寂に鳴き声が響く。
 はて、と見ると、門の向こう側にリリーが出てきていた。確か、家の中で飼っている、と綾原は話していたはずなのだが、これはどういうことだろう。抜け出してきた、のだろうか。
 そんな風に俺が悩んでいると、いつものが、来た。
――あなたが、好き――
「え?」
 と俺は声を出して、周囲を見回す。
「綾原?いるのか?」
 と名前を呼んで、彼女の姿を探す。もちろん、どこにもいない。
 俺の近くにいるのは……。
 彼女の愛犬の、リリーだけだ。俺を見上げて、ぺろりと舌を出して、はぁはぁと息を荒くしている。
「まさか……お前なのか?」
 ハハ、ハハハ、と、疲れた声で俺は笑う。枯れた笑い声は、夜に消える。
 そういえば、そうだ。
 最初に会った時も、彼女の家に着いた時も、そうだ、この犬が傍にいたはずなんだ。
 それに、本当は、ずっと違和感を感じていたのだ。その違和感が何か分からないからずっと無視してきたが、今、その正体に気づいた。
 感情が、ひどく単純だったのだ。
 春市の感情をしっかりと感じ取ったように、いつもなら、ずっと、複雑で詳しい感情が入ってくるはずなのに、「あなたが、好き」という簡単な感情でしかなかったのだ。それは、相手が犬だったからで、元々感情が単純だったからで。
 結局、綾原が俺のことを好きだというのは、完璧に俺の思い込みだったわけだ。
 畜生なんて口にできるほど気力もなくて、俺は力ない笑いを続けた。
 リリーは、相変わらずの様子で俺を見上げていた。



 あの声がリリーのものだと気付いて一週間。
 秋季大会は春市の失策で一回戦敗退。試合開始直後から眠たそうにして、試合に集中していなくて、試合の流れを決める大切なところでミスをしたものだから、監督の怒りが爆発。あの様子だと、レギュラーを外されるのは間違いなさそうだし、もしかしたらベンチからも追い出されるかもしれない。そんなことになれば、プライドの高いあいつのことだから、最悪退部もあり得る。別にどうも思っちゃいないけど。
 いい気味だと笑うことはしないけど、内心、ざまあみろと思ったのは嘘じゃない。
 秋季大会が始まるまでは練習に打ち込んでいれば綾原のことを忘れてしまえたのだけど、終わって、練習が少なめになってしまうと、やっぱり少し未練が残っている自分に気づく。
 しかも、どうやらそれは、冷めるどころか、より強くなっていってるような気がする。
 あのいつもの綾原と、髪をほどいた無性に可愛い綾原とのギャップに、どうしようもなく、俺は綾原を好きになってしまったみたいだ。
「おら、タロー、散歩行くぞ、散歩」
 とはいえ毎朝の習慣は変わらずやるわけで、やらない理由もないわけで、文化祭の日になった今日も、あの日と同じようにタローを連れて道を駆ける。
 妙にタローの機嫌がいいのは、俺が元気がないのが分かるからか、なんとなく気に入らない。
 そして、リリーの声を聞いた公園に俺は着く。
「あん時は、あっちの方で休憩してたんだっけか」
 独り言ちながら、タローを引っ張って連れていく。
 はてと、頭の中にあの声が響いた。
――あなたが、好き――
 あー、と俺は足を止めてしまう。
 どう、しようか。
 ひとりで勝手に気まずさが先行してしまって、くるりと背を向けてしまう。
「あれ、神崎くん。また会ったね」
 先に、気づかれてしまう。
 できるだけ硬直した表情にならないように、自然な笑みを見せようとしたのだけど、振り返った俺の表情は、多分、やっぱり自然にできてなかったと思う。
「うぃっす」
 少し目をそらしながら、俺は応える。
「どーしたの?変な顔しちゃって」
「別に何でもねーよ」
「分かった、大会で負けたのが悔しいんだ」
「それもあるけど……綾原には関係ないよ」
「むー、なんか悔しいなあ」
 ぷーっと頬を膨らませて見せる綾原。
 ああ、やっぱり。
 無性に。
 可愛い。

 唐突にうつむいてしまった俺に、綾原は心配そうに声をかける。
 もしかしたら、俺は大事なことを忘れていたのかもしれない。
 人の気持ちが分かるから、ひどい勘違いをしていた。
 気持ちは、言葉にしなきゃ、伝わらない。

「あのさ、綾原」
「ん、何?」
「今日の文化祭、一緒に回らないか?」
 まさか、いきなり「付き合ってくれ」なんて言えるほど俺には度胸はないから、これが、精一杯。
 それだけを言い切って、俺は綾原の顔を真正面から見ることもできず、そっぽを向く。
 綾原がどんな顔をしているのか、分からない。
 くくく、と綾原の笑い声が聞こえる。
「いいよ。でも、学校じゃ、私、三つ編みメガネの地味子ちゃんだよ?」
「いい、の?」
 あまりに即答で、俺は驚く。
「リリーも神崎くんのこと気に入ってるみたいだし、神崎くんって、いい人だし」
 それにね、と綾原が言葉を続ける。
「私のこと好きになったの、結構前でしょう?」
 へ……と、俺は目を見開く。
 ずっと前から、知ってたから、こんなにも早い回答だったのか。
 まさか、もしかしたら……。
「もしかして、綾原って、テレパシー?」
「あははっ、何それ、神崎くんそういう冗談も言えるんだ」
 一瞬怪訝そうな顔をして見せた後でいかにも愉快そうに笑う綾原に、はは、と俺はつられて笑う。
 そりゃ、そうだ。テレパシーを使える人間がそう何人もいたら困る。
「でもねぇ、神崎くん」
「え、何?」
「女の子は、みんなテレパシーが使えるのだよ、神崎クン」
 綾原がはふふんと得意げな顔をして見せる。
 タローが、「お熱いことで」とでもいう風に、つまらなそうな顔をしていた。 inserted by FC2 system