「ん……」

 朝。目覚ましを止めて、目を開く。

「また……まただ……」

 眠りながら、涙を流していたみたい。……何の夢だったのだろう。それも思い出せない。残るのは得体の知れない虚脱感と心にあいた空白。

 私はベッドから起き上がるのをためらった。

 なぜか……もう一度夢に帰りたかった。

 でも、現実はそんなに幻想的じゃない。

「……用意しなきゃ」

 あと一時間したら仕事場にいなくては。私は逡巡を眠気のせいにして立ち上がった。

−2−

 私には、海の向こうに行った恋人がいる。

 写真家になる夢のため、二年前の夏、旅に出た。

 連絡もないまま、そろそろ二年と半年。もしや私のことを忘れてしまったのではないかなどと、私はくだらないことを考えていた。

−3−

 五時。私は会社を出て、家に向かう。

 途中、自販機でコーヒーを買うため、百円玉を入れようとしたら、手からすり抜けて落ちてしまった。

「……もう」

 拾い上げようとした手に、手が触れる。

 顔を上げると、そこには、

「……嘘……」

 微笑みかける、彼――英治がいた。

−4−

「帰ってきたなら、言ってよ」

 マンションのエレベーターの中、わざと不満げに言う私に、英治はすまなそうに笑いながら、

「あはは、ごめんごめん。今日戻ってきたばっかだから。それに、おどろかせたくて、ね」

「何も用意できないけど……」

 言いながら、私はドアを開ける。

 電気をつけると、鞄をソファーに放って、早口で告げた。

「今、何か作るから、待ってて」

 英治はやはり微笑んだまま、「うん」とうなづく。

 パスタはあるけど……ソースはどうだろ。ホールトマトとかあったっけ……私は、冷蔵庫を開ける。あ、そうだ。飲み物どうするんだろう。

「コーヒーでいい?」

「うん。絵美のコーヒー、おいしいんだよな」

「うふふ、ずっとインスタントだよ?」

「それでも、絵美が淹れてくれるんだから特別だよ」

 他愛もないことから、二年前の日常が蘇える。何か、すごく懐かしい……

−5−

「美味しかった?」

「うん。久しぶりだからね、絵美のパスタ」

「それしか作れないけど、ね」

 私はお皿を洗いながら、自然に笑っていた。そういえば、ここの所全然笑ってない。

 お皿洗いが終わると、私は居間に戻ってきた。英治は相変わらずにこにこしながら私を見ている。

 でも……なんだろう、この、変な感じ……

 懐かしいような、何となく漂う違和感が、どうしても素直に見せてくれない。

「ねえ、英治――」

 不意に、英治が私を抱きしめる。

 その瞬間だった。

 私の心の中の空白に、あざやか過ぎる思い出が流れ込んでくる――

−6−

「行ってくるよ」

 それが、英治を見た最後だった。

「147便太平洋沖で消息を絶つ」

 そのニュースを見たとき、私は動けなくなった。

 147便は、英治が乗った飛行機だったのだ。

−7−

「……そんな……」

 それじゃあ、この英治は……?

「ごめんね、絵美。……最後に、もう一度逢えて……良かった……」

 英治の体が、薄まっていく――

「そんな、やだよ、英治」

「もう、忘れないでよ……」

「いやっ!」

 抱きしめようとした、私の手は、無常にもすり抜けて……

 最後の英治の声は、かすかに――

「思い出の中に……いるから……」

−8−

 朝。目覚まし時計を止めて、目を開く。

「……あっ」

 枕を濡らしているはずの涙は、出ていなかった。

 何かから開放されたような――そんな感じ。

「……さて、と」

 大きく伸びをして、私はベッドから立ち上がった。

 すがすがしい朝日も、今日は私をやさしく照らしてくれていた――

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