1945年1月。日本は敗色濃厚となり、各地の基地は日章旗に代わって連合軍旗が立てられていった。
そんな中、南方のとある島に、一人のパイロットがいた。
彼の名は大橋 覚。第九艦隊所属、二九三八飛行隊、通称「アラワシ」の隊長である。
彼は、生涯撃墜数約百五十機を越すと言う、まさに「エース」であった。
しかし、彼はエースであると同時に、多くのパイロットの憧れの的であったという。
当時を知る元「アラワシ」、島崎深雪氏の話である。
「隊長(大橋)は、まさに僕たちのヒーローでした。面倒見もよく、人間としても奥深い方で、まだ青年だった我々には、隊長はそれはもう神の様に写っていました」
また、同じく元「アラワシ」北原金雄氏は、こうも語る。
「隊長は面白い方で、よく冗談を言ってらっしゃいました。新兵だった私などは、ガチガチに緊張していたのですが、隊長のおかげで随分楽になったことを覚えています」
そして、大橋はよく隊の者にあだ名を付けていたと言う。
「カンヅメ」と呼ばれていた元隊員で作家の倉岡幸一氏は、著書「アラワシ」でこう記している。
『僕は、配給のカンヅメが来るたびにそれで友人と缶蹴りをしていた。ある日それが隊長の目に触れ、首謀者ということで呼び出しを受けた。てっきり説教されるものと思っていたら、隊長はニッコリ笑って、僕に、「以後君の事は「カンヅメ」と呼ぼう」と言った。正直、センスはないとは思ったが、そこもまた彼のよさでもあった』
このように彼の人徳は、挙げればキリがないほどである。
さて、攻撃――連合軍側の作戦名では「スペード作戦」――があった24日であるが、大橋含む隊員は全員が就寝中であった。そこに、米軍飛行隊が飛来したのである。
−2−
第一波攻撃を耐えた基地から、スクランブルで「アラワシ」は飛び立った。
敵の帰還した方向に飛び、母艦を殲滅せしめんというわけである。
この無謀な作戦に、当時の配備機、「ゼロ戦」と「飛燕」およそ三十機が出撃した。
この戦闘を振り返って、元「アラワシ」、国井健美氏は、「惨たる物でした」と一言で表している。
攻撃に行ったもので、生き残りはたった四期だったと言う。敵艦を数隻轟沈させるも、立て直した敵が再び襲ってくるのは明白であった。そこで、大橋は、こう命令している。
「僚機は急ぎこの火急を知らされたし」
つまり、自らを置いて撤退しろ、ということである。
国井氏は、
「それはもちろん反対しました。隊長と共に戦いたかったのです。しかし、隊長は断固として撤退を命じました」
そして、彼らは撤退する。この時、午前一時。
基地に着き、防戦準備が済んだのは午前五時三十分である。日の出は近かった。
しかし、結局、連合軍の第二波は来なかった。
立ち上る朝日に、「アラワシ」の面々は口々にこう言った。
「隊長は旭日となられた」と。