午後六時。
窓の外では、夏の遅い夕暮れが、空を群青に染め抜いていた。
僕は、つらつらと数式を書く手を止めて、遠くから流れてくる祭囃子に耳を傾ける。
と、不意に、ゆるくぼやけた太鼓の音を断ち割って、無機質な着信音が部屋に響いた。
「宮本です」
「あ……ヒロ?」
「あぁ、マイ。どうしたの?」
耳に近づけた受話口から聞こえてきたのは、マイ―川村 舞衣の声だった。
「えっと……今日、これから暇?」
「んー、まあ、暇かな」
「本当?」
そう言うマイの声は心なしか弾んだようだ。幼いときからずっと同じの、無邪気に笑む顔が目に浮かぶ。
「じゃあ、これからお祭りいかない?」
「えっ? 二人で?」
「そう。だめ? 誰か誘おうか?」
「いや、別にいいよ。それじゃ、今から迎えにいくから」
「うん! 待ってるね」
マイとは、親同士仲がいいからか、物心つく前から一緒にいた。僕がどこに行くにもついてきて、そのくせちょっと転んだぐらいで泣いちゃって。その度に慰めてやったっけ。
お互い一人っ子で、同い年のはずなのに、兄弟のような感じだったのを覚えてる。
そういえば、祭りでも何か、大変なことがあったような……
そこで僕の思考は止まる。
マイの家の前に、誰かがいるのだ。
紺の浴衣に紅の帯、遠目にも分かる白い肌。
憂いを秘めた瞳は、しかし最も見知っている少女のものだった。
「……マイ?」
無意識に、その名をつぶやく。それが聞こえたわけでもないだろうが、マイはこちらに気づき、いつもの明るい表情に戻って駆け寄ってきた。
「ヒロっ!」
「ごめん、マイ。待たせちゃった?」
「ううん、全然! さ、行こっか」
マイは僕の手をとって歩き出す。
夏の空気に乗って、ふわりと石鹸の香りが鼻をくすぐった。
そういえば、マイの長い黒髪がしっとりと湿っている。
それは、美しい艶となって繊細な横顔を彩る。
(大人っぽく、なったな)
幼いころの面影はそのままに、マイは成人した女性のみが持つ色合いを得ようとしていた。
視線に気がついたのか、マイは頬を赤らめ、恥らうように言った。
「どうしたの? 去年も一昨年も見てるでしょ?」
「ん、いや、何か今年は違うなって思って」
「そ、そうかなぁ?」
マイは小首をかしげ、恥ずかしさとうれしさの混じったような笑みを見せた。
段々とはっきり耳朶を打ち出した祭りの賑わいは、どこか去年と違うように聞こえた。
「ねえ、ヒロ」
マイがいきなり僕の腕を引いたのは、人であふれる神社の長い石畳を、半ばまで過ぎたところだった。
「ん?」
「こっち、来て」
言うや否や、マイは石畳をはずれ、神社の近くにある森へと僕を引っ張っていった。
喧騒から離れるにしたがって、僕の脳裏にある考えがよぎった。
(もしかして、森の中で……)
聞いたことのある話だ。こういう祭りの日、カップルは外でそういう事をするという。
(ま、まさか、な。その前にカップルでもないし。そんなわけ……)
はた、とマイが足を止めた。
少しの沈黙の後、ゆっくりとこちらに向き直る。うつむき加減なのと薄暗いのとで表情はうかがえないが、この展開……
「……ヒロ……」
「マ、マイ、いけないよ、こんな……」
「見て」
「え?」
マイの言葉に振り向くと、そこには儚く宙を舞う光の群れがあった。
「うわぁ……」
感嘆の声を漏らす僕に、マイは静かに言う。
「きれいでしょ? 今じゃ珍しいんだって、こんなに蛍がいるの。ずっと前、ヒロが連れてきてくれた時から変わってない……」
「僕が?」
すると、マイは少し悲しそうに微笑んだ。
「覚えてない、か……そうかもね。二人とも、まだ小さかったし」
その時、心に引っかかってた何かが、すっと解けた。そう。あれは……八歳のころ。二人して祭りで迷子になっちゃって、泣き出したマイをつれてここまで来たんだ。
きれいに光る蛍の群れをみて、僕もマイもしばらくここにいて……
「思い出した、マイ」
僕がこういうと、マイは顔を上げ、喜びに表情を輝かせた。
「じゃあ、あの約束も……?」
その問いに、僕はうなずく。
あの時、僕はマイに、「ずっと一緒だよ」と約束をした。
マイはその約束を、十年たった今も覚えていたのだ。
「マ……」
言いかけた僕の声は、空高くに広がる花火の音にかき消された。
光が、辺りを一瞬昼のように照らす。
マイが、その身を一歩前に出した。
「もう一度聞かせて……あの言葉を……次の花火が上がる前に……」
迷ってる暇など無かった。僕はマイの華奢な体を抱き寄せ、言った。
「ずっと、一緒だ。マイ」
「ヒロ……!」
僕の答えと同時に、空に二発目の大輪が咲いた。
無数に広がる赤い花びらは、マイの潤んだ瞳に反射し、星空のように輝いた。
マイはその目を閉じ、静かに唇を重ねてくる。
その温もりは、マイの深い想いと共に僕の心の奥に沁み込んでいった