昼休み。だれも寄り付かない旧校舎の裏から、あざけりのような声が聞こえていた。
声の主は、複数の女子。それに対して、気の弱そうな声が形ばかりの抵抗をする。
「や、やめてよ……」
「うるせーよ!」
「あぁっ!」
グループの一人に腹を殴られ、少年は小柄な体を折り曲げる。
耳を隠すほどの髪と、端正な顔立ち、そして甲高い声は、まるで女子を思わせるほどである。が、彼、高原勇希は、れっきとした男なのだ。
勇希はその容姿と、気弱で優しい性格が災いし、中学校の時分から女子を中心に陰湿ないじめにあっていた。それは高校には今でも続いている。
グループのリーダー、中島は、何かに付けては勇希に因縁をつけ、ここへ呼び出しているのだ。
無論やり返せるわけもなく、毎回泣かされていたのだが、そこに必ず現れて、さっそうと勇希を守る、”王子様“がいた。
「やめろっ!」
校庭への出口から響いた凛とした声に、勇希を小突き回していた集団はいっせいにそちらを向いた。
そこには、ショートカットを揺らして入ってきた一人の少女が、まさに戦神のごとくに中島たちをにらんで仁王立ちしていた。
そう。彼女こそが勇希の王子様こと、皆川つかさである。
「つ……つかさちゃん……」
勇希の力ない声に、つかさは大またで近づいてくる。
一直線に向かってくるつかさを挑発するように、中島は口を開く。
「王子様のご登じ―」
そこで、中島の声は途切れた。正面から放たれたつかさの右ストレートが、顔を完全につぶしていたのである。
鼻を中心に凹んだ顔をそのままに、中島は仰向けに倒れた。
他のメンバーが慌てるうちに、つかさは勇希の腕を引っ張ってその場を離れていった。
「怖かった……いつもありがとう、つかさちゃん」
「はぁっ?」
教室に戻る道中、勇希の言葉を聞いて、つかさはその顔をにらみつけた。信じられない、といった面持ちである。
「大体ねぇ、ユウ、キミが頼りなさ過ぎる」
つかさは、整った目鼻立ちを持った、いわゆる美少女なのだが、男勝りの竹を割ったような性格と、異常なまでのケンカの強さから、男からというよりむしろ女子から好かれているほどである。
「いつもいつも黙ってやられっぱなしで、恥ずかしくないの? そんなだから中島たちもつけ上がるんだよ?」
「……ごめん」
肩を落とした勇希を、つかさは大声でしかりつける。
「まーた謝った! だから、それがいけないの!」
「ご……ごめん」
「……」
言ってから、勇希は自分が犯した間違いに気がついた。つかさは何も言わずに去ってしまう。
「あっ、待ってよ、つかさちゃーん!!」
放課後、生徒達が足早に学校を去っていく中、勇希は一人つかさを探して歩き回っていた。
終礼のあとにふと見ると、いつの間にか教室からいなくなっていたのである。
下駄箱とは逆方向の廊下に歩いていったところで、勇希はつかさの背をみつけた。
「つかさちゃ―」
呼びかけようとして、勇希は声を飲み込む。
話している相手は、男だった。
同じクラスの、陸上部エース、黒田である。
黒田は、学校中でも有名な、文武両道の好青年で、内外問わず言い寄る女子は数知れない。
勇希は、心にふっと不安が差すのを感じた。
(―もしかして……もしかして……)
「皆川、頼む。俺と―」
付き合ってくれ―
その言葉が出る前に、勇希は耳をふさいだ。
しかし、直後に自らの行動が早計であると気付き、手を耳から離す。
そう。まだつかさの返事が決まったわけではない。
勇希は一縷(いちる)の望みにかけた。つかさが断ることに、である。
しかし、考えた、というにはあまりにも短すぎる間で、つかさは返答する。
「いいよ」
耳からその言葉が入った瞬間、勇希は、心臓を鋭い針に刺されたような感覚に、一瞬、思考を止めてしまった。
「−そんな……」
蚊の泣くような小さい声でつぶやくと、勇希は反対を向き、まるで死人のように重い足取りでその場を去った。
「―今まで、守ってくれてたのに……」
中学校に入るずっと前から、それこそ幼稚園のときから一緒だった。
たった一人、どんな時も味方をしてくれた幼馴染。
こんな風に思うのは自分勝手かもしれない。けど、ずっとそばにいて欲しかった。
もしかしたら、いつまでたっても弱い自分のことを、イヤになったのかもしれない。
勇希は、目の裏がむずがゆくなるのを覚えた。指でこすると、いよいよ熱くなってくる。
「うっ、うぅっ……」
涙が止まらなかった。まるで、堰を切ったダムのように。
でも、もう慰めてくれる人はいない。そう思うとさらに悲しみが倍加していく。
「ぐすっ……」
前後不覚のまま下駄箱を出たところで、そのいくてに数名の影が立ちはだかる。
「あら、ユウちゃんじゃないの。あらまぁ、どうしたのかしら? 泣いちゃって、みっともない」
嘲りたっぷりにそう言い放つのは、そう、中島である。つかさがいないとみて、昼間の借りを返しにきたのだろう。その鼻っ柱には、しっかりと大判のガーゼで手当てがしてある。
手下が勇希を囲み、人気のない体育倉庫の裏まで連れて行く。
「オラてめえ、レイカ先輩に謝れよ!」
およそ女子とは思えない言葉遣いで、勇希を囲んだ女子達はののしり始める。その様子を、中島はさも楽しそうにながめている。
しかし、勇希はじっとうつむいたまま動かない。業を煮やしたのか、グループの一人が足を蹴るも、勇希は、痛がるどころか声すら出さなかった。
それが面白くないらしく、さらにわき腹を殴打する。
これは効いたらしく、勇希はがくっとひざを折り、地に伏す体勢となる。
そこに付け入って、まるでボールでも蹴るかのように滅多打ちに蹴り続ける。
それでも、まだ反応を示さない勇希に、中島は突然爆発した。
勇希の頭を何回も踏みつけ、ヒステリックに叫び始めたのだ。
「このカス! 何か言ったらどうなの!? いつもみたいに泣きなさいよ!みっともなく許しをこいたら!?」
その様子に先ほどまで勇希をなぶっていた面々も動きを止め、ただ見守るだけとなった。
中島がこの学校で恐れられている理由。それはこの、感情が激した時に手が付けられなくなる性格から来ている。
まるで発狂したかのように、自らを怒らせたものに暴力を振るい、動かなくなるまでつづけるのである。
と、不意に中島はその動きを止め、何かに気付いたようにうち笑い始める。
「ふっ、あっははははははっ!!」
その、あまりの狂気に、今はもう成り行きを見守る観衆と化した取り巻きたちは立ちすくんだ。
まもなく中島が突然哄笑した理由をその中の一人が見つける。激しく踏みつけられた勇希の頭部から出血していたのだ。
「こんな風になっている時来ないだなんて、随分と使えない王子様ね、ふっ、ふっははははははははっ!! あーっはっはっはっは!!!」
まるで汚物でも見るような目で勇希を見下ろすと、その腹部を思いっきり蹴り飛ばす。
力なく横ざまに倒れる勇希を見て中島は嘲笑した。
「カスの王子も、やっぱりカスね。そうやってのたれ死ぬがいいわ、カス」
「違う」
中島が口上を言い終わらない内に、勇希は口を開いていた。
「……つかさちゃんは……カスなんかじゃ……ない」
勇希は、言いながら、ゆっくりと体を起こす。
まさかこの状態で勇希が起き上がるとは考えていなかった中島たちは、瞬時唖然とするが、直後に中島一人は血走った目でわめきたてた。
「この……カ―」
しかし、その鼻を、またも拳が砕き潰す。
勇希の右手が、きれいに入っていた。
崩れ落ちる中島を認めると、リーダーを失った周囲はその体を担ぐと、我先にと逃げ散っていった。
入れ替わりに、聞きなれた声と共に駆け込んでくるものがあった。
「ユウっ!」
まもなくつかさは、勇希の額から流れる血に気がついた。
「だっ、大丈夫っ!?」
すぐにハンカチを取り出すが、勇希はそれを手で制す。
「……ユウ?」
心配そうに顔を覗き込むつかさに、勇希は微笑みを向けた。
「僕、もう、つかさちゃんがいなくても、平気だよ」
「……えっ?」
その言葉の意味が分からなかったかのように、つかさは間を置いてから聞き返した。
勇希は、少し伏し目がちになりながら答える。
「だって、これからは、僕がいたら邪魔でしょ?」
「はっ?」
いよいよその意がつかめないらしく、素っ頓狂な声を上げるつかさに、勇希は一瞬の逡巡のあと、一気に吐き出した。
「だって、く、黒田とつきあうんでしょっ?」
うん、という返答が来ると決め込んでいた勇希は、ぐっと拳をにぎり、その言葉に耐えようとした。
しかし、少しの沈黙の後のつかさの声は、勇希を混乱のふちに追い込んだ。
「あっははははっ、く、く、黒田と、付き合うだって!! あーっははは、おかしーっ!」
「なっ、なっ、何で笑うの!?」
肩透かしを通り越して困惑する勇希に、つかさは笑いの発作を必死に押さえながら言った。
「だっ、だって、誰があんな筋肉! あー、おかしい、おかしすぎる……だーっはっはっはっは!!」
つかさのあまりにもあまりにもすぎるリアクションに、勇希はただただ目をぱちくりさせることしかできなかった。
真実は、こうだった。
つかさは、放課後、黒田から「折り入って話がある」といわれ、あそこへ呼び出された。
そこで頼まれたことというのが、「今度の陸上大会で、男女混成リレーに自分と同じチームで出て欲しいというものだったのである。
それが「俺と同じチームで出て欲しい」という台詞であったのは言うまでもない。
県の記録保持者であるつかさがいれば、無論優勝も夢ではない。つかさとしても、断る理由がなかったので、その頼みを「いいよ」と受けたのである。
ちょうど頼む内容を言ったところで耳をふさいだ、勇希の大きな勘違いだったというわけだ。
「あっははは、勘違いしてやんのー!」
まるで新年のお笑い特集でも見ているかのように大笑いするつかさに、勇希はひたすら赤くなるのだった。
ひとしきり笑い終わると、つかさは、ふう、と一息入れて、
「でも、よかった、ユウ。キミが強くなれて」
次につかさの顔に浮かんだのは、あわい笑みだった。
夕焼けが反射し、まるで水彩画のように鮮やかではかない美しさをかもし出す。そこにはいつも暴れまわっている活発な幼馴染の面影は薄れ、一人の少女としてのいじらしい可憐さが浮かんでいた。
勇希が息を呑むと、つかさは今度はふっと顔を曇らせ、そこに悲愴的な微笑を見せる。風が吹けば倒れる野の花、そんな弱々しさと美しさに満ちた微笑である。
「……もう、私は必要ないんだよね。―それで、いいのかもしれない。これからは付きまとわないで、ユウを自由にしたほうが、キミのためだよね」
ひゅっと、一陣の微風が二人の頬をなでる。
「……じゃあ、ね」
つかさはくるっと振り向き、そのまま立ち去ろうとした。
―今引き止めないと、ずっとつかさちゃんとは離れたままだ―
「待って!」
漠然とした、しかし確実な不安から、勇希はつかさの手首へ手を伸ばしていた。
「あっ!」
手首を捕まえると、つかさは思わぬ力にバランスを崩してしまう。そこに、勇希が、その体を押し倒す形に倒れこんだ。
「うひゃあっ!」
「きゃぁっ!」
互いに顔を見合わせ、真っ赤になったまま二人は動きを止めた。
どれくらいたっただろう、先に口を開いたのは勇希だった。
「……行かないで」
「……」
勇希の思いのほか積極的な行動に、つかさは何を言うともなく、口をぱくぱくさせていた。それにかまわず、勇希は続けざまに、言った。
「ずっと……そばにいて」
「……ほ、本気?」
「え?」
「本気で言ってるの?」
勇希は、無言でうなづく。すると、つかさはたちまち目に涙をため、うれしそうに微笑んだ。その、幼馴染が一度も見せたことのないなんともかわいらしい表情に、勇希は心臓が強く鼓動し始めたのを感じた。
「私も……好きだよ、ユウ」
そういうや否や、つかさは勇希の首に手を回し、ぐっと引き寄せた。
「あっ……!」
勇希の驚きの声は、つかさの唇にふさがれた。
それが、すっと離れたとき、つかさは小さい声で、言っていた。
「大好き……だよ」